袖振れ合うも多生の縁427~全校生の8割が登校拒否したことがあるという、福岡の立花高校の存在は日本の希望の星です!~


先日、NHKのラジオ深夜便を聞いていたら、立花高校の校長ちゃんが出演されていました。校長先生にちゃんづけなんて失礼やないか!とお思いでしようが、この高校の生徒さんたちは校長さんのことを親しみこめて校長ちゃんと呼んでいるのです。下の写真は校長ちゃんの齋藤眞人先生です。何とも穏やかな安らかな優しいお顔であられますね。

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さて、ワタシはラジオ深夜便で校長ちゃんの話をお聞きし、嬉しくなりました。「日本の教育も捨てたもんやないなあ」と。それで立花高校のことを調べてみましたが、同校が監修した本があることを知り、Amazonで早速買い求め、一気に読みました。
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帯に書かれた『一人の子を粗末にする時教育はその光を失う』という言葉は、立花高校創設者安部清美先生(1900~1984)の信条である教育格言です。安部先生は大正から昭和にかけて福岡県福津市の神興(じんごう)小学校で教鞭をとられており、当時「神興教育」として全国的に注目を集め、この言葉は校庭に「神興教育の碑」として刻まれています。又、同和教育の前例となる「融和教育」にも取り組まれたそうです。いゃあ、戦前に同和教育をされるなんて、どれ程のご苦労があったことでしょうか。そんな安部先生は、終戦後日本の教育はどうなるのかと大いに不安を抱かれ、心ある教員達と高等学校を設立しようと決意されたのですが、GHQの戦犯審議対象者となり、頓挫せざるをえなくなったのです。しかし、後に国連大学の学長になられた審議官ヘタス氏が、安部先生は民主的教育者であると査定評価されたので追放を免れ、12年後の唱和32年にようやく明林高等学校として開校にこぎ着けられたのです。この明林高校が、立花女子高校となり、更に立花高校となったのです。因みに、安部先生は福岡県教育長も参議院議員も務められ、東洋のペスタロッチ(スイスの教育実践家で、孤児院の院長をも勤めた。フランス革命後の混乱の中、スイスの片田舎で孤児や貧民の子などの教育に従事)と言われるほど多くの教育者に慕われた方だったそうです。

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ペスタロッチのことはさておき、今年創立64年を迎える立花高等学校ですが、とてつもないほどの紆余曲折があったとか。

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1973年(S48)に立花高等学校と改称した頃、学園紛争の余波を受け生徒数がなんと3名になってしまい経営が破綻、教職員に給与を払えず、家庭科の授業で余った毛糸玉2つが給与代わりに支給されたのです。えー、そらないやろ。センセ方どないしてメシ喰うていくねん。学校が終わってからバイトしてたそうです。先生方はそうまでしても教師を止めようとしなかった。
「教育者たるもの、目の前に5千人の生徒がおろうが3人やろうが同じやないですか。ここで私たちがあきらめたら、この先はどうなるとですか。最後のひとりになっても諦めちゃいかん。」
こんな先生たちの篤い思いに、当時の校長は号泣されたそうです。創設者安部先生の『一人の子を粗末にする時、教育はその光を失う』という思想が多くの先生方に浸透していたんですね。
こうした経緯があり、1970年代後半全国から中途退学者を受入れ、1990年代になると不登校の生徒たちを受け入れるようになったのです。

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フリーライター佐々木恵美さんの校長ちゃんへのインタビュー記事(東洋経済オンライン)や 上記の同校監修著書をワタシなりに要約させて頂きますと・・・

「立花高校は入試で名前を書けば入学できるらしい」。福岡ではずいぶん前からそんな噂が広まっているが、それは事実で、齋藤眞人校長は、このように仰っています。
本校の生徒の約8割は小中学校で不登校になり、障害のある子もいます。そんな子たちがうちの高校に来たいと頑張って試験を受けてくれる。優劣をつけることなんて、できませんから。
入試前お母さんから電話がかかってくることがあります。「入試に私服で行ってもいいでしょうか」と。久しぶりに子どもが中学の制服を着たら、入らなかったそうです。きっと何カ月も、あるいは何年も登校していないのでしょう。外出自体が数カ月ぶりという人だっています。それが親子にとってどんなに大きな一歩か。私たちはもちろん「私服でどうぞ」とお答えします。来てくれるだけで素晴らしいじゃないですか。

入試の日、学校前の長い坂道で緊張のあまり吐いてしまう子もいました。
すると別の子が背中をさすって励ましていました。その光景を見て胸が熱くなりましたね。
当日の朝、「どうしても子どもが家を出ない」という保護者からの電話があれば、前は職員がご自宅まで車で迎えに行っていました。でもそれはやめました。無理して車に乗せるのは違うと思ったから。今は「本人が来ようと思うまで待ちましょう。私たちは来年でもいつまでも待ってますから」と伝えています。
保護者だって本人だって、つらいんです、頑張っているんです。だから入試の日、私たちは祈ります。
「頼むから学校に来て、そして名前を書いて」と。そうすれば、あとは一緒にやって行こうという思いでいます。
「できないことを嘆くより、できていることを認め合う」、これが原点です。われわれは厳しく「あいさつしなさい」なんていう指導はしません。その代わり、生徒を愛おしいという気持ちで教職員が生徒に声かけをしていたら、生徒たちも自然とあいさつしてくれるようになりました。

本校に赴任した時、それまで他校で経験してきた教育環境とはまるで違いました。中でも、生徒と教職員の距離の近さや考え方にショックを受けましたね。例えば濃い化粧をして登校する女子生徒がいて、学校のルールでは化粧はNG。だけど先生たちは「あれは自己防衛やけんね~、あの子は化粧外したら来れんくなるけん、よかよか」と。一人ひとりに寄り添う教育って、こういうことだと思いました。

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まさにこの言葉通り実践されているんですね。でも、折角入学しても不登校になってしまう子もいるので、1996年には公民館で不登校生の為の学校外教室を開設し、現在は5ヶ所で行っている由。それから、2003年に単位制が導入されています。この制度は、立花高校の教育方針を端的に示す合言葉「パイルアップ」に基づいています。再び校長ちゃんの弁をお聞きしましょう。

「パイルアップ」とは、「積み上げる」という意味で、不登校生徒の自立を支援する体制になっています。その一つは、全日制・単位制・2学期制であること。単位制なので留年がなく、取得した単位はなくならずに何年かかっても卒業を目指せます。また2学期制で春と夏に入学・卒業できるため、他校をやめて本校へ入学したい人が春まで待たずに「入り直す」ことができます。通常のクラスで授業に参加するのは苦手でも、登校はできる生徒には、1~3年まで混成で生徒の学びを支援するサポート教室があります。ここが居場所となり、元気に登校できるようになった生徒もいます。家庭から学校までのステップとして、「学校外教室」もあります。登校が難しい生徒のために、県内の公民館など5か所に教師が出向いて授業を行い、出席日数としてカウントします。

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それから、卒業はしたけれどすぐに働くのが困難な卒業生をサポートする為、2012年にNPO法人「パイルアップ」を作りました。以前からお弁当屋さんで卒業生が働ける仕組みを作っていましたが、この年からこのNPO法人が校内でカフェラウンジ「Mama's Cafe」を営業し、そこで働いてもらっています。ここで自信がついたら、社会へ出て働いてほしい。また、社会福祉法人と業務提携して、2014年には学校の敷地に共同作業所「キャリアワーク立花」を開設し、卒業生の自立訓練にも取り組んでいます。

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NPO法人「パイルアップ」や作業所「キャリアワーク立花」を設立しようとされた背景には、あるエピソードがあったのです。それは・・・

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同校監修著書によりますと・・・

福岡市近郊のある中学校から、立花高校に「立花高校のよさこいがカッコいい。教えに来てください」とのメールが来たので、よさこい部の生徒達を連れて出かけて行き、一緒に踊ったのです。中学校の先生方もとても喜んで下さり、シュークリームを差し入れて下さった。
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そしたらよさこいメンバーの2年生の女の子が、「校長ちゃん、ティッシュペーパーもっとる? 弟に持って帰ってあげたい」って。自分は我慢して弟に食べさせてやりたいなんて、本当に優しい子だと嬉しくなり、「自分のは食べなさい。先生のを持って帰っていいよ。」と言ったけど遠慮するので「いいからいいから」とあげたんです。
そしたらその子、パクッと一口食べた瞬間、椅子から立ち上がって「わぁ、美味しい!うち、シュークリーム始めて食べた!」って叫んだんです。私と体育の先生は、トイレに駆け込み号泣です。この子、17年間シュークリームを食べたことなかったんです。初めて食べられるその1個を弟のためらに持って帰ってやろうとした子なんです。
ティッシューで包んだシュークリームを大事に膝の上にのっけとるんですね。「あんた、優しいねぇ」って言ったら、こう返ってきました。「でもね、校長ちゃん、わたし中学の頃ね、”優しいだけじゃ社会に出て通用せん”って言われた」って。
私は誰か知らんがそう言った大人にむしように腹が立ち「なん言いよっとか。そのままでいいんよ」って声かけたら、彼女がボロボロッと涙を流しながら「校長ちゃん、うち変わらんでいいと?」って。「うち、社会に出るのがこわい」って言ったんです。私は泣きながら「大丈夫よ。あんたのその優しさはね、社会に出たと時、みんな可愛がってくれるよ。心配せんでいいよ」と言いました。

学校に帰ってすぐ進路指導室に走っていって、「進路指導やめよう。求人票に合うように子どもたちを変えるんじゃなく、子どもたちに合うような求人票を見つけよう。そういう求人を出してくれる会社を1社でもいいから見つけていこうって、みんなで話し合いました」

ワタシはこの話をラジオ深夜便で聞いたのですが、思わず泪してしまいました。哀しくて、そして校長ちゃんたちの取り組みが嬉しくて。
かくして立花高校は、卒業生の就職支援NPO法人ゃ作業所を開設するだけでなく、地元企業に働きかけ、賛同して下さる方々が激増している嬉しい状況だそうです。

ワタシの母校は受験教育一辺倒(?)の進学校で、ワタシが卒業してから60年、立花高校60年の歩みとわが母校の有り様を照らし合わせるにつけ、何故か深く沈んでしまうワタシなのです・・・。

袖振れ合うも多生の縁426~河合寛次郎さんの言葉って、本当に含蓄がありますよ!~


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石仏ならぬ石猫に「遊ぼ~」とちょっかいを出しているのは、河合寛次郎記念館のマスコットねこのしまちゃんですが、今回はしまちゃんの大好きなご主人の言葉をご紹介しましょう。(ほんまはワタシのお気に入りの言葉なんです。そんなん、分かってますわな)
先ず、館内に掲げられています書から。

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仕事が仕事をしてゐます
仕事は毎日元気です
出来ない事のない仕事
どんな事でも仕事はします
いやな事でも進んでします
進む事しか知らない仕事
びっくりする程力出す
知らない事のない仕事
きけば何でも教へます
たのめば何でもはたします
仕事の一番すきなのは
くるしむ事がすきなのだ
苦しい事は仕事にまかせ
さあさ吾等はたのしみましょう

この言葉が河合寛次郎さんの仕事の姿勢を表していると言ってもいいような気がします、
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入館者みんなに配られるリーフレットに、こんなことが書いてありました。

河合寛次郎は、その生涯を通じいつも子供のように感動する心を失わず、ありとあらゆる物と事の中から喜びを見いだし、そして何よりも人と人生をこよなく愛し大切にした人でありました。寛次郎は「驚いている自分に驚いている自分」と語っております。
私達は誰でも美しいもの、素晴らしいものにめぐりあえたときに感動し、心豊かになるものですが、翻ってそんな感動、そんな思いが出来る素晴らしい自分自身には案外気が付かないものです。寛次郎は、ともすれば私達が忘れがちなそうしたごく身近な心や、形を大切にしました。

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「驚いている自分に驚いている自分」、なかなか味わい深いですね。ワタシもこの歳まで、好奇心だけは子供の頃と比べても減っていないと思います。ですからお陰様で、日々新たに過ごさせて頂いております、ハイ。
この他、ワタシの目にとまった言葉は・・・

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この他にも色々心ひかれる言葉がありますが、きりがないので、関心のお有りになる方は、寛次郎さんの言葉を綴った著書をご覧下さい。
ではでは。
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「おい、まだ終わったらアカン。ワタシの写真をもっと載せてえな。」としまちゃんが言うてますので・・・

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袖振れ合うも多生の縁425~河合寛次郎館は民芸の宝庫です!~

昨年、コロナが第2波と第3波の間をぬうようにして 河合寛次郎記念館を探訪しました。
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京阪電車清水五条駅を降り、五条通り東へ歩み右折、大和大路通りに入ると、処々ですがクラシカルな町家があり、なんだか心が和みました。

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そんな町並みの一角にある河合寛次郎記念館は、寛次郎さんの自宅兼仕事場で、故郷安来の民家の形をもとにして、自ら設計されたのです。
いゃあ、その佇まいからしてほんまにええですよ!

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さて、河合寛次郎さんは、明治23年(1890年)に生まれ、昭和41年(1966年)に亡くなられた陶芸家で、彫刻・デザイン・書・詩・随筆などの分野でも作品を残されています。

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Wikipediaによりますと、寛次郎さんは1921年「創作陶磁展覧会」を東京と大阪の高島屋で開催したが、この陶磁展では中国・朝鮮の陶磁の名作に倣い、科学的研究の成果を取り入れた超絶技巧の華やかな作品を発表し、新人にして名人と一躍注目を浴びた。しかしやがて世評に反し自身の制作に悩むようになり、柳宗悦の集めた李朝の陶磁展「朝鮮民族美術展」を展観し、無名の陶工が作り出す簡素で美しい作品に感銘を受け、“自分の作品は衣装であり化粧であり、中身の体はどうしたのか、心がけはどうしたのか”と自らの作品制作を中断する。そして1924年英国から帰国した濱田庄司に現地で収集した雑器を見せられ、濱田から柳を紹介され、その民芸理論に深く共感し実用的な陶器制作を新たな目標とした。

下の写真は、30年代初期に寛次郎さんが制作されたものですが、民芸品に惹かれる前の華麗な作風が垣間見られますね。
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このような作品も素晴らしいですが、記念館に展示されている素朴な日用品的なものも、どれもこれも味わいがあり、なかなかええな!とワタシは心惹かれたのです。そんな品々をワタシは撮りまくったのですが、その内何点かをご覧頂きましょう。

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陶器の他、彫刻作品も彫刻家専門でない面白さがあるなと感じました。

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館内に置かれている道具類は・・・

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それから、室内の佇まいというか、雰囲気は・・・

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坪庭と窯は・・・
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まだまだご紹介したい画像があるのですが、結構長くなってきましたので次回にしましょう。
最後に、入館者に配られるリーフレットには・・・
日々の生活に素を尊んだ寛次郎のしずかな精神をみることが出来ます。
と書かれています。ワタシも館内を一巡して、素の気をひしひしと味わうことが出来ました。皆さんも、ここに掲載させて頂いた画像で、シンプル・イズ・ベストのスピリットを少しでも感じて頂ければ・・・幸いです。ではでは。


袖振れ合うも多生の縁424~自灯明・法灯明なる教えは、コロナの今こそ活かすべきでは・・・~

コロナ時代のの今、ワタシは自灯明・法灯明なる教えをアタマの中でひとり反芻しながら過ごしています。
処で「自灯明・法灯明」とは、ブッダが亡くなる前、弟子たちに残した言葉なのです。

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「禅の視点」なるブログによりますと・・・

お釈迦様の臨終のお世話をしたのは、十大弟子の一人で「多聞第一」と言われた阿難(アナン)尊者です。多聞とはお釈迦様の説法を一番多く聞いた人という意味でが、その阿難尊者が、お釈迦様に聞きました。
「お師匠様亡き後、私は何をよりどころに生きてゆけばいいのでしょうか。」
お釈迦様は伏せったまま、「自灯明 法灯明」と答えられました。
自分を灯火とし、自分を拠り処として生きていきなさい。又、法(真理)を拠り処とし、他のものを拠り処にしてはいけないと仰られたのです。

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自灯明とは、自分自身を頼りとして生きていきなさいという意味の禅語で、自分自身を灯火として先の見えない暗闇のような人生を歩いていきなさい。ふいに停電した夜に灯すロウソクの明かりのように、頼るものが何もない場所でも、自分を頼りとすることで自分自身が明かりとなり暗闇を照らすことができるように。

もし自分以外の誰かを灯火として、誰かに前を照らしてもらって生きていたのでは、その誰かがいなくなり明かりが消えたとき、人は真っ暗闇のなかをさまようことになってしまう。それは生き方として非常に危うい。

だから他に寄りかかるような生き方はするべきではないと、ブッダは人生の最期に言葉を残したのです。

法灯明とは、要約すれば、真理、つまりは「本当に正しいこと」を頼りにして生きていきなさいという意味の禅語で、それは何かを信じることではなく、何が本当かを見抜き、考え抜く生き方ともいえるものだったのです。

このお釈迦様の言葉が、コロナ時代の今、まさに私達には必要ではないでしょうか。わが国のコロナ対策は、世論にも見られるように、どう考えても適切な対処とは決して言えないと思います。
ですから、国や自治体の指示待ちでなく、法灯明に照らし合わせて自分で考え、自分自身の生活様式を確立し、自灯明を軸として生きていくべきではないでしょうか。
というようなことを思いつつ、コロナが下火になるのともう其処まで来ている春の訪れを、明日か明後日(あす)か明明後日(あさって)か、いつかいつか何時の日か・・・と心待ちにしている昨今のワタシなのです。

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袖振れ合うも多生の縁423~マントラ・真言など、神と繋がる不可思議な言霊について~

ここ数回、祝詞や教典について書いてきましたが、今回はマントラについて。マントラとは、Wikipediaによりますと・・・
マントラ(मन्त्र Mantra)はサンスクリットで、本来的には「文字」「言葉」を意味し、真言と漢訳され、大乗仏教、特に密教では仏に対する讃歌や祈りを象徴的に表現した短い言葉を指す。
そして真言とは・・・
真言(しんごん)とは、サンスクリット語のマントラの訳語で、「(仏の)真実の言葉、秘密の言葉」という意
書かれています。しかしワタシが愛読と言いますか、心の拠り所にしている芦原瑞穂さんの『黎明』(下写真の上は旧版、下は新装版)新装販下巻237~279頁には・・・・
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マントラというのはサンスクリット語で、「マン」は言葉、「トラ」は道具という意味があり、両方合わせて「言葉を用いる道具」となるわけです。明確な意志を持って使用した言葉というものは、想念や具体的行為と同じ様に自然界に対して影響を与えるものであり、人間に内在する神の創造力を発動させるものであるという大原理がマントラの基本になっています。(中略)
マントラの中で神(仏)に意識を合わせるために用いられるものを、日本では真言と呼んでいます。

そうか、日本で言う「真言」は、サンスクリット語の「マントラ」を翻訳しただけじゃないんですね。ところで、どんな詞が神仏に繋がることの出来る真言(マントラ)なのでしょうか?『黎明』新装版下巻から抜粋しシェアさせて頂きます。

ヒンズー教には数多くのマントラがありますが、宇宙ができたときの原初の言葉であり、最高の力を持ち、もっとも良く知られているのは、「アウム・ナマハ・シヴァイ」でしょう。これは「神(シヴァ神)にすべてを明け渡します」という意味を持っています。

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☆キリスト教では、イエス大師が弟子に祈り方を尋ねられて、次のように答えたことから、この言葉を唱えること(The Lord's Prayer)が習慣になっています。
「父よ、御名が崇められますように」
「御国がきますように」
「私たちの日毎の食物を、日々お与え下さい」
「私達に負債のある者を皆赦しますから、私達の罪もお許し下さい」
「私達を試みに会わせないで下さい」
(ルカによる福音書 第十一章 二節~四節)

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この言葉は当時のバレスチナで使われていたアラム語で発音されたものだから、訳文ではその本来の響きが失われているし、長い歴史の中で大勢の人たちによって幾度となく繰り返し繰り返し唱えられてきた為、波動が乱れて所謂手垢にまみれた状態になっているので、イエス様が教えられた当時の力を持っていないそうです。

☆日本神道では、天津祝詞があげられます。

高天原にたかあまのはら(たかまがはら)に神留坐すかむづまります
神漏岐かむろぎ神漏美のかむろみの
命以ちてみこともちて
皇親神伊邪那岐の大神すめみおやかむいざなぎのおほかみ
筑紫つくし日向のひむかの橘のたちばなの小門のおどの
阿波岐原にあわぎはらに
禊祓ひ給ふ時にみそぎはらいたまうときに
生坐せるあれませる
祓戸の大神等はらえどのおおかみたち
諸々禍事罪穢をもろもろまがごとつみけがれを
祓へ給ひ清め給ふとはらいたまえきよめたまうと
申す事の由をもうすことのよしを
天つ神あまつかみ地つ神くにつかみ
八百万神等共にやおよろづのかみたちともに
聞食せときこしめせと
畏み畏みも白すかしこみかしこみももうす

☆仏教では「南無阿弥陀仏」初め色々なマントラがありますが、ワタシは天津祝詞と「般若心経」などを日々唱えていますので、そのような真言によっていつも心安らかに過ごさせて頂いております。『黎明』でも、般若心経の真言をあげておられます。

「ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサムガテー、ボーディ、スヴァーハー」

(往ける者よ、往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、悟りよ、幸い在れ)

数多くあるマントラの内、ごく一部をご紹介させて頂きましたが、
マントラを唱える方法には、マントラの意味を意識せずにただ発音するやり方と、マントラの意味を深く理解して唱える方法の二通りがあり、前者のやり方は心の中に不要な観念を造らないという目的があり、純粋に波動の力に因って心を浄化していくものです。
と『黎明』(新装版下巻239頁)に書かれています。自我意識は、自分の意識しているものに対して不適切な意味を与え、それがあたかも事実であるかのように見せかけるので、要注意だそうです。ですから、意味を知らずに音の波動として唱えると、好ましくない想念が心の中に入る隙がないのが長所です。しかし、自らの実相に意識を向け続けるという本来の目的が抜け落ちて形式だけに終わり、所謂「空念仏」になることも多々あると、芦原瑞穂さんは注意を喚起されています。
ワタシなど、真言の真の意味を深く正しく理解出来るはずもないので、音の波動として唱えるようにしていますが、空念仏にならないように勤めないといけませんね。でも。ワタシが真言を唱えるなんぞ「鬼の空念仏」かも。

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因みに「鬼の空念仏とは、普段は残虐非道な鬼が死者を弔う為の念仏など唱える訳がないことから、上辺だけ繕い殊勝に振る舞うことや、柄にもないことをしているという意味です。
ワタシもそうならないように、明日から心して励みます。ではでは。









































大日経』などの密教経典に由来し、浄土真宗を除く多くの大乗仏教の宗派で用いられる呪術的な語句である。 漢訳経典では、「真言」の他に「密言」、「呪」、「明呪」等と訳される[注 1]

仏の真実の教えは、この宇宙の真理(法)や隠された秘密を明らかにするもので、本来は人間の言葉で表すことはできないが、方便として世俗の文字・言語を借りてそれに教えを盛り込み、これを観想しこれに心を統一することで、その教えに触れ得るようにしたものが、密教における真言であるとされる。 空海は、真言について「真言は、不思議なものである。本尊を観想しながら唱えれば無知の闇が除かれる。わずか一字の中に千理を含む。この身のままで真理を悟ることができる。」と記している[2]

仏尊ごとに真言があり、それぞれ出典となる経典が存在する。例えば同じ仏尊でも、成立の過程が異なる『大日経』(胎蔵界)と『金剛頂経』 (金剛界) では真言が異なる。

真言宗の名称は「真言」に由来するが、真言は真言宗のみで使われるものではない。例えば般若心経の最後にある「羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶[tadyathā] gate gate pāragate pārasaṃgate bodhi svāhā)」も真言であり、浄土真宗などを除く多くの宗派で読まれている。禅宗においても、消災吉祥陀羅尼大悲心陀羅尼などが日常的に唱えられる。

袖触れ合うも多生の縁422~般若心経は、ワタシの幼なじみなんです。~

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「般若心経」はワタシの幼馴染みなんです。と言いますのは、中学生の頃、母親が何を思ってかワタシに般若心経を毎晩唱えて欲しいと言ったのです。お寺の小僧でもないのに「ふん。えゝよ。」と何故か返事し、以来毎晩就寝前に唱えていますから、もうかれこれ60数年になるでしょうか。
この般若心経についての想い出は、確か以前に書いたと思いますが、幼児の頃母方の祖母の家で遊んでいたら、お婆ちゃんが仏壇に向かってお経を上げていたのです。聞くともなしに聞いていると、「ギャーテーギャーテーハラギャーテーハラソウギャーテーポジソワカ」という謎のような意味不明の文句が耳に残り、その文句はずっとアタマに残り続け、これって一体何やろ? 不思議な言葉やなあ・・・と思っていましたが、いつの頃か、それが般若心経の真言であると分かったのです。
そしてその後、演劇の世界に身を投じ、OSKで演出するようになり、薬師寺の玄奘三蔵院落慶法要記念公演として、「SANZO」をやらせて頂きました。
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そして打ち上げの宴席で、薬師寺の管長であられた高田好胤さんにその話をすると、「えゝ、話ですなあ。」と喜んで下さいました。
それは兎も角、般若心経の意味を復習する為、瀬戸内寂聴さんの全訳と解説をシェアさせて頂きました。

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観自在菩薩:観音さまが
行深般若波羅蜜多時:彼岸に渡る為悟りにいたる為の行を行う時、
照見五蘊皆空:人間の心の感受し認識する五つの要素がすべて空であると考えて、 
度一切苦厄:私たちの一切の苦を救ってくださったのである。

人は彼岸(苦のない浄土)に渡るために、行をしなければならない。
つまり、六つの行をする。これを六波羅蜜という。
すなわち、布施(ふせ)・持戒(じかい)・忍辱(にんにく)・精進(しょうじん)・禅定(ぜんじょう)・智慧(ちえ)である。
布施とは施すことである。
持戒とは、してはいけない戒律を守ることである。
忍辱は辛抱すること。
精進とは努め励むこと。
禅定は座禅をすること。

五蘊(ごうん)とは、色・受・想・行・識のことである。
色とはもののことである。現象の世界である。
受とは感覚のことである。目で見て感じることである。
想は知覚作用のことである。たとえば寒暖を感じること。
行とは意志の作用である。自分に無礼をはたらく相手には、つい憎みたくなる。
識とは認識することである。色と受と想が結びつくと認識がおこる。
ものがあって、それを感じる心、つまり識があれば
はじめて、ものが存在することがわかる。

我々は、眼、耳、鼻、舌、触感の五感で感じる。
身体で感じたことを心で意識する。
ものがあっても、それを見ても目に入らなければ、ないのと同じことである。
たとえば歩いていて、何かに気がとられていると、道を歩く人が誰だか気がつかないことがある。
道の草も知識があれば、それが薬草だとわかるとおろそかに歩けないが、知らないと何の価値も感じないから、ないのと同じことになる。つまり、ものがあっても、それを認識しなければ、まさにないのと同じことである。

舎利子 :観音さまは舎利子に向かい、次のように述べた。舎利子よ、
色不異空:ものがあっても、感じる心がなければ、ないことと同じであり、
空不異色:ないということも、感じる心があれば、そのものはあるのと同じである。
色即是空:だから、形あるものは、実はないものであると考えてよいし、
空即是色:ないものと思うことも、実はあるものであると考えることもできる。
受想行識:色以外の残りの、心の四つの働きについても、
亦復如是:まったく同じことなのである。

人は死んだら日本では火葬される。死体は煙となって空中に飛び、あるいは灰となる。
つまり人間の身体を構成する有機化合物は元素に分解されるわけである。
それらは、植物や微生物の栄養となり、やがて動物や人間の身体となる。
だから、目の前に見える人間もいつか死んでしまう。そして、人間は死んでも元素はなくならない。
人間や家畜という形があっても、それらはつかのまの存在にすぎない。
しかし、ないかというと元素というものになっているし、その後また別の生き物の身体を構成している。

舎利子   :舎利子よ、
是諸法空想:この諸々の法は、実体がない、ということであるから、
不生不滅:もともと、生じたということもなく、滅したということもなく、
不垢不浄:よごれたものでもなく、浄らかなものでもなく、
不増不減:増えることもなく、減ることもないのである。

万年雪をいだく山も下界に近い方では雪解け水が流れる。
やがて水は集まり川となり、ついには海に注ぐ。海の水も蒸発をして天の昇り雲を作る。
雲は雨を降らせ時には雪を降らせ、ヒマラヤの雪を作り、黄河の水となる。
このように水は循環する。そして、地球の外に出ることもないし、地下にしみこんでなくなっていくものでない。
つまり、水は減らないのである。もちろん増えることもない。
これは水にだけとどまらず、地球を構成する物質の元素はしばしの間、化学結合により様子を変えることはあっても、本質的な量は不変である。つまり、ものは増えも減りもしないのである。

動物の排泄物は汚れているというけれど、やがて微生物が分解して、無機物に変えてくれる。
本質的な元素は減りも増えもしないで。そして、無機質がまた別の微生物や植物の働きで、動物の栄養となる物質に作りかえられ、動物の餌となるのである。
長い目で見れば、汚れたままであるものはなく、汚れた状態はほんに一時のことで、世の中には汚れたものも、清浄なものもないのだと言える。

是故空中無色:したがって、実体がないということの中には、形あるものはなく、
無受想行識:感覚も想うことも意志も認識もないし、
無眼耳鼻舌身意:眼・耳・鼻・舌・身体・心といった感覚器官もないし、
無色声香味触法:形・音・香・味・触覚・心の対象、といったそれぞれの器官に対する対象もないし、
無眼界乃至無意識界:ものがないから見る世界もない。意識する世界もないのである。
無無明:我々の心に迷いがいっぱいという無明が無いとするなら、
亦無無明尽:無明を無くしつくすことになる。
乃至無老死:無明がなくなれば、行もなくなり、識もなくなり、名色もなくなり、ついには老と死もなくなり
亦無老死尽:老と死がつきることになる。 
無苦集滅道:苦しみも、その原因も、それをなくすことも、そしてその方法もない。
無知亦無得:知ることもなければ、得ることもない。

生老病死の四苦に愛別離苦を加えると八苦となる。
この八苦を解決するために、苦集滅道(くしゅうめつどう)つまり四諦(したい)がある。
苦諦 苦の真実がある。
集諦 苦の原因を考える。
滅諦 その原因をなくする方法を考える。
道諦 その方法を実行する。
般若心経では、苦集滅道はないと説いている。つまり四諦とかは知っていればいいことで
それにとらわれてはいけないと言っているのである。
私が考えるに、四諦というのはひとつの理想であって、世の中にはそれができない場合はいっぱいある。
よって、四諦というものをいつもあると思っては間違いなのであろう。

以無所得故:かくて、得ることもないのだ。
菩提薩垂:菩薩になるため菩薩行を一生懸命つみ、
依般若波羅蜜多故:般若の智慧を体得できたならば、
心無圭礙:すべての不安や畏れから解放されて、
無圭礙故:心にこだわりを持たなくなるから、
無有恐怖:何ものも恐れなくなる。
遠離一切転倒夢想:ものごとを逆さにみる誤った考え方から遠ざかり、
究境涅槃:永遠にしずかな境地に安住しているのである。
三世諸仏:過去・現在・未来にわたる”正しく目覚めたものたち”は
依般若波羅蜜多故:知恵を完成することによっているので、
得阿耨多羅三藐三菩提:この上なき悟りを得るのである。 

故知:したがって
般若波羅蜜多:悟りに至る行は
是大神呪:大神呪であり、
是大明呪:大明呪であり、
是無上呪:無上呪であり、
是無等等呪:比較するものがない最上の呪文なのである。
能除一切苦:これこそが、あらゆる苦しみを除き、
真実不虚:真実そのものなのである。

大神呪は、声聞のとなえる呪文である。
大明呪は、縁覚のとなえる呪文である。
弘法大師は大乗の中でもここまでを顕教の真言だと言っている。
無上呪は、菩薩のとなえる呪文である。
無等等呪は、くらべるもののない、最上の呪文である。密教の真言に当たると弘法大師は説いている。

声聞は、人の話を聞いて、ああそうかと早合点して悟ってしまうもの。
インターネットの知識や電子メールで教えてもらって、それで満足する人間か。
縁覚は、正式に導師につかず、勝手に自己流に学んで悟った思っているもの。
なんだか自分のことをさされているみたい。ドキッ
菩薩は、修行してやがて仏になろうとしているもの。あるいは、菩薩は、仏が人間を救うために、人間の世界にあらわれたものと考えられる。

般若心経は、声聞にも縁覚にも、大乗の菩薩にも通用する陀羅尼(だらに)である。
ここで陀羅尼とは、呪のことである。呪とはマントラ(真言)のことである。
呪は神呪(じんしゅ)ともいい、如来の真実の言葉である。

故説般若波羅蜜多呪:そこで最後に、知恵の完成の真言を述べよう。
即説呪曰:すなわち次のような真言である。
羯帝羯帝波羅羯帝:往け、往け、
波羅僧羯帝:彼の岸へ。
菩提:いざともに渡らん、
僧莎訶:幸いなるかな。
般若心経:知恵の完成についてのもっとも肝要なものを説ける経典。

ふむふむ、成る程。少し分かったような分からないような・・・。ですから何度も読み返し、アタマで考えず、日々の行いの中で捉えるように致します。
処で下の写真は、米粒に写経した般若心経で、その下は世界一大きな般若心経といわれている浜松市龍雲寺のものです。

米粒に書いた般若心経1.jpg
世界一大きな般若心経3.jpg
それはさておき、瀬戸内寂聴さんは天台宗ですが、ワタシの実家の宗旨は浄土真宗で、浄土真宗は般若心経を唱えないと聞いていたので、母の葬儀の際、旦那寺のお住さんに「母は般若心経が好きで、よく唱えていたのですが、般若心経を母にあげても良いでしょうか」と訪ねたところ、「般若心経は難しいお経で、唱えても故人には分かりませんから、止めなさい」と突き放すように言われました。このお住さんアカンと思い、ワタシは檀家であることを止め、毎晩母に般若心経を唱えております、ハイ。
そんな訳で、Wikipediaにて各宗派に於ける般若心経への考え方を調べてみました。

日本では仏教各派、特に法相宗・天台宗・真言宗・禅宗が般若心経を使用し、その宗派独特の解釈を行っている。浄土真宗は「浄土三部強」を、日蓮宗・法華宗は「法華経(妙法蓮華経)」を根本経典とするため、般若心経を唱えることはない。これは該当宗派の教義上、所依経典以外は用いる必要がないとされ、唱えることも推奨されない。しかし教養的な観点から学ぶことは問題視されておらず、例えば、浄土真宗西本願寺門主であった大谷光瑞は般若心経の講話録を出版している。と書いてありました。
そうか、門主さんでそういうお方もいらしたんですね。そうそう、ある本に<般若心経は自力的意味合いがあり、他力本願が宗旨の浄土真宗は唱えない>と書いてありました。これならワタシはナットクできますが、某お住さんの発言、「難しいから故人にはわからない」との言いぐさはどないなもんでしょうか。それはさておき、天台宗や真言宗で般若心経は・・・

★天台宗では「根本法華」として重視している。また最澄作とされる般若心経の注釈がある。

★真言宗では、読誦・観誦の対象としている。日用経典(日課等通常行事用の経典)であり儀典でも用いる。繰り返し読誦する場合は、一回目は冒頭の「仏説」から読み始めるが、2回目以降の読誦では「仏説」を読まず、「摩訶」から読む慣わしとなっている。開祖空海が般若心経を重視したことで、注釈・解釈を著す僧侶・仏教学者が多く、昭和では高神覚昇(1894 - 1948)『般若心経講義』(角川文庫で再刊)、平成の現在では宮坂宥洪『真釈般若心経』、加藤精一『空海「般若心経秘鍵」』(各角川ソフィア文庫)松長有慶『空海 般若心経の秘密を読み解く』(春秋社)などの著作が版を重ねている。高神の解釈書は、戦前にNHKラジオ放送で行われ、経典解釈として非常に評価が高く多数重版し、異なる宗派の僧侶や仏教学者からも評価されている。

★浄土宗も、根本経典は浄土真宗と同様に『浄土三部経』だが、祈願の時と食作法(食事の時の作法)にのみ唱える。

★時宗では、神社参拝及び本山での朝の勤行後に、熊野大社の御霊を祀る神棚に向かい三唱することが必須となっている。日用に用いる場合もある。

★臨済宗では、日用経典の一つ。名僧で名高い一休宗純・盤珪・白隠が解釈を行っている。般若心経とは自分の心の本来の姿を現した経典であるという仏説をみなす説が強い。

★曹洞宗では、日用経典の一つ。開祖道元が正法眼蔵の中で解釈し、かつて異端の僧とされた天桂伝尊(1648 - 1736年)の「観自在菩薩とは汝自身である」という解釈が著名である。また良寛・種田山頭火など般若心経の実践に取り組んだ僧侶も多い。良寛は般若心経の大量の写経を残しており、種田は般若心経を俳句に読み込んでいる

★修験道では、修験者(山伏などの行者)が「行」を行う際に唱える。神道でも唱えるところがある。神社(神前)で読誦の際は、冒頭の「仏説」を読まずに、「摩訶」から読む。また、前もって「般若心経は仏教の全経典の中から選りすぐられた経典であり、それを謹んで捧げます」というような内容の「心経奉讃文(しんぎょうほうさんもん)」を読み上げる場合もある。

各宗各派で、色んな対応があり面白いですね。ところで、山頭火が般若心経を読み込んだ俳句は
山へ空へ摩訶般若波羅密多心経
です。
ワタシも自然の中で般若心経を称えてみたいものです。
ではでは。

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袖振れ合うも多生の縁421~ひふみ祝詞は天岩戸開きの際に称えられたって、ご存じでしたか?~

「ひふみ祝詞」なる祝詞があり、ワタシは称えてはいませんが、とても気になる祝詞なのです!
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と言いますのは、現在の「ひふみ祝詞」は上図のような詞で、日本語の一音も重なることがない四十七音の清音(濁音、半濁音を除く)を祝詞にしたものです。この祝詞は私達に大きなパワーを与えてくれると共に、最も浄化力が強い祝詞の一つと言われています。処で大昔の「ひふみ祝詞」は、私たちが数を数える時に用いる「ひぃ、ふう、みい、よぉ、いつ、むう、なな、 やあ、ここの、とうぉ」で「もちろらね」以下はなかったとか。ひ(一) ふ(二) み(三) よ(四) い(五) む(六) な(七) や(八) こ(九) と(十)は誰でも分かりますが、「もちろらね」とは、も(百)ち(千)ろ(万)ら(億)ね(兆)なのです。
さて、この原初「ひふみ祝詞」が最初に称えられたのは天岩戸神話だったとか。あ、神話てフィクションやと思てはるかも知れませんけど、ホンマにあったことかも知れへんのですよ。
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それは兎も角、上の絵巻は天岩戸絵巻ですが、天照大神(あまてらすおおみかみ)が素戔鳴尊(すさのおのみこと)の乱暴狼藉に怒り天の岩屋戸に籠もったため世の中が真っ暗闇になり、困った神々が集い天照を岩屋戸からお出まし頂こうと画策する。この時、天鈿女命(あめのうずめのみこと)がホト、女陰を見せ妖艶に踊ったのは良く知られています。しかし天児屋命(あまのこやねのみこと)が「ひふみ祝詞」を唱えたのは知られていません。

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「日本書紀」には、天児屋命が天香山の繁った榊を掘り起こし、上の枝には八坂瓊之五百箇御統(やさかにのいほつみすまる)をかけ、中の枝には八咫鏡をかけ、下の枝には青い布帛(ふはく)と白い布帛をかけ祈祷をした。と書かれていますが、祈祷する際、どのような詞を称えたのかは書かれていません。

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しかし、イスラエルの言語学者(ヘブル語・英語・フランス語・ドイツ語・ペルシア語・イェディッシュ語・アラビア語の7カ国語に堪能)にして京都の護王神社の神官でもあられるヨセフ・アイデルバーグさん(写真下)の著書「日本書紀と日本語のユダヤ起源」(写真左)によりますと・・・

各地に伝わる伝承(古い文献や神楽など)では、天児屋命の称えた詞は「ひぃ ふう みい よぉ いつ むう なな  やあ ここの とうぉ」という言葉であり、このような言葉を称えられた天照大神は・・・                    
「頃者(このごろ)、人、多(さわ)に請(こ)うと雖(いえ)ども、未だ若此(かく)言(こと)の麗美(うるわ)しきは有らず。」 (「これまで人が色々な事を申してきたが、未だこのように美しい言葉を聞いたことはなかった」)と申され、磐戸を少し開け様子を窺った。
その時、磐戸の側に隠れていた天手力雄神(たぢからおのみこと)が磐戸を引き開けると、日神の光が国中に満ち溢れた。このように「日本書紀」一書第三に記述されていると、
ヨセフさんは書かれておられます。

そこで、ワタシも念のため「日本書紀」を紐解いてみたのですが、成る程このように書かれていました。しかし「ひぃ ふぅ みぃ よぉ・・・」という称えの詞を受けた天照大神は、何故麗しい詞を聴いたと喜ばれたのでしょうか!?
その訳をヨセフさんは、こう解き明かされています。

<ひい、ふう、みい、よお・・・>を外国人が日本語を喋るように訛らせると、<ヒイ、ファ、ミー、ヨオ、ツィァ、マー、 ナネ、ヤー、カヘナ、タヴォ(HI・FA・MI・YO・TSIA・NANE・Y・KAKHENA・TAWO)>と古代ヘブライ語になり、区切りを少し減らして書くと、「ハイアファ、ミー、ヨツィア、マー、ナーネ、ヤカヘナ、タヴォ」となり、このヘブル語は、
「誰(た)がその美しき御方(おかた)を連れ出(いだ)すのやら。その女神の出(いず)るが為の誘(いざな)いに如何なる言葉(ことのは)を掛けるのやら」という意味なのです。

そうか、こういう意味やったらアマテラスはん、喜びますわな。
そやけどコヤネはんはヘブル語由来みたいな、ヘブル語まがいの詞をホンマに称えたんやろか? ちゅう疑問が沸いてくるんですが、それに対しヨセフはんは、祝詞を称えるお役目の天児屋命の「コヤネ」とは、ヘブル語で「祭司」という意味であるとか、同書で日ユ同祖論を滔々と述べておられます。日ユ同祖論はフェイクやと言う識者もいてはりますが、この件に深入りすると迷宮入りになるので棚上げにしておきます。

指数え.png
処で、日本語の数の数え方には<いち・に・さん・し>と<ひ・ふ・み・よ>、これに似た<ひとつ・ふたつ・みっつ・よっつ>という数え方がありますよね。<いち・に・さん・し>は、中国語の<イ・アル・サン・スー>から来ているとか。でも、<ひ・ふ・み・よ>はヨセフさんの言うようにヘブル語からだとすると、<ひとつ・ふたつ・みっつ・よっつ>という言葉もヘブル語なのでしょうか? こんなワタシの疑問に対し、ヨセフさんはこのように答えてくれています。

天児屋命が「ひふみ祝詞」を唱えた時、周りの神々が合いの手として「TETSE!(テツ。出てこい、出給え!の意)」の言葉を唱和しました。そこから「ひい-てつ、ふぁ-てつ、み-てつ…」が、「ひとつ、ふたつ、みっつ…」となったのです。でも「とお」に「てつ」が付いてないのは、ヘブライ語の「TAWO」は「(彼女は)出てくる」という意味ですから、「出てこい」という言葉を唱和する必要がないので、「とおてつ」とならなかったのです。

ふーん、そうなんか・・・。それはそうと、現在称えられている「ひふみ祝詞」てどんな意味なんでしょうか?なんだかチンプンカンプンですね。下の図は古代文字カタカムナで書かれたひふみ祝詞ですが、これなんか益々分かりませんわな。

カタカムナひふみ祝詞1.jpg
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でも、しかし、しかしですね、PCをあれこれ検索していますと『図書館カフェ HABI ROAD』なるブログを見付けました。そのブログに「ひふみ祝詞」の現代語訳が載っていたので、シェアさせて頂きました。

「ひふみよいむなやこともちろ」は「一二三四五六七八九十百千万」
「らね しき るゆゐ」は「蘭 敷き 縷結い(真麻蘭、マオラン、ヘンプの原料の葉を 敷き 紡ぎ結い)」
「つわぬ そを た はくめ」は「強ぬ(い) 襲(麻)を 多(数) 育め」
「かうお えにさり」は「交う悪 恵(方)に去り」
「へての ます あせ」は「辺天(神)の 枡 畦(田んぼ)」
「ゑ ほれ け」は「ゑ(しっかり)掘れ(耕せ) け(ということぞ)」

「一二三四五六七八九十百千万と麻(マオラン)を蒔きなさい。

そうすれば結ばれてきますよ。

生命力が強い大麻をたくさん育てれば、交流してくる罪穢れが

遠くに去るから、天から与えられた田畑を汗水たらして、

一所懸命に耕すことができます。」

という意味になります。

このような意味を持つひふみ祝詞は呪力を持った祝詞と言われており、『先代旧事本紀』では、天照大神が孫の天津日高日子番能邇邇芸命(アマツヒコヒコホノニニギノミコト)に『十種神宝(とくさのかんだから)』を授け鎮魂法を伝授し、天孫降臨させたと書かれています。

アマテラスとニニギ1.png

『若し痛むところ有らば此の十種の神宝を令て、一、二、三、四、五、六、七、八、九、十と謂ひて布留部(ふるへ)。

如く為せば、死人(まかれるひと)は反(かえ)りて生きなむ』

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死者が蘇る!? スゴイやないですか!
ですからこの祝詞は、天岩戸の昔から物部神道の鎮魂法「布瑠(ふる)の言(こと)」として、荒ぶる魂を鎮め死者をも蘇えらせると伝えられ、今も神道の祓え詞として奈良の石上神宮(いそのかみじんぐう)などで用いられているそうです。ではでは。

石上神宮1.jpg
    




袖振れ合うも多生の縁420~ワタシは「大祓詞」に「天津祝詞の太祝詞事」を挟み、サンドイッチ祝詞にしています!~

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ワタシは大祓詞(おおはらえのことば)を数年前から毎朝称えているます。
Wikipediaに依りますと、この祝詞は平安時代から大祓式で行われているとか。この詞の作者は、天照大神(あまてらすおおみかみ)が天の岩屋に隠れましました時、祝詞を奏した神様、天児屋命(あまのこやねとみこと(下イラスト)の孫・天種子命(あまのたねこのみこと)という説や、天智天皇のとき中臣金連が祓詞を献じたとも言われていますが、定かではありません。

天児屋命1.jpg

天種子命.gif
さて、この祝詞は称えてみると結構リズム感があり、ワタシは文章や台詞を書く時リズムを大切にしているので、作者の天種子命さまに共感を覚えているのであります。
それは兎も角大祓詞は百官男女(お役人)はじめ、天下万民が知らず知らずのうちに犯した種々の罪穢を除き払う為に、毎年6月と12月の晦日(末日)に京の朱雀門で行われる大祓式で称えられていました。

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上の写真は現代のものですが、昔の大祓は大祓に参集した皇族・百官に対して「祝詞をよくお聞きなさい」という内容の文言から始まっていました。これは当初の大祓詞が、参集者に対して宣り聞かせるものだったのです。今日の大祓詞ではこの部分は省略されていて、葦原中国(あしはらのなかつくに)の平定から天孫降臨し、天孫が日本を治めることになるまでの日本神話が語られ、更にそのような国の民が罪や穢れを犯してしまった場合の祓い方が述べられています。

大祓詞3.jpg
大祓詞1.jpg
上の写真の大祓詞をご覧頂きますと、左端末尾に「天つ祝詞の太祝詞事を宣れ」と書かれていますよね。つまり、犯した罪・穢れを祓う為に天つ祝詞の太祝詞事を称えなさいと書かれているのです。では、その「天津祝詞の太祝詞事」とはどのようなものなのか?

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この書は八幡書店が、文化12年の木版本『天津祝詞考』を、明治33年の活字版『天都詔詞太詔詞考』を底本として復刻したもので、同書店の説明によりますと・・・

大祓詞中に「天津祝詞の太祝詞事を宣れ」とあるが、その「天津祝詞の太祝詞事」とは何か。
賀茂真淵、本居宣長は大祓詞自体のことであるとする説を唱えた。
これに対して平田篤胤は『古史伝』で「天照大神から口伝の天津祝詞之太祝詞事という祝詞があり、中臣家に相伝された」という説を唱え、さらに本書『天津祝詞考』では、イザナギが阿波岐原で禊祓をしたときに発した言葉であるとし、様々な古社や神道流派に伝わる禊祓の祝詞を研究・集成し「天津祝詞の太祝詞事」 を具体的に選定した。これは単独の祓詞として、大本はじめ神道系教団の多くで唱えられる「天津祝詞」の淵源とされる。あわせて収録の大国隆正『天都詔詞太詔詞考』は、天津祝詞=トホカミエミタメ説をフトマニ論から説き起こしたもので、同時に大祓詞の全段にわたり註釈を試みたものとしても注目される。

又、神仏ネットなるHPによりますと・・・

天津祝詞は、大祓詞のように1000年以上前に生まれた言葉ではなく、江戸時代に平田篤胤という国学を大成した本居宣長の弟子によって編纂された祝詞です。そもそも天津祝詞という言葉は、神道の祝詞でも最も重要と言われる大祓詞の中に出てくる言葉で、儀礼の中で神々に申し上げるとても重要な詞と言われています。平田篤胤はこの重要な天津祝詞を様々な神代文字等を含む文献から祝詞にふさわしい良い言霊を持つ言葉を選びに選び編纂したと言われています。

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天津祝詞太祝詞1.jpg
そして神仏ネットさんは、天津祝詞の少々省略された部分や現代語で訳しにくい部分を意訳していますので、シェアさせて頂きます。

(様々な神々がいらっしゃる天上世界の)高天原に、いらっしゃいます、

かむろぎ,かむろみの神様からお生まれになった、イザナギノ大神が、

筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原というところにて、

禊祓いをされました時に、お生まれになりました、祓戸の大神たち様よ、

(私たち人類が生んだ)様々な罪、穢れ、厄災を祓い、清めくださいと申し上げることを、

天津神、国津神この世の様々な神様とともに、お聞きくださいませと、恐れ多くも申し上げます。

天津祝詞太祝詞3.jpg

この後、『大祓詞』の後半は・・・

大祓詞後半1.jpg

私たちの犯してしまった罪が、どのようにして祓われて行くのかが述べられています。
まず、瀬織津比売(セオリツヒメ)という神が、罪を海へと押し流します。
すると、速秋津比売(ハヤアキツヒメ)という神が、がぶがぶと海水ごと罪を飲みこみます。
更に、気吹戸主(イブキドヌシ)という神が、その罪を根の国・底の国に吹き飛ばします。
そして、速佐須良比売(ハヤサスラヒメ)という神が、その罪を持って、あちこちをさすらいます。
そうしてさすらっているうちに、罪が消えて行きます。

瀬織津比売など四柱(よはしら。神様は「柱」と数える)の神様を「祓戸(はらえど)四柱の大神」と申し上げ、「天津祝詞太祝詞事」で称える「生坐せる祓戸の大神等(あれませるはらえどのおおかみたち)」とは、この四柱の神々なのです。皆様が願おうと願うまいと、四柱の神は人間の罪穢れを祓って下さっているのかも・・・だとしたら、有り難いことですね。そんな訳で(どんな訳やねん?)、ワタシは大祓詞の「天つ祝詞の太祝詞事を宣れ」に続いて、太祝詞事を称え、続いて大祓詞の後半を称えております。そうするとどんな変化があるのか・・・それは目下のところ何も感じられないのですが、何か起こりましたら、ブログに書かせて貰います。
ではでは。
祓戸の大神1.jpg

袖振れ合うも多生の縁419 ~大元造化三神報恩之祝詞を称えるようになりました!~

今年もはや9日、マイブログの第2回目は『大元造化三神報恩之祝詞(だいげん ぞうか さんじん ほうおんののりと)』、通称「天之御中主神之祝詞(あめのみなかぬしのかみののりと)であります。「え、何や、それ!?」と仰る方もおられるでしょうが、ワタシは昨年からこの祝詞を毎朝称えております。それは兎も角、先ず「造化三神」とはどのような神様であられるかをご説明しましょう。

造化三神1.jpg
造化三神4.jpg
造化三神とは、「古事記」の冒頭、天地創生・天地開闢(てんちかいびゃく)神話の最初に登場する、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、高御産巣日神(たかむすびのかみ)、神産巣日神(かむみむすびのかみ)の三柱の神様です。
天之御中主神(写真下)は最高神で、高御産巣日神(写真下の下)は天の生産・生成の創造神、神産巣日神(写真下の下の下)は地の生産・生成の神とされています。
天之御中主大御神1.jpg
高御産巣日大御神1.jpg
t神産巣日大御神1.jpg

この「大元造化三神報恩之祝詞」は、造化三神へ御恩を申し上げる際に用いる祝詞で、称えるのは神棚ではなく「無形の大空に向かい奏上すべき祝詞」だそうです。三柱とも天孫降臨以前の神であり地上を治めていない為、神棚ではなく天空に向かい、天地への日頃の感謝を奏上するものとされています。

大空1.jpg
       
ではでは、『大元造化三神報恩之祝詞』の全文と現代語訳をご覧頂きましよう。                                   
                                              
掛巻(カケマク)もいとも畏(カシコ)き天地(アマツチ)の元津神(モトツカミ)
言葉に掛けて申し上げるのも恐れ多い天地の根源の神様

天御中主之大御神(アメノミナカヌシノオオミカミ) 高皇産霊之大御神(タカミムスビノオオミカミ) 神皇産霊之大御神(カムミムスビノオオミカミ)達の
あめのみなかぬしの大神様、たかみむすびの大神様、かむみむすびの大神様達の

奇(クス)しく妙成(タエナル)御恩頼(ミタマ)に依(ヨリ)て
不思議で絶妙な恩恵によって

此現世(コノウツシヨ)に生出(アレイデ)たる身にし有れば
この世に生まれ出てきた私たちの身の上ならば

其本津(ソノモトツ)御恵みに報い奉らむとして 稱辭竟(タダヘゴト)奉(マツ)らくは
その恩恵に報い奉ろうとし、お称え申し上げますと

弥高(イヤタカ)く底氷(ソコヒ)無き高天原(タカマノハラノ)の幽界(カクリヨ)をしめし給ひ
いよいよ高く、底知れぬ天上界の幽界を主宰され

始(ハジメ)も無く終(ヲハリ)も無く常磐(トキハ)に堅磐(カキハ)に鎮(シズマ)り座坐(マシマシ)て 
始めも終わりもなく、盤石に永遠にお鎮まりになられて

眼に見えぬ元津(モトツ)気(ケ)は百不(モモタラズ)八十(ヤソ)の神 気(ケ)を生給(ナシタマ)ひ
目に見えない根源のエネルギーは、百に及ばんとする神々のエナジーを生じ給い

眼に所見(ミユネ)物形(モノハ)は日(ヒ)の御國(ミクニ) 月の御國 星の御國
目に見えるものは日輪の昼の世界、月星の夜の世界を主宰され

亦(マタ)是れ地球(オオツチ)に在(アリ)ては現(ウツ)しき蒼生(アヲヒグサ)を始め
またこの地球にあっては現世を生きる人たちを始め

息有(イキアル)を息無(イキナシ)も世に在(アリ)とし在物(アルモノ)の限(カギリ)を産化(ウム)し出(イデ)
息する生き物も息をしないものも、この世にあるあらゆるものすべてを生み出し給い

宇斯波伎(ウシハキ)護(マモ)り 幸(サキハ)へ給(タマ)へる御化功(ミイサヲ)の
保護なさりお守り下さり、幸をお与え下さる功績の

大(オホ)き久(ヒサシ)き廣(ヒロ)き厚き大愛(オオムウツクシミ)を蒙(カガフ)りて 
偉大で悠久で、広くて厚い壮大な愛を蒙り

此現世(コノウツシヨ)に在(アラ)む限(カギリ)は大御神達(オオミカミタチ)の本津御心(モトツミココロ)の随(マニマ)に
この現世に生きている限りは、大神様たちの元なる御心そのままに

此心(コノココロ)を盡(ツクシ)て捲事(ウムコト)無く 此身を務(ツトメ)て怠事(オコタルコト)無く
この真心を尽くし飽きることなく、怠けることなく

敬(ウヤマ)ひ畏(カシコ)みも仕奉(ツカヘマツ)る状(サマ)を平(タイラ)けく安(ヤスラ)けく聞食(キコシメシ)て 
尊敬し畏怖の気持ちでお仕えする様をお心も穏やかにお聞き下さいまして

四方(ヨモ)の國の蒼人草(アオヒトグサ)をして 天地(アメツチ)の神理(カムワザ)に違不令(タガハシメズ) 開世(ヒラゲヨ)に遅れしめず
全世界の人々を天地の神理に違わせず、開けた世の中に後れさせること無く

種々(クサグサ)の禍(ワザワヒ)無く 恙(ツツガ無く令在給(アラシメタマ)ひ
様々な災難が無く、つつがなく存在させて下さり

夜(ヨ)の守り日(ヒ)の守(マモリ)りに護(マモリ)り 恵幸(メグミサキハ)へ賜へと
夜も昼も昼夜分かたず守り、幸をお恵みお授け下さいと

眞空(ミソラ)遙に拝(ヲロガ)み奉(マツ)らくを白(マヲ)す
大空遥かに拝ませて頂きますと申し上げます。

この祝詞は、数年前から称えている大祓え詞に比べると、難しい古語が用いられていず、わかりやすいですね。それに、称えているとリズム感があり、何とも心地よいのです!
では、この祝詞を称えると、どんな御利益があるのか!?
・・・なんてことを思わずに、ただ無心に称えると、穏やかな安らかな心地になり、健やかな心身となり、免疫アップで新型コロナに負けないと思いますよ。あれ、やっぱり現世利益があるのかな???

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袖振れ合うも多生の縁418~元旦に宮中で行われる皇室祭祀、四方拝で称える詞は?~

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明けましておめでとうございます。

今年もワタシのブログをご覧頂き、有り難うございます。気紛れで何を書かせて頂くか定かではありませんが、よろしくお付き合い下さいますよう。

賊冦之中過度我身(ぞくこうしちゅうかどがしん 賊冦の中、我が身を過し度せよ
毒魔之中過度我身(どくましちゅうかどがしん 毒魔の中、我が身を過し度せよ
毒氣之中過度我身(どくけしちゅうかどがしん 毒氣の中、我が身を過し度せよ
毀厄之中過度我身(きやくしちゅうかどがしん 毀厄の中、我が身を過し度せよ
五急六害之中過度我身(ごきゅうろくがいしちゅうかどがしん 五急六害の中、我が身を過し度せよ
五兵六舌之中過度我身(ごへいろくぜつしちゅうかどがしん 五兵六舌の中、我が身を過し度せよ
厭魅之中過度我身(えんみしちゅうかどがしん 厭魅の中、我が身を過し度せよ
萬病除癒、
所欲随心、急急如律令(まんびょうじょゆ、 しょよくずいしん、きゅうきゅうにょりつりょう 萬の病い除き癒し、欲する所心に従い、急々に律令の如く行え)

いきなり、なんやねん!?と思われたでしょうが、これがお正月、一年の一番初めに行われる宮中祭祀(きゅうちゅうさいし)「四方拝」で称えられる詞なのです。

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天皇陛下が称えられる四方拝のお詞の「過度我身」に於ける「過」とは「すぎる・わたる・よぎる・あまねく」、「度」は「悟らせる」という意味であり、罪障は我が身を通して悟りへ至らしめん」というのが真意なのです。単純に「罪障から私を守ってください」ということではありません。むしろ罪障を呼び寄せ、悟りへの導きを促す」との意味が「過度」という詞には含まれれているのです。「魔性をはじかない」むしろ「魔性」にも「憐憫」の情を注ぎ、道筋を立ててあげる、魔除けではなく魔寄せ」だということで、四方拝」はこのように崇高な神事であり、国家と国民の安寧と繁栄を祈ることを目的に行われているのですこれは数ある宮中祭祀の中でも、最も重要な祭祀の一つで、天皇陛下が自ら行われることになっています。そのため、御代拝(ごだいはい)(代理人が祭祀を代行すること)が認められていず、天皇陛下のご体調が優れないなどの場合、四方拝は中止となるのです。今年は無事に行われたようですね。

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天皇は大晦日の夜、御湯で玉体を清められ、元旦に寅の一刻(午前四時頃)、「黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)」を纏われた天皇が出御され、厳かに儀式が始められます。黄櫨染御袍とは、天皇のみが着ることを許される特別の装束で、平安時代から用いられていて、日の光が当たると太陽のように輝くといわれています。(写真は平成天皇)

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皇居の宮中三殿(きゅうちゅう・さんでん)の西川にある神嘉殿(しんかでん)の南庭に、四方拝のための御座が設けられます。御座は、畳で三つの座が設けられ、一つは属星を拝し、一つは天地四方の神々を拝し、一つは天皇陵を拝するための座です。三つの座の北側には燈台と机が置かれ、机にはお香と花が供されます。そして、それら取り囲むように屏風(びょうぶ)が張り巡らされます。

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四方拝は、明治四十一年(一九〇八)に制定された皇室祭祀令(こうしつ・さいしれい)で規定され、戦前までは国家行事として行われていました。終戦後は、室祭祀令が廃止されましたので、現在は天皇の私的祭祀として、明治時代の作法に準拠して行われており、現在四方拝で天皇が拝される諸神は次の通りです。

神宮(じんぐう)(伊勢神宮  天照大御神と豊受大御神)
天神地祇(てんじんちぎ すべての神々)
神武天皇陵(じんむ・てんのうりょう)
先帝三代の陵(みささぎ)(明治天皇、大正天皇、昭和天皇)
武蔵国一宮(むさしのくに・いちのみや)・氷川神社(ひかわ・じんじゃ)
山城国一宮(やましろのくに・いちのみや)・賀茂神社(かも・じんじゃ)
石清水八幡宮(いわしみず・はちまんぐう)
熱田神宮(あつた・じんぐう)
鹿島神宮(かしま・じんぐう)
香取神宮(かとり・じんぐう)

御座に着座された天皇は、御笏(みしゃく。「笏」とは神主が手に持つ白木の板)をおとりになり、北に向かい天皇の生まれ年の干支に対応する属星(ぞくしよう)を七回唱えられます。属星とは、北斗七星の七つの星にそれぞれ十二支が対応しており、その人の運命を支配する星と言われています。(新しい年の属星を称えるとの説もあり)

属星と干支の対応は・・・

①貪狼星(どんろうせい)(子年)
②巨門星(こもんせい)(丑年、亥年)
③禄存星(ろくそんせい)(寅年、戌年)
④文曲星(ぶんきょく)(卯年、酉年)
⑤廉貞星(れんていせい)(辰年、申年)
⑥武曲星(ぶきょくせい)(巳年、未年)
⑦破軍星(はぐんせい)(午年)

次に再拝(深く拝む動作を二回繰り返すこと)に続けて、呪文が唱えられます。『江家次第』という古文書によると、その呪文は前記の詞です。

このような礼拝(らいはい)を全身全霊籠めて、元旦早暁より執り行われるのですから、正月やからと朝寝して、起きるなりお屠蘇とと称して正月酒を飲み続ける飲んだくれのワタシなんかと違うて、陛下のおつとめは、いやホンマに大変ですね。いや、元旦だけやゆのうて、宮中祭祀は日々目白押しなんだそうです。

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取り留めもない年頭のブログとなりましたが、お屠蘇のせいということでご勘弁頂き、本日はこの辺りで

袖振れ合うも多生の縁417~宗教各派は霊魂の有無をどう考えているかについて調査した本がありました!~

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このブログはここ数回、ワタシが袖振れ合った人達で亡くなられた方々について取り上げさせて頂き、あの世でどのように過ごされているのかなどと筆のすさびに書いたりしておりましたが、それでは本当に霊魂は存在するのでしょうか!? ワタシはあると確信犯的に信じているのですが、それは兎も角、ジャーナリストにして作家で、京都の暁天山正覚寺(写真下)という浄土宗寺院の副住職であられる鵜飼秀徳さんという方の著書「霊魂を探して」を見付け、すぐ読破したのであります。

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ところで昨今は、葬式も直葬など経費をかけないことが結構多く、葬式仏教と言われて久しいお寺さんの経営は相当大変なようです。そんな日本の仏教界にあって鵜飼さんは、「良いお寺の研究会」を立ち上げられているのです。「良いお寺の研究会」のHPによりますと、研究会の理念は・・・

寺院は全国に7万7000あります。しかし2040年には、その数を5万まで減らすと言われています。この世が無常である限り「寺院消滅」を回避するのは困難かもしれません。しかし、私たちは1か寺でも世の中に貢献できる寺院を増やしたいと考えます。そのためには、現代社会の中で寺院が果たす役割を再定義し、特性を生かした門戸の開き方を模索すべきです。
地域や弱者に寄り添う寺院=「良いお寺」を目指し、私たちは様々な活動を続け、仏教の精神である「慈悲・寛容・平等」のある新しい社会づくりに寄与します。

このような理念の一環として、代表理事の鵜飼さんは仏教各宗派だけでなく神道やカソリックなど宗教法人に『貴包括宗教団体は教義上の「霊魂」の存在を認めていますか。』という霊魂の有無を尋ねるQなど、アンケートを依頼され、その返答を纏め上梓されたのです。そんな著書からワタシの心に留まったことを要約させて貰いました。

真言宗(高野山真言宗)
霊魂の存在を認めている。「阿字の子が 阿字の故郷立ち出でて 又立ち帰る 阿字の故郷」というご詠歌があるように、阿字は全ての命の根源である大日如来を表し、人間は大日如来から命を与えられてこの世に生まれ、肉体の滅びる後は再び大日如来の内に帰還すると教えられている。又、宗祖弘法大師は、今も高野山に座禅入定し衆生を見守っておられると信じております。
(写真は高野山真言宗総本山金剛峰寺)
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●天台宗
日本仏教は日本人の霊魂感の上に成立し、それを継承することで日本民族に受け入れられてきました。死者儀礼も霊魂の存在を信じることなしには成り立たないと考えられる。釈尊は霊魂の存在について否定的であった説から、「本当の仏教は生きた人間を対象とする考えや救い」とする人もいるが、日本仏教はインド仏教と異なり、霊魂の存在を否定すれば仏教は単なる哲学や道徳律となり宗教ではなくなってしまう。宗祖伝教大師も「魂魄」という言葉を用いられている。
(写真は天台宗総本山比叡山延暦寺)
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●修験道(本山修験宗)
本宗は日本古来の山岳信仰に基づく神仏習合の修験道で、古代では人は死ぬと魂は「山」という他界に昇りそこに住みつくとの考えが定説で、従って「存在する」ということになる。
(写真は本山修験宗総本山聖護院)
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●日蓮宗
息子に先立たれた女性信徒に宛てた宗祖日蓮聖人の手紙には、死出の旅路の息子や霊山浄土にいる亡き夫と現世の婦人が離ればなれになっている哀れを思いやり、婦人も命終(死)の後には同じ霊山浄土で会えるよう唱題(南無妙法蓮華経のお題目を唱えること)を勧めておられる。ですから霊魂の存在を認めている。
(写真は日蓮宗総本山身延山久遠寺)
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●浄土宗
浄土宗の教えは「阿弥陀仏のお慈悲を信じ、『南無阿弥陀仏』とみ名を称えて浄土に生まれることを願う信仰」で、この教趣からすれば、直接的に『霊魂』に関する話題に触れることはない。しかし、法然上人の伝記(『法然上人行状絵図』)には、「屍はついに苔の下に埋もれ、魂は独り旅の空に迷う」との法語があり、肉体から魂が離れていくとされている。しかし法然上人は、存在するか否かという思考に陥りがちな霊魂の実態について語ることをしていない。つまり、死後の霊魂の存在を考えること自体が「我見」(煩悩)であるので、それについての言及は控えるべきである。
(写真は浄土宗総本山知恩院)
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●浄土真宗(真宗大谷派)
親鸞聖人は、「ことごとく有無の見を摧破せん」(正信偈)「有無をはなる」(浄土和讃)と、存在や死後が存在するかしないかのどちらにもとらわれる見解を離れることを教えておられる。
(写真は真宗大谷派東本願寺)
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●臨済宗(妙心寺派)「断見(だんけん。人の命はこの世限りのもので、死後は無になってしまうという考え方)」「常見(じようけん。死後、肉体が滅びても霊魂は残り続けるという断見と正反対の考え方)」のいずれも採らず、所謂霊魂の存在を積極的に認めていない。
(写真は臨済宗総本山妙心寺)
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●曹洞宗
教義においては、積極的、直接的に「霊魂」の存在に言及しない。但し、葬送儀礼の没後作僧(もつごさそう。在家の死亡者に導師が授戒を行い僧にする儀礼)後の追善供養を行う中で、戒を受ける対象を「霊位」、仏戒を受け諸仏の位に入った者を「覚霊」と位置づけたり、儀礼・供養において「霊魂」を対象にしている。
(写真は曹洞宗大本山総持寺)
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●神社本庁
神社神道は民俗信仰であるため、他宗教のように包括的に教義や経典がない。そのため、信仰に関わる多くの概念が地域の伝統や民俗的な信仰に任されている。だから神社本庁で教義的に規定はしていないが、広く認められていると言える。
(写真は神社本庁)
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●カトリック中央協議会
教会の教えによれば、各霊魂は神により創造されたもので、親から作られたものではない。教会は又、霊魂は不滅であると教えている。霊魂は死の時に肉体から分離しますが、消滅することなく、最後の復活の時に再び肉体と結ばれる。
(写真はカトリック中央協議会)
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以上、ワタシなりの纏めですが、各宗教各宗派、色々苦慮なされているようですね。こうした様々な考え方に接し、益々霊魂の有無について興味が湧いてきて、煩悩を断つことは無理なようなので、日頃は考えても仕方ないから、あの世へのお迎えが来るまで首を長くしてひたすら待つことに致します。
そのようなイミで、あの世への旅立ちも楽しみなワタシなのであります。

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今年もワタシのブログを訪ねて下さり、本当に有り難うございました。
来年は1月2日にトップページを更新致しますので、宜しくお願い申し上げます。ではでは。


袖振れ合うも多生の縁416~秋の夜長に想うは、袖触れ合うた人々の訃報ぞ(Ⅳ)~

★2016年★
【大平 透さん、86歳】
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大平透さんは、アニメ「ハクション大魔王」や「笑ゥせぇるすまん」の喪黒福造などの声で知られる声優の大御所ですが、ワタシは一度だけお会いしたというか、ちらとお見かけしただけなのです。それも日本じゃなくハワイで。随分昔、オヤジを連れてハワイ旅行したことがあるんですが、その時ゴルフショップに居てた時、「お久しぶり。」と店の人に声をかけて入ってきた人がいたんです。その声に「お、えゝ声や!」と想ったのですが、それもその筈、声の主を見てみると大平さんでした。それから50年くらい後でしょうか、BAT第二回公演「今際の光に導かれ! ~ピアフの母、相克の涯に~」という音楽劇で、声優でありタレントである松山薫さん、この方は手塚治虫さんの姪御さんなんですが、それは兎も角、彼女は大平プロ所属だったので、出演依頼の手紙を差し上げた処、
舞台経験の浅い松山を使って頂き大層感謝致しております。しかし舞台不慣れ故大変ご迷惑をおかけするやも知れませんが、何卒よろしくお願い申し上げます。
とのご丁寧な直筆のお返事を頂き、こちらが恐縮する思いでした。そんな優しいお人柄の大平透さんと、袖振れ合う多生の縁をもてたことが嬉しく、謹んでご冥福をお祈りする次第です。

山路洋平さん、82歳】
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山路洋平さんは、 放送作家で脚本家ですが、この世界へのスタートは、大阪の北野劇場という、当時北野ダンシングチーム擁し、映画とショーの2本立てをやっていたシアターの演出部さんだったのです。
ですが北野劇場はショーは中止、映画専門となり、山路さんは放送作家に転向されたのです。ワタシはABC-TVの「エキスタ女学院」なる番組の構成者として、洋平さんとご一緒させて頂きました。
ワタシがOSKで演出をやっているのを知られ、オレも世が世なら・・・と昔を懐かしんでおられました。
そんな洋平さんは今、ヘブン・ダンシングチームで
天国良いとこ一度はおいで。酒は旨いし姉ちゃんはキレイ♪
などというくだけた曲でショーを創っておられるのではないでしょうか。

★2017年★
【安部憲幸さん、71歳】
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私がロクさんと出逢ったのは「エキスタ女学院」なる番組で、最後にご一緒したのは、「どんまいサンデー」でした。
このことは今まで何度かブログに書いてきましたので、ここでは止めておきます。
ところで、安部さんのあだ名はアベロクですが、アベロクのロクを御本人はろくでなしやからと広言しておられましたが、私は六根、煩悩の源となる眼・耳・鼻・舌・身・意、六根のロクで、今は六根清浄、浄らかな魂になり霊山へ、西方浄土楽へ旅立たれたと思っています。合掌。

★2018年★
【村田弘道さん、8?歳】
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村田さんとご一緒したのは、エキスタ女学院」なる番組です。このことや村田さんについては以前にもブログに書かせて貰いましたので、割愛させて頂き、最新の村田情報をご披露しましょう。
2020年の夏の終わり頃、M・Nさんから突然電話がありました。M・Nさんはフリーアナウンサーで、国際コーチング連盟(ICF)プロフェッショナル認定コーチ、(財)生涯学習開発財団 認定プロフェッショナルコーチ、(株)コーチ・エィ コーチアカデミア メンタークラスコーチ、日本コーチ協会正会員、文化庁指針の日本語教師資格(420単位準拠)修了などの経歴を誇るスピーチのスペシャリストである才媛なのです。
その彼女の夢に、村田さんが出てき、一緒に竜安寺の塀沿いを歩いていたとか。でも何処に行ったのかは判らなかったそうです。目覚めてすぐ、彼女はPCで村田弘道さんを検索した処、ワタシのブログが見つかり、そのブログに、村田さんが大病し回復された快気祝いをワタシが催したと書いてあったので、自分の快気祝いもして欲しいとのことでした。
と言いますのは、目下M・Nさんは体調を少し崩し入院されているのです。それで退院しコロナが下火になったら、是非昔の仲間にお会いしたいので、セッティングをお願いしたいとのことでした。ワタシは喜んでやらせて貰いますわ! 絶対、絶対やりましょう!!堅く約束したのです。
村田さんは、その昔M・Nさんのことを、「若いのに自己主張がチャンと出来る女やから気に入った。そやけど可愛げはないけどナ」と宣うてたそうですが、ホントのところは可愛かったんでしょう。彼女の夢に出てワタシのプログに導き、快気祝いをして貰えとアドバイスし、M・Nさんを励ましたのでしょう。
村田さん、安心してあの世に還ってください。心配されなくてもM・Nさんは復活しますし、快気祝いはキチンと仕切りますよ。その時は村田さんに献杯させて貰います。ではでは。

【あい御影さん、90歳】
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あい御影さんはラテンシンガーの第一人者で、長年歌い続けてこられました。「あい御影を死ぬまで歌い続けさせる会」という熱烈なファンクラブがあったのですが、ご本人が亡くなられてしまった今は、もう解散してるでしょうね。
それはさておき、20数年前、神戸は岡本のライブハウスで、多分古希を迎えられたあいさんの熱唱をお聴きしましたが、いや、年齢を感じさせない声の艶や張りなど見事で、唯々感心するばかりでした。
その時誰にだったか忘れましたが、ご紹介して頂き、ワタシが作・演出したOSK公演「レビュー・ファンタジー  オール・ザッツ・ラテン!」で、ボーカルトレーナーをお願いしたこともありました。
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又、ABCラジオ「東西南北 龍介が行く!」にゲストとしてお越し頂いたこともありました。
最後にお声をお聞きしたのは、ワタシがケータイで間違ってあいさんのアドレスを押し、あわてて切ったのですが、あいさんからかかってきて、「電話くれたアンタ、誰?」と言われたのです。その時、一寸バタバタしていたので、「スミマセン。間違い電話です」とだけ答えたら切れてしまいました。その内、ちゃんと電話しようと思っていながら、ついつい後回しにしている内に訃報をお聞きすることになってしまいました。嗚呼、後悔先に立たず・・・ですね。
あい御影さん、「あい御影を永遠に歌い続けさせる会」のリクエストに応じて、天国で底抜けに明るく情熱的に歌い続けておられることと思います。

★2019年★
【松本ちえこさん、60歳】

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松本ちえこさんはアイドル歌手であり、そしてタレント、女優さんですが、年配の方はバスボンのCMを覚えていらっしゃるのでは・・・。ワタシが彼女と袖触れ合ったのは、京都南座での舞台公演「あゝ野麦峠」でした。

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この作品は竹内伸光先生の作・演出で、ワタシが教えていた児童劇団の子供達が大勢出演させて貰っていたから、スタッフの一員として参加していたのです。竹内先生はワタシの師匠のお一人でもあられましたし。この作品の座長は舟木一夫さんでしたが、松本ちえこさんも主演のひとりでした。でも、舞台稽古中足首をひどく捻挫してしまい、代役さんで進められていく舞台稽古をみんなから離れた客席の片隅で悔しそうに見ていた姿を覚えています。楽日の打ち上げにも姿をお見かけしませんでしたから、怪我は回復せず、出演されることはなかったのでしょう。この公演の舞台稽古以来、お会いすることはなく、訃報に接した次第です。巷の噂に寄れば、あのねのねの清水国明さんと結婚するとかしないとか、そんなゴシップを耳にしたこともありましたが・・・。4度も結婚した清水国明さんのことをあきれて天国から眺めておられるのでしょうか。合掌。

【須永克彦さん、80歳】
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須永克彦さんは、神戸の劇団道化座一筋の俳優であり演出家でした。60年弱前、道化座公演「リア王」に、ワタシが所属していた劇団Qの会が賛助出演したことがあったのです。ワタシも兵士の一員として城壁の上に立ち尽くす門衛で出演しましたが、長時間高いところに立っていると、めまいがしてきて大変でした。須永さんの役は何だったか忘れましたが、主演クラスだったと思います。この作品の演出は、当時道化座の代表だった夏目俊二さん(写真下)でした。夏目さんは演出家であり舞台俳優であり、且つ大映の映画スターさんでした。
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処で、公演場所は海員会館というところでした。舞台は5階だったのですが、エレベーターは小さく大道具を担いであがらねばなりませんでした。ワタシもムロン搬入の手伝いをしましたが、驚いたことに夏目俊二さんも大道具を担いでおられたのです! へぇー、こんなエライ人でも先頭に立ってやりはるんや!と感動したのを覚えています。それが頭に強く残っていたからなのでしょう。ワタシは自分が演出する作品の舞台稽古では、ジーパンスタイルで道具搬入の手伝いをするようにしていました。ある大道具の棟梁は、「ズカのセンセなんか、舞台稽古でもお洒落な格好で客席にチンと座ってはるだけやのに、センセは違いまんな。」とあきれられる始末でした。
そんな話はさておき、夏目さんはその後、道化座と袂を分かち、劇団神戸を創設されましたが、須永さんはその後ずっと道化座に踏みとどまり、獅子奮迅の活躍をなさっていました。ワタシは活動の場を大阪に移し、しかも商業演劇を中心にやってきましたので、「リア王」以来須永さんにお会いすることはありませんでした。
須永さん、亡くなられるまで、長きにわたり地元神戸での演劇活動、本当にお疲れ様でした。夏目さんも2014年に旅立たれていますから、今は天国の舞台で共演されているかも知れませんね。

★2020年★
【服部 克 久さん、83歳】
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作曲家・編曲家の服部克久さんとお会いしたのは2005年でした。天台宗系新興仏教教団Nが、立宗80周年を記念して教団歌を創るに当たり、呑み友達のY・Nさんに作詩を依頼されたのですが、作曲は服部克久さんだったのです。
それで、N教団の法要などで数回お会いしたものの、以来ご無沙汰で訃報に接してしまいました。
あの世に旅立たれた克久さんは孫の、服部家はじめてのバイオリニスト、百音(もね)さんの活躍を目を細め、お父様の服部良一さんと音楽談義に鼻を咲かせておられることでしょう。合掌。
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【レツゴー正司さん、80歳】
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レツゴー正司さんとは、50年ほど前、MBS-TVの「シン漫 vs ベテ漫」なる漫才師の新人とベテランが対抗して笑いを競う番組で出逢いました。ベテ漫組のキャプテンがレツゴー三匹だったのです。(シン漫は北京一・京二)

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当時レツゴー三匹さんは売れっ子で、メンバーのじゅんちゃんは、メイクさんのお尻にタッチするなどやんちゃでした。長作さんはどちらかというと飄々とした感じで、正司さんはリーダーらしくどっしりしてましたね。
その番組は2クールぐらいだったでしょうか、あっさり終わってしまい、ワタシはお笑いから足を洗ったので、レツゴーさんとも疎遠になってしまいました。
じゅんちゃんは2014年、長作さんも2018年にお亡くなりになり、あの世で正司さんの来るのを待ちかねていたのではないでしょうか。というのは、レツゴー三匹の漫才の初めのギャグは、
じゅん 「じゅんで~す。」
長 作 「長作で~す。」
正 司 「三波春夫でございます~。」
でしたから、正司さんが居ないから、2001年になり天国での先輩、三波春夫さんご自身が正司さんの代役を務めていたかもしれず、じゅんちゃんと長作さんは恐縮していたのでは・・・(そないなこと、あらへんわな)

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そやけど、三波春夫さんて銅像になってはるんですね。それは兎も角、今年もあと幾ばくもないですが、どなたの訃報がとびこんでくるのか、いえ、ワタシのかも・・・


袖振れ合うも多生の縁415~秋の夜長に想うは、袖触れ合うた人々の訃報ぞ(Ⅲ)~

★2011年★
【小松左京さん、80歳】
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小松 左京(こまつ さきょう、1931年1月28日 - 2011年7月26日)さんは、言わずと知れた日本の小説家で、 星新一さん、筒井康隆さんと共に「SF御三家」と呼ばれ、日本SF界を代表するSF作家ですが、ワタシは小松左京さんの「果てしなき流れの果てに」をミュージカル化させて頂きました。

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小松先生にお会いしたのは、舞台化の許可を頂く為で、今は大塚家具の展示場になっているホテルプラザのバーでした。(当時小松事務所はホテルプラザにあったのです)

小松先生は劇化に当たり、小説のラストシーン、主人公男女が爺婆になり語り会う場を是非やって欲しいとのご要望でした。しかし、歌劇作品としてはトップの男役と娘役が爺婆になるのは大いに問題アリで、私なんかはそんなんもシャレでええやんかという考えでしたが、歌劇では絶対タブーなのです。



何しろ歌劇の皆さんは美しい、カッコいいということが、第一なんで、例えば台本を読んでからであれ、読む前であれ彼女等が自分の役について聞いてくるのはどんな役かということより、どんなお衣裳ですかということが先なのですから。

さて、「センセ、そんなんあきませんわ!」と私が単刀直入に申し上げると、先生からは反論がどっと来る、私も負けじとわっと言い返す・・・お酒も入っているのでケンケンガクガク、その場にいた制作部長さんは、ハラハラしてはったと思います。

そして話はいつの間にか作品をそれ、宇宙の誕生から消滅、ビッグバンからビッグクラッシュの話になり、私がビッグクラッシュで宇宙が収縮し、時間が逆行するのをドラマにしたいと語ると大いに興味を示され、やがて時間が来て「いや、初対面やけど、忌憚のない率直な意見を有り難う!」と仰り、劇化を許可して下さったのです。

それから、その公演以後もシルクロード博のブレイベントとして上海京劇団を招き、上条恒彦さんなど日本人俳優とのジョイント公演など、ご一緒させて頂いたのも懐かしい思い出です。
3・11の震災後の日本を案じつつ旅立たれましたが、今は宇宙の高見に立ち日本の現状を憂い、行く道を模索されていることでしょう。合掌
★2012年★
【川村龍一さん、69歳】
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川村 龍一(かわむら りゅういち、1943年4月7日 - 2012年5月25日)さんは、ラジオパーソナリティで、 ワタシは「エキスタ女学院」というABCーTVの番組でご一緒しました。エキスタとは、大阪駅ビル内に出来たTVスタジオで、「エキス多女学院」は公募した18歳以上の女性を生徒にしたカルチャー教室風公開番組で、ワタシは構成者でした。この番組は2年しか続かず、川村さんとはその後全くお会いすることはありませんでした。あれから40年弱、この番組に携わったスタッフも、当番組制作担当の東中部長、ブロデューサーの村田弘道さん、ディレクターの津田敦さん、コーナ担当アナだった安部憲幸さん、構成者の加納健男さん、山路洋平さんが既に鬼籍に入っておられます。月日の流れと人の命はとどめることが出来ないので致し方ないことですね。
処で、かわむらりゅういち・・・というと、人気ロックバンド「LUNA SEA」のボーカル・河村隆一さんを思い浮かべる方もおられるでしょうね。川村 龍一さんはこの河村隆一さんと同姓同名と言われるのを嫌がっていました。「私の方がずっと長くかわむらりゅういちをやっているんです・・・」と不満顔をなさっていました。でも、鬼籍に入られた今、間違えられることもないでしょうから安眠なさって下さいますよう。

★2013年★
【小澤ちづ子さん、?歳】

小澤ちづ子さん、通称ちー子先生は、梅田コマミュージカルチームの歌姫であり舞姫で、彼女の舞台をワタシはよく拝見していました。
夫君は同じチームの小澤周二先生で、シューポンとは、仕事仲間であり且つ良き飲み友達でしたから、本当に良く飲みました。

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二人のお嬢さんは幼い頃、私の演劇教室の生徒さんでした。
上のお嬢さんの敬江ちゃんは、後に劇団<ふるさとキャラバン>の俳優となり振付師となられましたので、私の作品の振り付けをしてもらったこともありました。
下のお嬢さんの愛ちゃんは、OSKに入団されていましたから、またまたご縁があったのです!
このように、シューポン先生、チー子先生、敬江ちゃん、愛ちゃん、ご家族みんなと深いご縁があったのです。
さて、数年前、周二先生が脳梗塞で倒れられ、チー子さんは懸命に看病し、リハビリをサポートされていたのです。そんな姿が今、浮かんできます。お世話の疲れからか、がんで入院されましたが無事回復し、お元気になられて退院されたのに・・・この年の夏、電話で話した時は本当にお元気そうなお声だったのに・・・それが最後でした。
ちー子さんはシューポンの事が気がかりと思いますが、きっと、ちー子さんのこの世でのお役目は終わったのでしょう。 どうか、安らかに、穏やかに、和やかに、あの世で、シューポンを、敬江ちゃんを、愛ちゃんを、愛ちゃんの二人の男の子達を、見守ってあげて下さいね。合掌。

【川田恵子さん、?歳】
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川田恵子さんは、キャンディの愛称で親しまれたラジオパーソナリティで、私は2006年迄数年、ABCラジオ「アべロクのどんまいサンデー」でご一緒していました。
番組のコーナーで「大河ミニドラマ」と称し、NHKの向こうを張って(?)歴史を題材にした15分位の毎回読み切りドラマをやっていたのですが、彼女は声優さんでもありましたから、色んな声色が使えたので、本当に色々な役をやって貰いました。キャンディさん、その節は本当にありがとう!
番組が終了してからはずっとご無沙汰でしたが、2009年にある舞台で多彩な声が欲しくて、出演交渉の電話をしたことがありました。その時、お喋りしたのが最後となってしまいました。
そうそう、川田さんには一人娘さんがいて、そのお嬢さんがスペイン村の包装紙だの、土産物のパッケージがお好きだとかで、「どんまいサンデー」をやってた頃、私はスペイン村の総合演出をずっとやっていましたから、彼女にスペイン村の包装紙(勿論中味入りですよ!)をおみやげとして渡していたのです。当時そのお嬢さんは中学生でしたが、もう大きくなられていることでしょうね。
でも、川田さんはお嬢さんの行く末を気になさっていたことでしょう・・・月並みな言葉しか書けませんが、唯々ご冥福をお祈りするばかりです。

★2014年★
【恋香うつるさん、?歳】
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クミちゃん・・・と言っても誰か分かる人も少ないですが、坂本久美子さん、元OSK日本歌劇団の恋香うつるさんが、若くして亡くなられました・・・嗚呼!
クミちゃんは歌劇学校を卒業した年に、ジュエリー・ギャルというトリオが結成され、抜擢された彼女は2年目と3年目の上級生とチームを組んだのです。そしてその年の秋、私が作・演出した丹波哲郎さんの霊界を描いた作品『光輝く霊界への旅立ち』で出逢いました。初めて逢った時の印象は、キューティな人で、「この子、物凄く出来るナ!」とすぐにピンときたのです。
そしてそれから数公演一緒しましたが、私の演出じゃない作品(長崎日昇館のショー)に出ることになった時、「センセの演出離れて私、やっていけるでしょうか」とポツリと言ったことを今でも覚えています。私の返事は「アホか。お前は誰の演出でもチャンとやっていけるわ。自分で自分を演出出来る人や。」と答えたのです。
その通り、どの公演でもその時々の演出の指示に自分の表現をプラスして見事な舞台を見せてくれていました。
それどころか、OSK退団後歌劇学校の同期生でOSKのトップスターだった那月峻さんと歌劇ビジューを立ち上げ、敬天(あつたか)と名前で、主宰者として、プロデューサーとして、作者として、演出家として、超多忙な日々を10年走りに走り、そしてあの世に迄走り去ってしまいました・・・さよなら、クミちゃん、恋香さん、敬天さん!
今、私の書斎の机の上には、私の作品から離れて出演した長崎日昇館公演の時にクミちゃんから貰ったおみやげ、異人さんの牧師をかたどった鈴が飾ってありますが、この牧師さんのお顔も哀しげに見えるのは、私の気のせいでしょうね。
そうそう、こんな事がありました。
バレンタインデーを前にして、当時OSKのトップだったA・Sさんが、
「先生方にチョコレートを渡さないように。弥生会(OSK出演者達の会)から渡します。」
との指令が出で居たのですが、クミちゃんは私にチョコレートを呉れたのです。
「ええんかな。Sさん、なんか言うてたんやろ」と私が言うと、
「かましません。そんなん個人の自由や」
と彼女は我関せずでした。
それはさておき、2013年に亡くなられた小澤ちず子さんは、私がスペイン村の総合演出をしていた時、振付をして下さっていたのですが、クミちゃんにも振付をして貰いました。私がスペイン村のあちこちの稽古場を巡回し、彼女が稽古してる処に行くと、その演目担当の舞台監督が飛んできて、「恋香さん、スゴイですよ!」と興奮して報告してくれました。
振付は通常リズムに振りを付けるのですが、彼女は、スペイン人ダンサー達がリズムのカウントをとるのは弱いとすぐに判断し、メロディを歌いながらメロディに振りを付けて教えたのです。
それでスペイン人達は活き活き、すぐに振りを覚えどんどんはかどり、舞台監督が興奮したという訳です。
あれやこれや、クミちゃんの想い出は尽きませんが、きりがないのでこの辺で。
クミちゃん、あの世でもキューティなクミちゃんで居て下さいね!合掌。

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★2015年★
【千尋まことさん、?歳】

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千尋ちゃんは、昨年亡くなられた恋香うつるさんとOSK日本歌劇学校で同期生です。
恋香さんは、歌・お芝居・踊りと三拍子揃った万能プレーヤーでした。しかし千尋ちゃんは、正直言って芝居が大嫌いでした。
現在のOSKはどうか知りませんが、当時踊りは大好きやけど芝居は嫌いや・・・という生徒が結構いたのです。
私は歌劇学校の演劇講師を長くやっていましたが、入学した本科生(1年目)の最初の授業で必ずやることがありました。それは、生徒各人にギャグ入りの自己紹介をやってもらい、その自己紹介で演劇が好きか嫌いかを言わせたのです。
「演劇のセンセに演劇が嫌いや言うたら悪いなんて思わんと、キライな者はキライと言えよ。芝居のキライな奴を好きにさせるのがオレの仕事や。」と私は毎年毎回言い続けておりました。
でも、私が演劇講師になったのは、千尋ちゃんが歌劇学校を卒業してからだったのですが、彼女のお芝居嫌いは有名で、私もその事をよく知っていました。でも、そんな彼女にお芝居をさせ、しかも台詞を言わせたことがあるのです!
それは、2008年で、OSK・OGのYさんが日舞の西川流のお師匠さんとジョイントしミュージカルをやりたいと、私に作・演出を依頼してきた時の事で、千尋ちゃんがOSKを退団してから大分年月が過ぎていました。
千尋ちゃんはその公演の出演メンバーに入っていたものの、踊りだけの約束だったのですが、台本を書いてみると、芝居せなアカン役の数が多くなってしまい、彼女にその役を押しつけたのです。お芝居嫌いは昔のままでしたが、台詞は誰か他の人の録音にして口パクでもええで・・・・ととごまかして押しつけたのです。「そやけど誰かに台詞を録音して貰う迄、稽古の時は台詞を言うてや」と頼んだので仕方なくやってくれていましたが、その内、そうキライでもなさそうになってきたので、強引に本番もやってもらったのです。
何とか無事やり終えた千尋ちゃん、「二度とせえへんからな!」とぶうたれていましたが、満更でも無かったようです。
その公演以後、時々会って呑むようになりましたが、さっぱりした気性の彼女と呑むと気を遣わなくていいし、男同士で呑んでいるようでとても楽しかったですよ!
それから上の写真は、OSK公演「王子と乞食の愛の冒険」に彼女が出演していた時のものです。
その公演の出演者達の同窓会で会えるのを楽しみにしていたのですが、風邪を引いたとかで欠席されていて、残念でした!又、その内会えるやろと思っていたのですが、同窓会から一ケ月もたたぬ内に亡くなられてしまうとは・・・!
大の犬好きだった彼女は、昨年か一昨年かに先立ってしまった愛犬に会いたかったのかも知れませんが・・・。ですから今頃は天国で、愛犬を抱きながら恋香さんと、「お芝居ておもしろいナ。」なんて演劇談義に花を咲かせているかも知れませんネ・・・合掌。

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袖振れ合うも多生の縁414~伊藤比呂美さんの新著「道行きや」で愛犬の幸せについてを読み、考えさせられました。~

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先日、伊藤比呂美さんの最新刊「道行きや」を読みました。伊藤さんは詩人であり、エッセイストであり、小説も書かれています。
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伊藤比呂美さんは、ポーランド文学者の西成彦さん(写真下)をポーランドに追っかけるなど大恋愛の末にゴールインされ、二人の女の子をもうけられたのですが、離婚されました。
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そして英国出身の画家、ハロルド・コーエンさんと出逢い、再婚されたのです。

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コーエンさんは ロンドンで画家として成功されていましたが、社会的成功に満足せず「絵画とは何か」「芸術家とは何か」と問い続けていたのですが、カリフォルニア大学へ客員教授として招かれ渡米し、コンピュータと出逢いのめり込み、絵を描くロボット、アーロンを創り出などユニークな活動をされていました。

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(アーロンの作品)

さて、ここからは「道行きや」の<犬の幸せ>章を、ワタシなりにリライトさせて頂きます。

比呂美さんはコーエンさんとの間にも女の子が誕生、画家の夫、3人の子供達、そして1匹のわんちゃんとアメリカで暮らしていたのですが、ご自身のお父さんの介護が必要となり、カリフォルニアと父親在住の熊本とを数ヶ月おきに何度も何度も往来し、遠距離介護を続けられたのです。やがて、コーエンさんの介護もせざるを得なくなり、てんやわんやの日々だったとか。でも父親も夫君も看取り、比呂美さんは日本に帰ることになりましたが、問題は飼っていた愛犬、ジャーマンシェパードのホーボーくんです。
"hobo"とは確か、渡り労働者・浮浪者・ルンペンという意味だと思いますが、それは兎も角、娘さんたちはアメリカ人と結婚しているので、当然日本に移住するわけもなく、且つ自分たちかホーホーくんの飼育を拒否、お母さんが日本に連れて行ったら・・・ということになったのです。
しかしホーボー君は、比呂美さんの友人ケリーの愛犬フィンと大の親友で、毎朝必ず一緒に散歩を、いえ、散歩というよりカリフォルニアの荒野を連れだって何処までも何時までも駆け巡るという日課をこの上なく楽しみに日々幸せに暮らしていたのです。比呂美さんが旅立つ日もそうでした。二頭は出逢うと昨日も一緒だったことなど忘れたように「ウォォーン! 逢いたかったぜぇー!」と咆吼し合い、空中に飛び上がり、躰をぶつけあい、追い掛け合い、疾走し続けたのです。
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でも、空港に行かねばならない時間が迫ってきたので、ホーボーとフィンの逢瀬は断たれました。
犬たちはきっと「又あしたァー!」と誓い合っていたでしょうに。
熊本に着いたホーボーくんは、くまモンに出逢い親しみを、熊本城を見上げ武者震いを、そして阿蘇の草原を駆け回り元気溌剌・・・
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元気溌剌・・・なんてことはありませんでした。

熊本に着いた犬は、しばらくの間、不思議そうに匂いをかぎまわっていたのだった。ときどき立ち止まって、あたりを見回して、遠くの匂いを嗅いだ。地面に鼻を近づけて近くの匂いを嗅ぐのではなく、空気中に鼻を突き出して、遠くの見知らぬ匂いを嗅ぎ取る、匂いに呼びかける、匂いを呼び寄せる、そういう仕草をした。彼(ともだち犬のフィン)を探しているのだと思った。(中略)
「フィンがいればいいのにねぇ。」
フィンという言葉を犬が聞き取らないはずはない。でも今ここで、犬はフィンと言っても無表情なのだった。そのかわり犬はわたしに鼻面を寄せて、目のあたりをぺろりと舐めた。(中略)
人が涙を流すと、だいじょうぶ、そばにいるよと、人が人をなぐさめるように、犬は人の涙をなめる。
「フィンに合いたいねぇ。」また舐めた。

ホーボー君て何とも健気ですね。「フィンがいればいいのにねぇ。」「フィンに合いたいねぇ。」と言った時の比呂美さんは多分泣いていなかったと思いますが、ホーボー君は自分が泣きたいのに、飼い主さんの気持ちを汲み取って、慰めようとしたのでしょう。ワタシの愛犬スオミくんもはそんなことしなかったですね。体調が悪い時など、だいじょうぶかな・・・と心配して寄り添ってくれましたが。
さて、そんな気持ちの優しいホーボー君に、大いなる喜びがもたらされるのです。
伊藤比呂美さんは熊本学園大学(写真下)の招聘教授であり、又早稲田大学文学学術院(文化構想学部、写真下の下2葉)の教授でもあられるので、熊本と東京を往復しないといけないのです。

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東京に行っている間、犬をどうするか・・・思案していると救いの手が差し伸べられたかのようにみえたのですが・・・
熊本の古い友人である城さんが、熊本を留守にする間、ホーボーを預かってもいいよと申し出てくれだのです。城さんはボーダーコリーのヨーキィちゃん(雌)を飼っていて、一緒に世話するよ・・・との提案だったので、比呂美さんは渡りに船とばかりお願いしたのであります。城さんとホーボー君を引き合わせると、城さんは本格的に犬扱いのうましい人だったので、ホーボー君はカリフォルニアの親友犬フィンと同じように城さんとヨーキィちゃんにすぐ懐き、いや、愛し、失った喜びが突然甦ったようで、飼い主の比呂美さんが居ない日も幸せいっぱい、夢いっぱい、まさに幸せの絶頂といった態でありました。そんなホーボーに比呂美さんは些かジェラシーすら感じる有様でした。
しかし、でも、好事魔多しというのか、城さんの愛犬ヨーキィが急に肥満になり、獣医の診断では。糖尿病、そして腫瘍もできているとのこと。原因は嫉妬で、ヨーキィは自分の飼い主の城さんが自分と同じように、いや、それ以上に突然現れたホーボーを抱き、遊び、餌を与えているのが、つらくやるせなかったのです。嗚呼、ヒトもイヌも嫉妬するんですねぇ。ヨーキイはそんなシェラシーを理性で押さえつけていたから発病したのです。「ヨーキーをホーボーに近づけてはいけません。城さんがホーボーに近づいてもいけません。きっぱりと別れなさい。」と獣医さんに宣告されてしまったのです。
かくして、ホーボーは、フィンを失い、城さんもヨーキィをも失い、比呂美さんの居る時も居ないときも、殆どの時間を「フィンもいない、ヨーキィもいない、城さんもいない、いないいない、誰もいない・・・」と繰り返し繰り返し思いながら、日がな寝て過ごすようになったのです。

カリフォルニアの荒野を何時までも何処までも疾走していた幸せな日々は遙か遠く、ホーボーは甦ることのない儚い夢を反芻するかのように何度も何度も思い返し、思えば思うほどせつなく涙しているのでは・・・このホーボー君の涙は誰が舐めてくれるのでしょうか。
比呂美さんは、この犬を不幸せにしたのはわたしだと、ホーボーに四六時中謝っているのでしょう・・・。

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この比呂美さんとホーボの人(犬)生模様を読んで、わが愛犬スオミくんは幸せだったのか???との思いに浸っている、今日この頃のワタシなのです。

袖振れ合うも多生の縁413~武田百合子さんの「富士日記」に託して、百合子さんの愛犬ポコとわが愛犬スオミの死~

最近、ワタシは武田百合子さんの『富士日記』にはまっています。

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武田百合子さんは、小説家武田泰淳さんの夫人で、夫の死後、泰淳さんと過ごした富士山荘での日記を出版し、処女作にして高い評価を受け、その後、結晶度の高い随筆を発表して多くの熱狂的なファンを得た随筆家なのです。

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百合子さんは幼くして両親と死に別れ、戦後の混乱期を生き抜く為に闇ブローカーをやったり、作家である観音寺潮五郎さんの口述筆記をやったりした後、ある出版社が経営している喫茶店らんぽお(実は闇のお酒を出す酒場でもある)勤めをしたので、酒場に集う埴谷雄高さん、深沢七郎さん、大岡昇平さん、色川武大さん、いいだももさん等、若き文士たちとも知り合い、そんな文士たちの一人、武田泰淳さんと結婚されたのです。
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百合子さんは、文士たちのマドンナ的存在であり、彼らと多彩な親交があったのは、女学校時代から詩昨をされているなど、文学的素養があったからなのでしょう。しかし、一回り以上年上の泰淳さんと3年同棲の末、昭和26年(1951年)に26歳で結婚して以来、詩作など何処吹く風で、夫を支えることに徹しておられたようです。


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そして昭和51年(1976年)武田泰淳さんが胃ガンで死去後、山荘暮らしを綴った日記が編集者の目に触れ、四半世紀に亘り固く閉ざしていた自己を解放するかのように、あれよあれよという間に物書きとなられたのです。
『富士日記』が出版されたのは昭和52年(1977年)ですが、私は全く知らず、4年後に文庫本となった際も無関心で、それから40年過ぎた今年、ヨメさんの蔵書が目につき、何気なく読み始めはまってしまったという訳であります。

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『富士日記』がどのような作品か、ご存じない方のために、文庫本の裏表紙の文をご紹介しておきます。

「夫武田泰淳と過ごした富士山麓での十三年間の一瞬一瞬の生を、澄明な眼と無垢の心で克明にとらえ天衣無縫の文体でうつし出す、思索的文学者と天性の芸術者とのめずらしい組み合せのユニークな日記。昭和52年度田村俊子賞受賞作。」

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「並はずれて奇抜で誰も思い及ばぬ発想のなかで、事物の核心をすべて喝破する、いわば生まれながらの天性の無垢な芸術者が、一瞬一瞬の生を澄明な感性でとらえ、また昭和期を代表する質実な生活をあますところなく克明に記録する。」
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「夫武田泰淳の取材旅行に同行したり口述筆記をしたりする傍ら、特異の発想と感受と表現の絶妙なハーモニーをもって、日々の暮らしの中の生を鮮明に浮き彫りにし、森羅万象や世事万端を貫く洞察により事物の本質を衝く白眉の日記。」

さて、かくいう私の心を捉えたのは、森羅万象、世辞万端のひとつひとつどれもでありますが、なかでも愛犬ポコの死は、わが愛犬スオミが昨秋亡くなったので、ひときわ感慨深く読み入ったのです。そんな、ポコの死についての記述をシェアさせて頂きます。

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昭和四十二年
 七月十八日(火) 快晴、夕方少し雨、雷鳴

ポコ死ぬ。六歳。庭に埋める。
もう、怖いことも、苦しいことも、水を飲みたいことも、叱られることもない。魂が空へ昇るということが、もし本当なら、早く昇って楽におなり。
前十一時半東京を出る。とても暑かった。大箱根に車をとめて一休みする。ポコは死んでいた。空が真青で。冷たい牛乳二本私飲む。主人一本。すぐ車に乗って山の家へ。涙が出っ放しだ。前がよく見えなかった。
ポコを埋めてから、大岡さんへ本を届けに行く。さっき犬が死んだと言うと、奥様は御自分のハタゴを貸して下さった(七月十九日に書く)

七月十九日(水) 晴 三時頃より雷雨

(前略)
ポコの残していったもの、籠と箱と櫛をダンロで焼く。土間に落ちているポコの毛をとって、それも焼く。何をしても涙が出る。
(中略)
大岡さん御夫妻来る。
「どうしてる? 犬が死んでいやな気分だろう。慰めにきてやったぞ」と、入ってこられる。私は奥様に貸して頂いたハタゴで機織りを教わった。(中略)
大岡さんは、昔から犬を始終飼っていた。で、いろいろな死に目に遭ったのだ。
大きな犬を飼っていたとき、鎖につながれていた犬が、そのまま垣根のすき間から表へ出てしまい、大きな犬だったのに石垣が高いので下まで肢が届かず、首を吊ったようになって死んでしまった。道を通りかかった御用聞きだか配達だかの男の子がみつけて報せてくれた。
「絞首刑だな。自殺というか・・・・」
大岡さんは、そのほかにも、犬の死に方のいろいろを話された。そして急に「おいおい。もうこの位話せばいいだろ。少しは気が休まったか」と帰り出しそうにされた。「まだまだ。もう少し。」主人と私は頼んだ。大岡さんは仕方なく、また腰かけて、思い出すようにして、もう一つ、犬の死ぬ話をして帰られた。門まで送っていくと、しとしととした雨。夜は、釜あげうどんを食べた。
遅くにゴミを棄てに表へ出る。まだ、ポツリポツリと泌みこむように雨は降っている。
ポコは、あの灌木の下の闇に、顔を家の方へ向けて横たわって埋まっている。昨夜遅くなってから、よく寝入ったときのすすり上げるような寝息がひょっと聞えたように思ったが、それは気のせいだ。ポコ、早く土の中で腐っておしまい。(後略)

七月二十日(木) 晴、浩ごろ俄か雨

車を拭く。トランクも開けて中を拭く。実に心が苦しい。
いつもより暑かったのだ。一時間ごとにトランクから出してやる休み時間までが待てなかったのだ。ポコは籠の蓋を頭で押しあけて首を出した。車が揺れるたびに、無理に押しあけられた蓋はバネのようにポコの首を絞めつけた。ひっこめることが出来なかったんだねえ。小さな犬だからすぐ死んだんだ。薄赤い舌をほんのちょっと出して。水を一杯湛えたような黒いビー玉のような眼をあけたまま。よだれも流していない。不思議そうにものを視つめて首を傾げるときの顔つきをしていた。トランクを開けて犬をみたとき、私の頭の上の空が真青で。私はずっと忘れないだろうなあ。犬が死んでいるのをみつけたとき、空が真青で。
埋める穴は主人が掘ってくれた。とうちゃんが、あんなに早く、あんなに深い穴を掘った。穴のそばにべったり坐って私は犬を抱いて、げえっというほど大声で泣いた。泣けるだけ永く泣いた。それからタオルにくるんで、それから犬がいつもねていた毛布にくるんで、穴の底に入れようとしたら「止せ。なかなか腐らないぞ。じかに入れてやれ」と主人は言った。だからポコをじかに穴の中に入れてやった。ふさふさした首のまわりの毛や、ビー玉の眼の上に土をかけて、それから、どんどん土をかけて、かたく踏んでやったのだ。
昨日、大岡夫人は「庭に犬を埋めると、よほど土を盛らないと、ずんと下がりますよ」とおっしゃった。早くずんと下がって、もう一ぺん土を盛るときがくればいい。(中略)

陽がかっと射してきて鳥が啼きだす。どこもかしこも戸を開け放つ。犬がいなくなった庭はしいんとして、限りもなく静かだ。(中略)

林の日陰にこしかけて、ハイライト二本吸う。死んだのがかなしいのではない。いないのが淋しいのだ。そうじゃない。いないのが淋しいのじゃなく、むごい仕打で死なせたのが哀れなのだ。私はポコをいつも叱っていたが、ポコは私を叱ったり意地悪したりしなかった。朝起きた私にあうと、何年もあわなかった人のようになつかしがって迎えた。昼寝から覚めたときだってそうだった。いやだねえ。(中略)

夜八時、花子へ電話をかけに管理所へ。(中略) 私は犬が死んだことをいいだせなかった。
今夜は月夜。満月に近い。富士山は晴れて、五合目まで灯りかついた。六合目にも灯りがついている。去年と同じ夏がきた。子供の声が聞こえる。

七月二十一日(金) 晴、雲あり一時、雨

(前略) 何をみていても涙が出てくる。今日もとまらない。(中略) 管理所にきて憩んでいる工事の男女が<三、四日前石の仕事で外にいたとき、風の具合で女の泣声がずい分と永い間聞こえてきて怖かった>と話し合っているそばを急いで通り過ぎる。何軒もの家の前に車がとまって、笑声がしている。風呂場で笑っているらしく、水をかぶる音と一緒に笑声がしている家もある。(中略)

犬が死んだから泣くのを、それを我慢しないこと。涙だけ出してしまうこと。口をあけたまま、はあはあと出してしまうこと。

七月二十二日(土) 快晴、暑い

(前略) 広い稲田の間を走っていると、鋼のような青い空に入道雲がそそり立っている。気が遠くなってくる真昼だ。犬が死んだことがたとえようもなく、わけもなくかなしい。(後略)

七月二十三日(日) 快晴

(前略)犬小屋を陽に干して、片づけた。私はテラスの下を覗かない。テラスの下にポコのくわえこんでいた銀紙の玉、紙屑、かまぼこの板、松の枝がある。ポコは山へ着くと、大喜びでトランクの籠の中からとび下りて、一散に家へ駆け下り、水を飲み、それからテラスの隠し場所へ入って、自分の持ち物を点検した。持ち物には、貯金通帳も日記も着物もない。(中略)
私は犬の話はしない。(筆者注・・・ポコは一人娘の花子が拾った犬で、花さんは寄宿舎住まいでこの日山に来、母親の運転する車で山荘に向かっている)でも家へ着く前に話をしなくてはいけない。できるだけ、ゆっくり走る。丁度富士山が真正面に見えるところあたりで「ポコが死んだよ」と言う。花子は「そう」と言ったきりだ。下を向いている。どんな風に死んだかを短く話す。「判った」と花子が言った。話してしまうと、ポコの葬式をしてしまったような落ち着いた気持になった。(後略)

七月二十六日(水) 快晴

(前略)「花子とあん入り揚げまんじゅうを作る。一つずつ大きさがちがってしまった。
ポコのお墓の真上に、いつもうすい星と濃い星が出る。あいつはもう、どんなになっただろうか。少し腐っただろうか、と思う。涙もそんなに出なくなった。もう一度、犬を飼おうか、と思ったり、生きものはもう飼わないで暮そう、と思ったりする。

九月五日(火) くもり時々雨

(前略) 夜は小雨。夏の間は花子がどこかしらにいた。一人になると時間はゆっくりと経つ。犬がいないのにも馴れた。
犬を埋め終わってすぐ、泥だらけのまま、「これからすぐ東京に行ってくる。ポコとそっくり同じ犬を買って、すぐ帰ってくる」と私が言うと「そういうことわするんじゃない。あとで、いやな思いをするぞ」と主人は言ったっけ。

十一月八日(水) 晴れのちくもり風強し

(前略) 夕方風強くなる。時々、人が来る足音のように、大きな枯葉が落ちる。ふと、ポコが生きているような気がする。(後略)

昭和四十三年
 七月十八日(木) 快晴、涼しい風

(前略) 去年の今日、犬が死んだ日。
「犬は飼主の業を背負(しょ)って死んでくれるんだって。とうちゃんの業を背負ってくれたのだといいね」
「百合子の交通事故の方を背負ってったろ。本当はもうとうに百合子は衝突か、崖から落ちていた筈かもしれないぞ」
「業が何にもなくなったら朗らかになって小説なんか書けなくなるかもしれないね。商売上、うまくないね。病気の業の方を背負ってくれるといいね。とうちゃんは痛がりだからねぇ。ガンなんぞになったら目もあてられないよ。ガンにならないように、死ぬときは痛くなくて眠ったように死ねるように、病気の業を背負ってってくれたんだといいね」

一周忌の夫婦の会話通り、ポコは泰淳さんの病気の業を背負って死んでくれたのでしょうか。武田泰淳さんは、8年後の昭和51年10年5日に、胃ガンと転移した肝臓ガンで亡くなられています。ポコがとうちゃんの病気の業を背負って逝ってくれたからか、それ程苦しまれなかったそうです。

『富士日記』に書かれたポコの死は、
読む人の心に染みいり、哀しくさせます。
丁度一年前、私の愛犬が老衰で亡くなりました。
その哀しみが、ふつふつと新たに湧き上がってきます。
両親や義理の父母をなくした時も、そうはならなかったのに。
武田百合子さんが、ポコの死を日記に書くことにより、哀しみを超えたように、
私も、愛犬スオミの死について、前回書いてみました。
先週金曜日が、今も愛しいスオミの一周忌でしたから。

<追記>

昭和四十三年
 八月六日(火) 雨のち薄ぐもり

(前略) ポコがいて、昨日も一昨日も留守番をしていて、帰ってきたら喜んで迎えにでてきた夢をみる。ポコの手がとても長くて、私の肩のところに手をかけて喜ぶ。<お風呂に入ったのかな、一人で。毛がとてもきれいになっているな>などと私が思っている───本当のような夢をみる。(後略)

うちのスオミくんも、留守番をさせていて、ワタシや嫁サンが帰ってくると、ホンマに喜んで迎えに走って来てくれたよな。
嫁サンなんか、私が帰ってきて、こない喜んでくれるのはスオミちゃんだけや・・・と度々言うてましたな、ハイ。
それから、スオミはお風呂どころか、水がキライでしたわ。キライと言えば、服ちゅうのが冬でも着るのは大嫌いでした。
そんなこんな色々な思い出が、止め処なく湧き上がり、一寸ばかりセンチになりそうなワタシなのです・・・。






袖振れ合うも多生の縁412~わが愛犬スオミ、昇天の顛末は・・・~

今日は11月20日ですが、11月20日が何の日か調べてみますと、世界こどもの日だそうです。日本の子供の日は5月5日ですから、世界と違うのや・・・なんで世界と違うのやろか?ふと疑問に想ったので調べてみました。

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「ダレクト雑学トリビア」なるHPによりますと・・・

1959(昭和34)年11月20日に、「児童の権利に関する宣言」が採択されたことと、1989(平成元)年11月20日に、「児童の権利に関する条約」が採択されたことにちなんで国連が記念日に制定した国際デーのひとつで、国連の指導のもと、各国政府が子どもたちの世界的な相互理解、福祉増進のための活動が出来る日を、その国で適当と考える日を選んで制定するようにと勧告していることから、日本では5月5日がこどもの日として制定されたのだとか。

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そうだったんですね。さて、このブログを書き始めた時、ワタシは世界こどもの日について書くつもりやなかったんです。ほな、何を書きたかったかというと・・・わが愛犬スオミくんが、あの世に旅立ったのが、ちようど一年前の今日でした。

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わが愛犬スオミ君は、生前子供達の人気者で、散歩していると結構多くの子供たちが、可愛い!と寄ってきて取り囲んだりしたものです。そんなスオミが世界ごどもの日に亡くなったのは、単なる偶然でしょうが。

さて、スオミは昨年11月5日、送迎付きのまりもさん(トリートメントショップ)に行き、帰ってくると、とてもハイではしゃいでいました。
今思うと、お店の人に可愛がって貰っていたから、きっとお別れしてきたのでは・・・と思っています。(下の写真はワンちゃん美容院から帰宅直後)

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そして、トリートメントして貰った一週間後の12日朝、ぐったりしていたので動物病院に連れて行くと、「心臓が弱っていて、手の施しようがないですね。この子も死を覚悟しています」と診断されました。
そうか、今年に入ってから寝てる時間が相当増えていたので、スオミも老境に入ったのかも・・・と思ってはいたのですが、まさかまさかで、突然こんな日を迎えようとは・・・。タクシーを呼んで貰い、眠っているかのようなスオミを抱きかかえ乗車したのですが、獣医の女先生と受付の女の子が見送ってくれ、なんか厳粛な葬送的気分でありました。
かくして帰宅し、その日一日中スオミは寝ていたのですが、夕方水を飲ませるとごくごく飲み、だっこすると心臓はトクトクトクとキチンと力強く脈売っていました。あれ、回復したんちゃうかな・・・希望の光が少し差してきたように思えた通り、翌13日と14日はいつもの如く食事し散歩も行ったのです。因みにスオミがワタシの手のひらから最後に食べたのはブロッコリーでした。それはさておき、今思うと、この2日はきっと死を迎えるペットたちがお別れ前に思い残すことのないよう家族と過ごす、いわゆる<仲良し時間>だったのでしょう。

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でもその時は、奇跡の復活かも・・・と一縷の望みを託したのですが、15日朝になるともう起きあがれず、19日いっぱい迄寝たきりでした。そして20日午前1時頃、キュ~ンとか細い声で私たちを呼んだので、ゲージにかけていた毛布を開けて覗くと、ここ数日アタマもあげられなかったのに、何とかアタマをあげてお座りをし、私たち夫妻を見詰め、手を差し出し、何かをささやいているようでした。
私たちが「スオミくん、ありがとう。楽しかったよ」などと語りかけると、安心したのかアタマを下ろし眠りにつきました。
そして翌日は何とかごく浅い呼吸をしていましたが、昼過ぎに様子をうかがうと下顎が少し開き、息を引き取っていました。
12歳9ケ月、人間でいうと、色々な計算法がありますが80歳前で、私の歳を越えるまで精一杯を超えて、命を燃やし尽くしてくれたと思っています。長患いし苦しみ痩せ衰えた末に亡くなったのではないのがせめてもの幸いで、元気溌剌としていた頃と全く変わらない、とワタシ達には思え、いまにも起きあがって、「ごはんちょうだい」とか、「ボールで遊ぼ」とか言い出しそうな可愛いスオミの儘でした。晩年の私たちの暮らしを和やかに豊かに彩ってくれたスオミくん、ほんまにほんまにありがとう! そう感謝しつつも、そこはかとなく哀しみがとめどなく湧き上がってくるのでした。
ありし日のスオミの写真を取り出し、過ぎし日にあれこれ想いを馳せていると、哀しみと幸せがない交ぜになり、目頭がうるむのです。
下の写真は、ワタシがまだひげをたくわえていて、スオミは幼かった頃のものですが、スオミはワタシにだっこされるのが大好きで、犬友達のご近所の奥様は「スオミくん、安心しきってだっこされてますね」と仰っておられました。
ワタシて、そない信頼されてる飼い主やったんでしょうか・・・。

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スオミは野球少年だったワタシに似てか、ボール遊びが大好きでした。ワタシが投げてやると、ダイレクトにキャッチ(口でくわえる)出来た時は、どや顔をしていました!
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又、ボールをくわえたまま、勝ち誇ったように部屋中を歩き回るのです。ワタシたちに追いかけてこいと言うようで、追いかけてやると、追いつかれないよう一定の距離を保ちながら闊歩するのです。そして、自分の家(ゲージ)に入り、くわえたボールを自分の俵型ベッドに置くと、「ボクの勝ちや!」という表情で満足げにワタシたちを見やるのです。この他、色々思い出は尽きませんが、家の中の色々な場所で、スオミはここでこうしたとか、ああしてたとか思い起こし、センチメンタルな気分になってしまうのです。これが、ペットロス症候群てやつですかね。そんなテンションが下がった気持ちを慰めてくれたのが、スオミがお世話になっていた西宮のトリートメントショップ、まりもさんから贈られてきた追悼のお花でした。全く思いもしなかったお花を頂き、飾って眺めていると、まりもさんの優しいお気持ちが部屋中に漂い、きっとスオミもまりものお姉さん、ありがとうと感謝しているでしょう。

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傷心の時って、人の優しさが心に染みますよね。まりもさん、その節は本当にありがとうございました。

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現在、我が家のリビングには5枚、寝室には1枚、スオミの写真が飾ってありますし、PCの待ち受け画面には28枚のスオミくんがずらーっと並んで微笑んでいます。
今年数え年80歳であるワタシは、もう新しいワンちゃんを飼うことは出来ませんので、スオミくんの写真と思い出に包まれ、この先も日々幸せに過ごしていくことでしょう。ではでは。


袖振れ合うも多生の縁411~秋の夜長に想うは、袖触れ合うた人々の訃報ぞ(Ⅱ)~

この年になると、袖振れ合った人が亡くなられることがほんまに多いです。ということで、前回に引き続き、2006年から2010年まで、ワタシが仕事で出逢った方々の訃報です。

★2006年★
【藤井賢三さん、73歳】
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ご覧の写真は創立50周年を迎えた近鉄バファローズの新人選手発表記者会見で、梨田監督の左の方が、藤井賢三さんです。私が藤井さんとお会いしたのは、近鉄興業社長であり、傘下のOSK日本歌劇団社長でもあられた頃です。
その当時、OSKの事務所・稽古場は天王寺のアポロビルにあり、ハルカスなどが出来る随分前で、再開発されていませんでしたから、アポロビルの裏筋には小さな飲み屋がゴチャゴチャとありました。
その内の一軒、多分養老という店やったと想いますが、ワタシは毎日のよう通っていました。藤井社長もちょくちょくお越しになり、二人で痛飲したものです。
社長はワタシより9つ年上でしたが、京都大学演劇部出身だけに演劇に造詣が深く、談論風発、色々お喋りさせてもらいました。そんなトークの中で、今も記憶に残っているのは・・・
「私たち現代人は文明開化ちゅうか、未開人と違うて開けてしもたから、神の声が聞こえんようになってしもてると思う。センセはどない思いますか?」と仰ったことです。ワタシも同感で、神様や仏様について蕩々と論じたのですが、そんな話を出来た社長は藤井さんだけでした。
藤井さん、今は天上で直に神様の声をお聞きになっておられるのでしょうか!?

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★2007年★
【花井悠さん、75歳】
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花井悠さんは、西鉄ライオンズ(現在の西武ライオンズ)の花形選手で、現役引退後は野球解説者だけでなく、ABCTVの「おはよう朝日です」のスポーツコーナー「スポーツ&悠」を担当されたり、ABCのラジオ番組「アベロクのどんまいサンデー」にレギュラーコメンテーターとして出演され、安部アナにご隠居と呼ばれ飄々とした語り口で人気を博しておられました。
ワタシはその番組の構成者で、悠さんとアベロクさんと3人、長老組と言われ、放送終了後社食で同じテーブルを囲み、昼飯をご一緒しつつ、四方山話に花を咲かせたものでした。ワタシとアベロクさん二人でなく、悠さんが加わって下さると、ほのぼのと和やかになったのがとても嬉しかったのです!悠さんのお人柄なのでしょう。 
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そして2006年にこの番組は終了し、3人でお疲れさん会をやろうということになり、宝塚市内のある店で宴を催したのです。
その会も相変わらず和気藹々で、楽しく過ごさせてもらい、酒を飲まない悠さんはクルマで来られていたので、阪急逆瀬川駅まで送って頂きましたが、それが最後のお別れでした。悠さん、アベロクさんもそちらに旅立ちましたから、野球談義に花を咲かせておられることでしょうね。

★2008年★
【伏見康治さん、99歳】
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伏見康治さんとご一緒したのは、「美しい科学 シグナス」というテレビ大阪の番組でした。ワタシは番組の構成者でしたが、初代司会者は京大の航空工学専攻であられる松田卓也先生でした。そして二代目司会者が阪大の原子力物理学者であられる伏見先生でした。番組のスポンサーは関西電力であり、科学知識の普及という番組目的の裏には、原発は安全!という大きな目的があったのです。そんなイミがあってか(?)の司会者交代だったように記憶しています。そんなことから、ワタシは番組プロデューサーのYさんと衝突し降板したので、伏見先生と袖触れ合あったのは短い間だったように思います。後に、伏見先生は参議院議員になられたのを新聞記事で知りましたが、2008年に訃報を拝見しました。享年99歳だったとか、大往生だったのでしょう。今、伏見先生はあの世で、フクシマ原発の事故をどのような思いでながめておられるのでしょうか。

★2009年★
【横澤英雄さん、79歳】
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横澤英雄先生は、言わずと知れた宝塚歌劇団の演出家でした。
でもタカラヅカだけやのうて、OSK日本歌劇団でも時々、別名で演出されていたのです。ワタシが先生にお会いしたのは、1981年「秋のおどり 紅葉の森の物語 レビュー日本昔ばなし」という先生の脚本を演出させて頂いた時でした。その稽古の折、横澤先生は時々稽古場に顔を出されていて、お酒の大好きな先生によくお付き合いさせて貰いました。先生はワタシの一回り上でしたが、同い年に見えるくらいお若かったですね。
1981年というと、ピンク・レディ時代で、なめねこなんてのもはやりましたね。もう40年も前で、月日のたつのは早いものです。
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そして、横澤先生と最後にお会いしたのは、近鉄が親会社だったOSKが解散し、市民劇団として活動している2003年でした。
ワタシは市民劇団のOSK日本歌劇団存続の会で、忠臣蔵コラボレーション「生きてこそ春に花! ~大石内蔵助とJ・S・バッハ~」を作・演出したのですが、この作品はOSKのあるメンバーが忠臣蔵をやりたいと言ってきたのです。新生OSKではズラや衣装や大道具など、仰山お金のかかることなど出来る筈もないので、忠臣蔵のマニアックなファンが、地上げにあって店仕舞いを余儀なくされた溜まり場のスナックに集い、最後の日に忠臣蔵を演じるというシチュエーションで台本を書いたのです。従って、ジーパンやTシャツの上に手作りの簡単な裃や羽織を付け、アタマもじあたまで、安上がりなのです。そして、そんな忠臣蔵の余興を、あの世にいる大石内蔵助役(キチンとした時代衣装とヅラで扮している)が見つけ降りてくるのです。又内蔵助と同時代人で、あの世で内蔵助と仲良しになっている大作曲家のバッハも降りてくるという、荒唐無稽っぽさも織り込んだ作品でした。
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この作品をご覧下さった先生は、「腹センセ、面白かったですよ。いや、お世辞やなしに、本当に!」と仰有って下さったのです。しかし、「そうですか・・・ありがとうございます」としかお答えしなかったのです。というのは、新生OSKを立ち上げ社長におさまったたTさんは、この作品の面白さが殆どお解りになっておられないようで、ワタシはこの作品でOSKからおさらばしようと思っていたからです。OSKからリタイアは兎も角、あの時横澤先生ともう少しお話するべきだった・・・と後悔していますが、後悔先に立たずですよね。嗚呼!

★2010年★
【佐野洋子さん、73歳】
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絵本作家の佐野洋子さんの代表作は、なんと言っても「100万回生きたねこ」でしようね。
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私がこの絵本と初対面したのはMBS(毎日放送)で、絵本の読み聞かせがメインの母と子の為のTV番組を構成していた時で、「何ちゅうスゴイ絵本や!」とホンマにびっくりしましたで。ヨメさんはこの絵本を知っていて、「こんなのが舞台で出来たらえゝのにね」とその時宣うたそうですが、私は「こんなんでけへんわ」と素っ気ない返事をしたそうです。
しかし数年後、2006年に亡くなられた、近鉄の娯楽や興行部門担当の近鉄興業という会社(OSK日本歌劇団の親会社)の藤井賢三社長とお会いした時、「ファミリー向けのえゝ作品ないやろか?」と尋ねられ、「ありますわ。<100万回生きたねこ>という絵本があり・・・」云々と即答したのです。思ってもみなかった言葉が口から出たしまったので、オドロキでしたが、何かに喋らされてるというような感じでした。私の説明が終わるや否や、藤井社長曰く、「センセ、それ決まりや。」
普通、その絵本を読んでみてから決めますわな。それを即決された今は亡き藤井社長も天の啓示を受けられたのでしょうか。

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そう、この話をご存じない方もいられるかも知れませんので、此処で「100万回生きたねこ」のあらすじを要約しておきましょう。
主人公のドラ猫は、ある時王様の猫であり、又ある時は船乗りの猫であり、サーカスの手品つかいの猫であり、どろぼうの猫であり、ひとりぼっちのお婆さんの猫であり、小さな女の子の猫であり、100万回も生まれかわり様々な飼い主のもとで死んで逝くのです。100万人の飼い主は飼い猫の死をひどく悲しみますが、当の猫はまったく悲しまなかったのです。
そしてある時、誰の猫でもない野良猫に生まれ、一匹の白猫に出会い恋をし、プロポーズし愛が実るのです。
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そして白猫はたくさん子供を産み、子供達はそれぞれ独り立ちし、やがて二匹共年老いて、白猫は静かに息を引き取り動かなくなります。
どら猫は愛するものの死を悲み泣き続け、朝になっても昼になっても夕方になっても夜になっても泣き止まず、100万回も泣き続け、そして白猫の隣で動かなくなります。
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そして今度は何に生まれ変わったのか? いえ、決して生き返ることはなかったし、又決して生まれ変わることもなかったのです・・・

処でワタシが佐野洋子さんにお会いしたのは、ミュージカル化した舞台を夫君の谷川俊太郎さんとご観劇された後でしたが、その時佐野さんは
一言、こう仰ったのです。
「私、転生の話を書いたのではないんです・・・」
え、100万回も生まれ変わったのって、転生ちゃうのん!? ほな、あれって一体なんやねん!?
と心中想いましたが、「はあ? そうですか・・・」と答えたのを覚えています。佐野さんがあの世に旅立たれてから10年、今、佐野さんはどのようなお思いになっておられるのでしょうか?

次回は、2011年から2015年の訃報です。ではでは。

袖振れ合うも多生の縁410~秋の夜長に想うは、袖触れ合うた人々の訃報ぞ(Ⅰ)~

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秋深き隣は何をする人ぞ」という芭蕉の句がありますが、これ.秋深し隣は何をする人ぞ」と覚えてる人が多いようです。ワタシもそうでしたが、それは兎も角、11月ともなれば秋深しですよね。
そんな秋の夜、隣のベッドの嫁サンはよう寝てますが、ワタシは余り寝られません。でも寝られへんのやったら寝なかったらええと思っている人なので苦にはならず、身近におられた方で先にあの世に旅立たれた方々のことなどを想ったりしているのですが、この年になると袖振れ合った人が亡くなられることがほんまに多いですね。
21世紀に入ってからでは・・・

★2001年★
【香村菊雄先生、92歳】
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香村菊雄先生は私が師事させて頂いた先生で、宝塚歌劇団、宝塚新芸座、そしてOSK日本歌劇団などの作・演出やTV・ラジオの脚本の他、著書も沢山上梓されておられます。(上の写真は物語として秀逸なだけでなく、昔の船場を知る上でも貴重な資料と言える名作です)
処で、以前にもブログで書かせて頂きましたが、先生のお人柄で今も忘れられないエピソードがあるのです。
ある劇場のロビーで、東宝の大プロデューサーだった佐藤勉さんにご紹介して頂いたのですが、その時、「原クンは私の弟子で・・・」と紹介されずに、「原さんは私の年の若い友人で・・・」と仰ったのです。
目下の者を君呼びや呼び捨てにし、又弟子やとか面倒見てやってるとか言うことで、偉ぶる人がこの世界には多いのですが、香村先生は全くそんなことはなく、「原さんは私がお世話してるのやのうて、私の息子が原さんのお父さんにお世話になってますのや」と周りの人達に常々仰っていました。(私の父は教師でした)
私も若い人達に対して、香村先生のようでありたいと思っていますが・・・

【秋元松代さん、90歳】
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秋元松代さんは、下記のような数々の賞を総なめにされている凄い女流劇作家で、何がスゴイって、新劇畑でも商業演劇でも活躍されたのです。

・芸術祭賞(奨励賞,ラジオ部門,第15回,昭35年度)「常陸坊海尊」
・田村俊子賞(第5回 昭和39年) 「常陸坊海尊」
・芸術祭賞(演劇部門,第23回,昭43年度)「常陸坊海尊」
・毎日芸術賞(第11回 昭和44年)「かさぶた式部考」
・読売文学賞(戯曲賞,第27回 昭和50年)「七人みさき」
・紀伊国屋演劇賞(第10回 昭和50年)「アディオス号の歌」
・菊田一夫演劇賞(第4回,昭53年度 昭和54年)「近松心中物語」
・紫綬褒章(昭和54年)
・演劇功労者(第6回 昭和60年)

そんな秋元松代さんにワタシは若い頃、自作の戯曲を見て貰ったことがあったのです。読後仰ったのは、「アナタの作品はストーリー性が強いですね。それを磨いてゆけば・・・」でした。以来、ワタシは物語る作品を書き続けました。ま、ワタシがこの道でやってこられたのは、香村・秋元両先生のお陰と想っております。本当に有り難うございました。

【河島英五さん、48歳】
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河島英五さんとは、大阪は森ノ宮の青少年会館でお会いしたというのか、チラとお見かけしただけなのですが、それは劇団ホリホック・アカダミー公演『秘密の花園』の初日でした。
「あれ、なんで英五さん、見に来てはるのやろ・・・?」とその時ふと想ったのですが、後日たまたまTVをつけると、河島英五さん(上写真右)が出ておられて、「この劇場(今は閉鎖された森ノ宮の青少年会館)は、娘のあみる(上写真左)が初舞台を踏んだ劇場で、『秘密の花園』というミュージカルやったけど、これがえゝ本で・・・」という話をされていたのです。
手前味噌になりますが、このえゝ本を書いたのは私で、あみるさんはこれがきっかけで芸能界に進まれるようになったとは、何かのご縁なのでしょうか。この他、英五さんの妹さんがOSKにいらっしゃったし、彼女が退団された後にも、スペイン村での振り付けをお願いしたり、ご縁が色々あったのです。でも、英五さんか48歳で旅立たれるとは・・・嗚呼!!!

★2002年★
【秋月恵美子さん、85歳】
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秋月恵美子さんは言わずと知れた、OSKの大々々々ドップスターさんでした。アキさん(ワタシ如きが親しく呼びかけては畏れ多いのですが)の晩年、御大の出演なさるレビューを何度か演出させて頂きました。
そして、若造で生意気なワタシに色々教えて下さったのです。このことは以前にも書きましたので、ここでは触れませんが、そり節はほんまにありがとうございました!
お礼を申し上げねばならないのは、それだけやなしに、ワタシが一人前になり、近鉄劇場での本格的公演などを演出する際には、時代物の所作指導スタッフとしてサポートして頂きました。そして稽古場だけやのうて、稽古後に「センセ、一杯つきおうておくれやす」とお誘いして頂き、飲みつつ数々の芸談を聴かせて下さり、大いに勉強させて貰いました。
又、歌劇学校では授業の日が同じだったので、休み時間には和気藹々の楽しいお喋りで時間の過ぎるのが、あっという間で、もっと休憩時間が欲しいなと想うほどでした。そして、秋月先生が学校講師を止められる時、「話題の豊富なセンセとお喋りするのは、ホンマ楽しかったです。おおきに。」と仰って頂き感無量でありました。そうそう、ある時尊厳死の話になり、ワタシが尊厳死宣言を既に書いてると言うと、「それ、見せておくれやす」と仰られお見せしたところ、「わてもこれ書いときますわ」とのことでしたが、あの世へ旅立たれる際に、お役に立ちましたでしょうか?

★2003年★
【黒岩重吾さん、79歳】
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私が黒岩重吾先生とお会いしたのは30年程前、先生の「天翔る白日 ~小説大津皇子~」をミュージカル作品にさせて頂いたからです。
黒岩先生に舞台をご覧頂いた後、近鉄の重役さんや私、そして所作指導の秋月先生などで、黒岩さんを囲み宴を設けたのですが、その折り、「原作にかくも忠実で骨子を変えず、完全にミュージカル化されていて、とても嬉しく思う。」と過分なお褒めの言葉を頂戴し、この先生の一言で私は、今夜のお酒は格段に美味しと杯を重ねたのを覚えています。

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そして、この公演とは関係のない質問もさせて頂きました。それは、当時吉本ばななさんが売り出し中だったので「吉本ばななさんて、どう想われますか?」とお尋ねしたところ、
「そやね、私はええけど、キミは読んどく必要があるやろ。」
とのお答えだったので、先生の亡くなられたお歳に迫っている78才ワタシは、今でも時々ばななさんを読んでいる次第です。

★2004年★
【金子 陽さん、64歳】
【野尻憲司さん、60歳】

金子さんは振付師、野尻さんは旧OSK日本歌劇団制作部社員です。いえ、でした。私は当時62歳で、お二人とも良き飲み友達でした。
でも、金子さんはOSKで振り付けをなさっていましたが、野尻さんとは余り親しくなく、ワタシが仲立ちして3人で飲んだこともありましたが、いゃあ、何か気を遣ったのを覚えています。ですから、同じ年にあの世に旅立たれても、あちらでお二人がご一緒に飲んでるかどうか・・・ワタシが逝くのを待ってるのかも・・・でも、2人とも早すぎましたね・・・この世で飲んでるワタシは、時々寂しく思い出すのであります。合掌。

【加納健男さん、55歳】
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加納さんは漫才作家で、読売TVの「ほんわかTV」などに″くらがりさん″として出演していたこともあるので、「この人、見たことあるわ」と仰る方もいてるでしょうね。それは兎も角、今から40年ほど前、TVコメディ「てなもんや三度笠」で一世を風靡した名物ディレクター沢田隆治さんに「シン漫VSベテ漫」なる新人漫才師とベテラン漫才師の対抗するTVお笑い番組を構成させて頂いてましたが、加納さんはその頃
松竹芸能の文芸部にいて、「あんなんやりたいな・・・」と思てはったそうです。そして数年後、彼はお笑い作家として大活躍、彼の笑いのセンスには到底叶わへんと、我が身の笑い素養のなさを痛感し、シリアス一本槍に方向転換したのです。なのに、加納ちゃんは55歳でお笑いから「さいなら」しまうなんて、彼が存命だったら、このウイズコロナ時代にどんな笑いを造りだしてくれたのかと想うと・・・嗚呼!!!

★2005年★
【中内 㓛さん、83歳】
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中内 㓛さんは、言わずと知れたダイエーの創業者です。 ワタシが中内さんにお会いしたのは、神戸・三宮にオリエンタル劇場を造り、神戸発ミュージカルを全国展開しようと意欲をもたれていた30年ほど前で、鳳欄さん主演のオリジナル・ミュージカル『カルメンを愛した伯爵夫人』の台本を書かせて貰ったからなのです。
その絡みで、中内社長と鳳欄さんとワタシと、東京某ホテルのレストランで食事をしたこともありましたが、中内さんがどのようなお方なのかは、ようわかりませんでした。
唯、その公演に出演する布施明さんとTVで対談され、自分が詩を書くから、キミが作曲してくれと提案され、布施さんも断ることの出来る筈もなくOKしたので、その作品担当の社員から、社長の代わりに作詩してくれと依頼があったのですが、ゴーストライターをワタシにやれというんですか! とお断りしたところ、その社員さんは誰かに頼まれたそうです。
この一件で、神戸発ミュージカルを展開し文化活動をしようという中内さんは、実業家としてはエライ人でも、この面ではどうやろか・・・と思った次第で、神戸発ミュージカルもいつの間にやら雲散霧消でした・・・。
中内さん、もし転生されるなら、本当の本物の文化推進プロデューサーになられますよう、お祈り致しております。合掌。

【皆川睦雄さん、70歳】
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皆川睦雄さんは、同期入団の野村克也捕手と共に、南海ホークス黄金期の主力選手で、今現在、日本プロ野球界「最後の30勝投手」なのです!
30勝なんて、今はゼッタイあり得ないし、20勝でも超スゴイですもんね。ワタシがお会いしたのは、いつの頃でしたか、現役を引退され解説者として活躍されているころでした。ABCラジオの何かの番組だったと想いますが、その番組の構成者だったワタシが記憶しているのは、「30勝なさった秘訣は?」とお聞きすると「自分の体を大切にすねことです」と即答されたことです。「今の若い選手は自分の体を大切にしていない」と嘆いておられましたが、70歳で逝かれるなんて、もうすこしご自愛して頂きたかった・・・と思う次第です。合唱。

此処まで書いてきましたが、まだ2005年ですので、2006年の訃報は次回に致します。ではでは。



袖振れ合うも多生の縁409~国敗れて山河あり、いや、フクシマは山河敗れて国ありです!~

先日、五木寛之さんと姜 尚中さんの対談本「漂流者の生きかた」を読みましたが、こんなことが載っていました。
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五木さんは、戦後朝鮮半島から引き上げ日本の土を踏んだ時、「国破れて山河あり」と思われた由。
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この「国破れて山河あり」句は、中国は唐時代の詩人杜甫の五言律詩「春望」の冒頭の句で、「春望」は、757年杜甫が46歳の時、安禄山の乱で長安の敵中に軟禁されていた際、都の春景色を遠望し、自然の悠久と国の戦乱を比べ、自らの不遇を詠じた漢詩なのです。

国の都(の長安)は破壊されてしまったが、山や川は昔と変わることなく存在している。
(荒れはてた)この城(町)にも(いつもと同じように)春がやってきて、草や木は深くおい茂っている。
(この乱れた、いたましい)時世に心を痛め悲しんで、(いつもの春ならば楽しむはずの)花を眺めて涙をこぼし、
(家族と)離ればなれになっていることをうらめしく嘆いては、(楽しいはずの)鳥の声にはっと胸をつかれる。
(戦さの)のろしは幾月もの間ずっと続いてうちあげられて(戦乱はいつ終わるとも知れず)、
家族からの手紙は万金に価するほど貴重なものに思われる。
(悲しみのあまり)白髪頭をかきむしると、(髪の毛は心労のために)益々短くなっていて、
冠をとめるかんざしをさすことがまったくできなくなろうとしている

上記の和訳は「格言・故事成語」講座HPよりシェアさせて頂きましたが、最後の行、髪の毛は益々短くなって云々は、今ワタシもそうですね。でも、ワタシは別に心労なんてないし、冠を被らないから冠を留めるかんざしなどさすこともないので、何ら不都合はありません。
それはさておき、五木さんは数年前、フクシマに入られた時、「山河敗れて国あり」と思われたそうです。

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フクシマてまさに、国有れど山河敗れたり!の状況ですよね。あの3・11から10年近くになり、アンダーコントロールと大嘘ついて東京オリンピック・パラリンピックを東京にもたらした、でも一年延期かはたまた挙げ句の果てに中止か、それ見たことかと言われそうなアベ総理の様々な汚点、モリカケ問題、公文書破棄或いは改竄、極度の忖度政治などを継承なさっているスガ政権になっても、敗れた山河が元通りに繕われているとは到底思えず、ワタシは総理のお名前の通り、清々(スガスガ)しい気分には皆目なれないのであります。とまあ、愚痴ってもしゃあないので、「春望」についての遠い昔の思い出話を少々。

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あれは、
私が、
まだ睾丸
の、否々
紅顔の
美少年(?)
でありし
頃、多分
中2でしたか、
国語の
授業
「春望」を
習った
のであり
まーす。
その時、
先生は、

「こんな漢詩の一つや二つ、諳(そら)んじてるとえゝね」と宣われたのです。
そやけど宿題やないみたいやったので、覚えようとしなかったのですが、翌週突然、「キミ、杜甫の国破れて山河ありを暗唱しなさい」と命じられたのです。「えー、そんな宿題やて言わへんかったのに・・・」
「覚えてません」と言おうとしたのですが、口からスラスラと、「国破れて山河あり」から「渾(す)べて簪(しん)に勝(た)えざらんと欲す」まで淀みなく、息継ぎもせず一気にに口をついて出てきたのです。これには先生もびっくり、いや、ワタシもびっくりでした!
あれって、何なんだったのでしょうか!?
そしてあれから60数年、「春望」は、いまだにすらすらと暗唱出来るのです。
最近物覚えが悪くなり、人の名前なんかよく出てこずに、「ほれほれ、ほらほら、あの人やんか・・・」なんて言うてるのに、昔のことはよう覚えてるもんですね。いや、昔のことやおませんが、アベソーリの負の遺産や山河破れたフクシマのことは、ゼッタイに忘れへん!と思っているワタシなのです。

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袖振れ合うも多生の縁408~三密と言えばコロナ!? いえ、三密と言えば空海弘法大師空海です!~

今現在、「三密」といえば新型コロナウイルスの集団発生を防ぐ為の、3つの避けるべき密、「密閉・密集・密接」を思い浮かべますが、そもそも
「三密とは、空海がひらいた真言宗をはじめとする密教の教え」なのです。
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一番上の画像の左下に書かれている「ホトカミ」とは、参拝者と神社お寺でつくるお参りの記録共有サイトなのですが、その「ホトカミ」の三密についての説明をワタシなりに少しばかり要約させて貰いますと・・・

「身密(しんみつ)・口密(くみつ)・意密(いみつ)」が三密ですが、身密とは身体・行動、口密とは言葉・発言、意密とはこころ・考えについての教えです。
ところで、仏教では生命は「身・口・意(しん・く・い)」で構成されていると考えていますが、密教以外の宗派では、この「身・口・意」は煩悩を生み出すものなので離れるべきだと考えます。
例えば、自分勝手な行動をしてしまった、悪口を言ってしまった、人を傷つけてしまったなど、皆さんも反省したことがあるのではないでしょうか。

そやな。誰かてそないな経験、一つや二つありますわな。え、一、二やない、仰山あるて・・・ワタシもま、思い当たりますわ、トホホ・・・。

ですから、密教以外の宗派では「身・口・意」の働きは煩悩を生み出してしまうため離れるべきだと考えるのです。しかし密教では世の中のすべてを、「身・口・意」の働きをも、大日如来という仏さまの働きとして考えます。

自分自身を含めた世の中すべてを、大日如来という仏さまの働きとして考えるため、自分自身も大日如来であると考えるのです。
ところが私たちは、「自分自身が大日如来・仏さまである」と気付くのは難しいですよね。では、「自分自身が仏さまである」と気付くには、どうしたらよいでしょうか?
「自分自身が仏さまである」と気付くための方法こそが、まさに三密の修行なのです。

三密の修行とは、
・身密(身体・行動)
・口密(言葉・発言)
・意密(こころ・考え)を整えることです。


「行動・言葉・こころ」の3つを整えることで、自分自身が仏さまであることに気付き、「生きたまま仏さまになる、即身成仏(そくしんじょうぶつ)」を達成するのです。

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え、即身成仏て、そないな大層なこと、でけへんわ。ミイラなんかになりとうないもんな・・・え、そやないて。ま、もう少し話を進めてみましょか。

では、私たちは日常生活で、どのように三密を実践できるのでしょうか?
今からすぐに始められる具体的な三密の実践方法を紹介します。

まずは、からだ・行動についての身密の教えを紹介します。

身密(しんみつ)は、からだ・行動の教え

○自分の行動を見直し、大事なものを見極める
○みんなのいのちを守る行動を取る
○できる範囲でからだを動かす
○手を洗い身を清める

・自分勝手な行動はしない。自分さえよければそれでいいという気持ちで行動しない。

自分の日々の行動を見直すことも、立派な修行なんですね。

特に、新型コロナウイルスの感染防止にも自分勝手な行動は慎み、他人のためにどんな行動をとるべきか考えることは大切です。

次に、言葉や発言についての口密の教えをみていきましょう。

口密(くみつ)は、ことば・発言の教え

○自分の言動を見直し、正す
○電話やインターネットなどを通して友人とたわいもない話をして気分転換する
○ありがとうと感謝の気持ちを口に出す
○うがいをしっかり行い、口を清める

・自分の事を棚において、人の悪口ばかりを言わない(インターネットに書き込まない)
・人の揚げ足をとらない

言葉は他人とコミュニケーションをとる上で最も重要なものです。
その言葉に気を付けることも、大事な修行なんですね。
最後に、こころ・考えについての意密をみていきましょう。

意密(いみつ)は、こころ・考えの教え

○自分のこころの揺れ動きを観察する
○こころをありのままに見て、自分に気づく
○一歩立ち止まってこころを見つめる
○自分だけでなく他者に気配りをする
○今できる範囲で、自分がリラックスできること、こころが豊かになることをやってみる
○深呼吸をしてこころを落ち着かせる

・様々な情報をむさぼり、こころ惑わされない

悲しいニュースなどに心がざわつくこともあるかもしれませんが、
自分の心と向き合いながら、真心を込めた行動や発言を心がけたいですね。

ふむふむ、これやったら、出来ることもありますわな。一つ二つ、やってみようかな・・・もし良かったら皆さんもどうぞ。

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東京都八王子市高尾山三密の道

今回はワタシに似合わない(?)まじめなお話でした。ではでは。