袖触れ合うも多生の縁305~とざい、とーざい 東西両本願寺譚にござりまする!

画像
画像
上の写真は西本願寺と東本願寺ですが、タイトルの「とざい、とーざい」というフレーズは、東西声(とうざいごえ)と言い歌舞伎や人形浄瑠璃の序びらき、口上の前などに用いられる開始の合図です。江戸期、照明のない時代の劇場は舞台に太陽光線を受ける為、通常南に向かって建てられています。ですから(客席側から見て)客席の右端は東、左端は西で、お客様への呼びかけを「とざい、とうざい」と言うようになったとか。口上につきものの「隅から隅まで」とほぼ同じ意味ですね。
画像
画像
それから余談ですが、ちんどん屋のことを東西屋とも言いますね。抑もチンドン屋(チンドンや)は、チンチンドンドンと鳴るチンドン太鼓という楽器を鳴らし、宣伝文句の口上を面白おかしく言い立てたのですが、道行く人達に呼びかける冒頭に東西声を用いたので、東西屋とも呼ばれるようになったのです。
画像
又々余談ですが、東西と言えば東西冷戦、東西冷戦など若い人達には昔のことでしょうね。でもしかし、東西冷戦の終わった今も、世界中で紛争は絶えず、この国も戦争の出来る国となり、右肩上がりの経済最優先、バブルよもう一度など甦る筈もない見果てぬ夢を追い求めている内に、歩一歩戦争に向かっているようで気がかりなことです。ま、気を取り直し本願寺について一寸筆を進めてみましょう。私の家の宗旨は浄土真宗本願寺派(西本願寺)ですが、私はどの宗教、どの宗派も侵攻してはいません。しかし、スピリチュアルな宗教的感性人間だと思っております。ま、それは兎も角、本願寺は何故東と西に別れているのか?秀吉と家康が関与しているのですが、ブログ「Taptrip」の解説を要約しますと・・・
画像
画像
時は文禄元年(1592年)に遡ります。当時の「龍谷山本願寺」(後の西本願寺)11代目住職顕如が亡くなったので、時の将軍豊臣秀吉は顕如の遺言に従い、10年後三男の准如(和睦派)に住職を継がせるよう、臨時住職であった長男の教如(抗戦派)に申し立てます。教如は秀吉の申し立てに納得しましたが、教如を取り巻く抗戦派の面々は黙って居ず、秀吉の怒りを買い追放されてしまいます。そして隠居生活を強いられた教如は嘗てから交友のあった徳川家康に接近し、慶長7年(1602年)、家康から烏丸七条に寺地を寄進され、ここに真宗大谷派本山の「真宗本廟」、所謂東本願寺を建立したのです。かくして浄土真宗の2大総本山が現在のJR京都駅近くに佇み続けているのです。
画像
処で、両西と東の本願寺はどう違うのでしょうか?両本願寺の宗祖は共に親鸞聖人で、11代目迄は同じ思想で同じ釜の飯を食べていたのですから、言い回しや祭壇の飾りつけ等に微妙な違いはあるものの、宗教的思想にほとんど違いはないのです。
画像
画像
画像
画像
東西本願寺画像比較を検索してシェアさせて頂きましたが、どこが違うねん、殆ど同じやないか、ようわからんわ・・・というのが皆さんの思いでしょうね。私もそうですが、一番大きな違いは、門徒なら一日に何度も唱える「南無阿弥陀仏」の発音が違うのです。西本願寺では「な"も"あみだぶつ」、東本願寺では「な"む"あみだぶつ」と発音するのが一番大きな違いだとか。私は知らなかったので、ホンマかどうかお西さんに問い合わせてみますわ。 え、<も>と<む>て、そない大した違いやないがな・・・と仰るかも。門徒やないお方はそうでしょうね。私の家の宗旨はお西さんですから、もし確認してそやったら、墓参りした時は「なもあみだぶつ」と唱えることにしますわ。あ、そう言えば私が西本願寺の御影堂に上がらせてもろてる時、お剃刀式が行われてましたが、皆さん「なもあみだぶつ」と唱えてはったような気がしてきましたです、ハイ。
画像
画像
お剃刀式(帰敬式)とは、阿弥陀如来と親鸞聖人の御前で浄土真宗の門徒としての自覚をあらたにし、お念仏申す日暮を送ることを誓う最も大切な儀式なのです。 この帰敬式を受式され、仏弟子となった方には本願寺住職(ご門主さま)より法名が授与されるとか。若い女の子も結構仰山お剃刀式を受式してはって、仏教は葬式仏教に過ぎないと言われて久しいですが、まだまだ生きているんやなと思いを新たにした次第です。


ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック