袖振れ合うも多生の縁312~今上天皇陛下は象徴天皇を全うなされましたが、昭和天皇は・・・?~

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明日は天皇誕生日で、12月23日の天皇誕生日は今年でおしまいですね。現在、4月29日はみどりの日ですが、昭和の時代は天皇誕生日でした。こんな具合に12月23日は何かの祝日になるのでしょうか。私なら畏れ多いことですが、象徴の日とネーミングしたいです。そんな訳で以前にも書かせて頂きましたが、もう一度陛下が生前退位を表明なされたお言葉を振り返ってみたいと思います。

(前略)私が天皇の位についてから、ほぼ二十八年、この間(かん)私は、我が国における多くの喜びの時、また悲しみの時を、人々と共に過ごして来ました。私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。天皇が象徴であると共に、国民統合の象徴としての役割を果たすためには、天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。こうした意味において、日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じて来ました。皇太子の時代も含め、これまで私が皇后と共に行(おこな)って来たほぼ全国に及ぶ旅は、国内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井(しせい)の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした。(後略)

陛下は<象徴的行為>を<鎮魂>と<慰藉>であるとお考えで、<鎮魂>とは先の大戦で斃れた人々の霊を鎮める為の祈りですから、陛下は死者が息絶えた現場まで足を運び、御霊よ安らかなれと真摯に祈りを捧げられているのです。また、<慰藉>としては災害地を見舞い、床に膝をついて直接被災者と言葉をかわされましたが、歴代天皇で言葉をかわされる際に床に膝をつかれたのは初めてでした。
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陛下がなされた<鎮魂>と<慰藉>を、皇太子時代も含めて抜粋してみますと・・・
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1975年(昭和50年)、沖縄県祖国復帰(沖縄返還)実現後の沖縄国際海洋博覧会に際し、立太子後初めて訪問されただけでなく、琉歌を研究し琉歌8首を発表。
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1987年(昭和62年)、沖縄海邦国体を前に病臥した父・昭和天皇(昭和天皇が在位中の天皇として史上初めて沖縄を訪問する予定だった)の名代として沖縄を訪れ、同年10月24日南部戦跡の平和祈念堂で、
「先の大戦で戦場となった沖縄が、島々の姿をも変える甚大な被害を被り、一般住民を含むあまたの尊い犠牲者を出したことに加え、戦後も長らく多大の苦労を余儀なくされてきたことを思う時、深い悲しみと痛みを覚えます」
との天皇の言葉を代読。

この皇太子が代読された昭和天皇のお言葉に私は違和感を禁じ得ないのです。何故なら太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)2月14日に、天皇の重臣である近衛文麿が昭和天皇に対し奏上した即時戦争終結すべしとの進言、所謂「近衛上奏文」に対し、「もう一度戦果を挙げてからでなければ終結できぬ」と取り上げず、その6ヶ月後太平洋戦争最後の地上戦である沖縄戦となり、沖縄県生活福祉部援護課の1976年3月発表によると、日本側の死者・行方不明者は188,136人で、その内94,000人が民間人だったのです!
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因みに近衛上奏文は・・・
『敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存侯 以下此の前提の下に申述べ侯、敗戦は我国体の瑕瑾たるべきも、英米の輿論は今日までのところ、国体の変更とまでは進み居らず、(勿論一部には過激論あり、又将来いかに変化するやは測知し難し)随て敗戦だけならば、国体上はさまで憂うる要なしと存侯。 国体護持の立前より最も憂うべきは、敗戦よりも、敗戦に伴うて起ることあるべき共産革命に侯。』
口語訳で大略しますと・・・
『敗戦はもはや避けられない。しかし米英の世論は天皇制の廃止にまでは至っていないため、今のうちに米英 と講和するべきである。敗戦によっても国体は維持できるが、それより敗戦の混乱に伴う共産革命を恐れるべきである。』

昭和天皇がこの近衛文麿の上奏を受け入れていたなら、沖縄の悲劇は無かったのです!
それだけでなく、戦後昭和天皇がマッカーサー元帥に宛てた、「米軍による沖縄占領状態を長期間継続させることを依頼する」という所謂沖縄メッセージが厳然と存在しているからです。昭和天皇は1947年9月に<米軍が沖縄や琉球列島その他の島に米軍が占領状態を50年間より更にもっと長期間継続させることを希望する>考えを示し、当時天皇の御用掛であった寺崎英成が占領軍の政治顧問のシーボルトの事務所を訪れて昭和天皇の考えを伝え、マッカーサー元帥にその内容を送ってもらうように依頼し、その文章の記録が残されているのです。しかし、この前年の1946年11月に日本国憲法が公布され、既に象徴天皇が確定し、天皇は政治的な権力を行使できない立場になっていたのですが、にも拘わらず政府を通さず直接アメリカ側に政策要望を出していたのです。
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豊下楢彦氏の「昭和天皇・マッカーサー元帥会見」によれば、この沖縄メッセージだけでなく、昭和天皇はマッカーサー元帥との11回に及ぶ会談や米国のダレス国務長官への文書などで極めて政治的な発言をされているます。例えば、1947年5月6日に行われた第4回目会見での発言は・・・
「日本の安全保障を図るためには、アングロサクソンの代表者である米国が其のイニシアチブを執ることを要するのでありまして、此の為元帥の御支援を期待しております」
この発言には、憲法9条も国連もおよそ期待せず、アメリカの武力によって日本の天皇制を守ってほしいとする昭和天皇の本音が露骨に現れていると豊下氏は論じておられます。

また、1950年の天皇のダレス宛の文書メッセージでは、公職追放の緩和についても強く主張しています。
「(追放の緩和によって)多くの有能で先見の明と立派な志を持った人々が、国民全般の利益のために自由に働くことができるようになるであろう。現在は沈黙しているが、もし公に意見表明がなされるならば、大衆の心に極めて深い影響を及ぼすであろう多くの人々がいる。仮にこれらの人々が、彼らの考え方を公に表明できる立場にいたならば、基地問題をめぐる最近のあやまった論争も、日本の側からの自発的なオファによってさけることができたであろう」

ここで「最近のあやまった論争」というのは、「わたしは軍事基地は貸したくないと考えております」といった吉田茂首相の議会発言などをさしているものと豊下氏は推測しています。天皇は吉田の姿勢に強い不満を感じ、アメリカによる日本の保護を得るためには、日本の側から積極的に基地のオファをするくらいでないといけないと考えていたので、このような発言が出て来たと言うのです。実際この発言を踏まえ、天皇の側近たちを介在させた影の交渉ルートが出来上がり、吉田による公式なルートと天皇による非公式なルートとが併存する二重外交の構図が出現した。これが一国の政治にとって非常に由々しい事態であることはいうまでもないでしょう。国体護持と冷戦時代の共産化を防ぐ為の行為で、昭和天皇は超法規的措置とお考えだったかも知れませんが、これって紛れもなく矢張り憲法違反ですよね。しかし、そんな昭和天皇を反面教師としたからこそ、平成天皇は見事なまでの象徴天皇であらせられたのでしようか。
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話を平成天皇陛下の<慰藉>に戻しますと・・・
1991年雲仙普賢岳噴火被災地のお見舞い。
2008年(平成20年)9月8日新潟県行幸の折、被害の大きかった被災当時の山古志村(現・長岡市山古志)を視察なされた後、山古志の被災者と懇談され、励ましのお言葉を。中越地震発生4日後に救出された男児(当時2歳)が無事に成長していることを知り、その成長を喜こばれた由。
2011年(平成23年)3月11日発生の東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)については異例のビデオメッセージを送られたほか、各地の避難所を皇后と共に歴訪。この他枚挙に暇がありません。

そして<鎮魂>ですが、終戦70年にあたっては・・・
平成26年6月26日~6月27日 天皇皇后両陛下 沖縄県行幸啓
平成26年10月11日~10月12日 天皇皇后両陛下 長崎県行幸啓
平成27年4月8日~4月9日 天皇皇后両陛下 パラオご訪問(西太平洋戦没者の碑等)
平成27年4月16日 天皇皇后両陛下 高尾みころも霊堂行幸啓
平成27年5月26日 天皇皇后両陛下 東京都慰霊堂行幸啓
平成27年6月10日 天皇皇后両陛下 神奈川県行幸啓(戦没船員の碑)
平成27年6月17日 天皇皇后両陛下 宮城県行幸啓(蔵王町北原尾地区開拓地)
平成27年7月20日 天皇皇后両陛下 栃木県行幸啓(那須町千振開拓地)
平成27年8月11日 天皇皇后両陛下 広島市被爆70周年記念事業 広島交響楽団 平和の夕べコンサートご鑑賞
平成27年8月22日 天皇皇后両陛下 長野県行幸啓(軽井沢町大日向開拓地)
平成28年1月26日~1月30日 天皇皇后両陛下 フィリピンご訪問(比島戦没者慰霊碑等)
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終戦60年にあたっては・・・
平成17年6月27日~6月28日 天皇皇后両陛下 サイパン島ご訪問(中部太平洋戦没者の碑等)
平成17年7月4日 天皇皇后両陛下 終戦60周年記念行事「戦没殉職船員遺族の集い」
平成17年8月29日~8月30日 天皇皇后両陛下 長野県行幸啓(南牧村野辺山地区開拓地)
平成17年9月2日 天皇皇后両陛下 栃木県行幸啓(那須町千振開拓地)
平成17年10月11日 天皇皇后両陛下 神奈川県行幸啓(戦没船員の碑)
平成17年12月13日 天皇皇后両陛下 日本遺族会婦人部「新たなる出発の集い」
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終戦50年にあたっては・・・
平成6年2月12日 天皇皇后両陛下 硫黄島行幸啓(天山慰霊碑,鎮魂の丘)
平成7年7月26日~7月27日 天皇皇后両陛下 長崎県・広島県行幸啓
平成7年8月2日 天皇皇后両陛下 沖縄県行幸啓
平成7年8月3日 天皇皇后両陛下 東京都慰霊堂行幸啓
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とこれ又枚挙に暇がなく、長の歳月にわたり象徴天皇としてのお務め、言葉のつくしようもございません。

さて、最後に余談ですが、陛下らしいエピソードを見つけましたので、それを書かせて頂きます。
今上天皇陛下は、昭和天皇崩御にあたり相続税4億2800万円を納められておられますし、また皇居のある千代田区には住民税を納められているのです。

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