袖振れ合うも多生の縁363~今日12月14日は赤穂浪士討ち入りの日ですが、では12月10日は何の日かご存じでしょうか?~

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12月14日、1702年元禄15年のこの日に47士が吉良屋敷に討ち入りし主君の仇討ちを成し遂げたのは皆さん、ご存じですよね。そやけど12月10日ちゅうのは何の日やろか? それに山本太郎議員の写真がドカンと写されてるのはどういうこっちゃ???
PCで<今日は何の日>を調べてみると、「ノーベル賞授賞式」や「三億円事件の日」なんかが載ってました。あ、そうそう「世界人権デー(Human Rights Day)」なんてのもありました。
処で、世界人権デーは、1950(昭和25)年の国連総会で制定された国際デーの一つで、1948(昭和23)年のこの日、パリで行われた第3回国連総会で「世界人権宣言」が採択されたのです。
「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。」で始る全30条と前文からこの宣言はなっているのですが、この宣言がもっと前に、50年以上前に採択されていて且つ日本政府が遵守していたら、1901年(明治34)12月10日に元衆議院議員田中正造氏(写真下)が明治天皇に直訴するなんてこともなかったでしょうね
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いえ、今でも日本政府は人権を遵守しているとは必ずしも言い難い部分もありますから、2013年10月31日に山本太郎参議院議員(現在は元参院議員)は秋の園遊会で平成天皇に直接手紙を手渡したのでしょう。朝日新聞デジタル版によりますと、手紙の内容は、「原発事故での子どもたちの被曝や事故収束作業員の劣悪な労働環境の現状を知ってほしかった。」と山本議員は記者団に説明した由。

『れいわ新撰組』党首の山本太郎さんが話題になったのは7月の参院選挙ですから、数ヶ月後の今頃取り上げたのは、天皇陛下への直訴つながり、田中正造さんがらみなのであります。
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処で田中正造(敬称略)が明治天皇に直訴したのは、足尾鉱毒事件についてですが、この事件って名前は記憶しているものの、よく知らないのでWikipediaで検索してみました。その説明を要約しますと・・・足尾銅山は江戸時代から採掘されていたが、幕末には殆ど廃山状態となり、明治維新後民間の古河市兵衛に払い下げられ、古河が採鉱事業の近代化を進めた結果、大鉱脈を発見し足尾銅山は日本最大の鉱山となり、東アジア最大規模の銅の産地となりました。しかし精錬時の燃料による排煙や、精製時に発生する鉱毒ガス(主成分は二酸化硫黄)や排水に含まれる鉱毒(主成分は銅イオンなど金属イオン)は甚大な鉱毒公害ををもたらしたのです。鉱毒毒ガスやそれによる酸性雨で近辺の山は禿げ山となり、木を失い土壌を喪失した土地は次々と崩れ、この崩壊は21世紀となった今も続いているのです、嗚呼!

現在も続いているなんて知りませんでした!(下の写真は2005年3月撮影)

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鉱毒による被害はまず、渡良瀬川の鮎の大量死という形で現れ、次に渡良瀬川から取水する田園や、足尾から流れた土砂が堆積した田園で、稲が立ち枯れるという被害が続出し、これに怒った農民らが数度にわたり蜂起したのですが、田中正造はこの時の農民運動の中心人物なのです。又、この鉱毒被害は渡良瀬川流域だけにとどまらず、 江戸川を経由し行徳方面、 利根川を経由し霞ヶ浦方面まで拡大し、田畑への被害は、特に明治23年8月と29年7月21日、8月17日、9月8日の4度もの大洪水で顕著となり、明治34年には足尾町に隣接する松木村が煙害のために廃村となり、松木村に隣接する久蔵村、仁田元村も前後して廃村となったのです。

公害対策工事は明治30年頃から行われ、表だった鉱毒被害は減少したものの、渡良瀬川に流れる鉱毒がなくなったわけではなく、渡良瀬川から直接農業用水を取水していた群馬県毛里田村とその周辺では、大正期以降逆に鉱毒被害が増加し、以後も昭和になった1971年(昭和46年)には毛里田で収穫された米から カドミニウムが検出され出荷が停止さました。古河鉱業はカドミウム被害を認めていませんが、群馬県はこれを断定しているのです!

又明治に戻りますが、農民の鉱毒反対運動が激化し、明治33年(1900年)2月13日、陳情団が東京へ押しかけようとしたところ警官隊と衝突し流血の惨事に至り、農民多数が逮捕されました。

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田中正造は、度々国会で足尾鉱毒について糾弾したのですが、埒があかず、明治34年(1901)12月10日、東京市日比谷において帝国議会開院式から帰る途中の明治天皇に直訴に及んだのです。しかしながら警備の警官に取り押さえられ、直訴そのものは失敗したものの大騒ぎになり、号外も配られるに及び、直訴状の内容は広く知れ渡りました。直訴状は幸徳秋水が書いたものに田中が加筆修正したと伝えられています。直訴未遂の結果、田中は即拘束されましたが、政府はこの件を何事もなかった如く葬る為、単に狂人が馬車の前によろめいただけだと不問にし、正造は即日釈放されたのです。

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上の写真は、田中正造直訴を報道する明治34年12月12日の野州日報ですが、12月11日の都新聞には下記のように報道されています。
 
「◎田中正造氏直訴彙報・・・・・▲現場の模様 大要号外に記しし如くなるが、なお其の詳細を記さんに氏が群衆中より?簿に向かって進むときはさすが恐?に堪えざりけん。気のみ焦りて足の進み意の如くならざるものの如く見えしが、真っ先にこの状を認めたる儀仗兵中の近衛騎兵連隊附陸軍騎兵特務曹長勲八等伊知地李盛氏は?剣を振り翳して氏の御馬車に近寄るを遮らんとしたるも乗馬逸して意の如くならざりしにぞ田中氏はこの隙に乗じて益々御馬車に接近せんとする際御道筋警戒中なりし麹町警察署の尾川彦二郎、高木八五郎の二巡査馳せ付け尾川巡査は氏を後方より抱き高木巡査は襟髪を捉え協力して一旦地上に引き倒し直ちに応援の警部巡査等と共に周囲より厳重に警戒して虎ノ門内派出所へ引致せり。
▲引致後の模様・・・・・派出所にては単に宿所氏名等を訊問せしのみにて間もなく氏を人力車に乗せ警部巡査四名付き添い麹町警察署へ拘引したるも拘留所へは入れず唯応接室の椅子によらしめ数名の巡査をして監視せしめ置き午後一時より石黒警部を立ち会わしめ同署長村島警視自ら訊問に着手せしが午後五時に至るまで引き続き取り調べ中にてその結了を告げるは十一時ごろならんとのことなりき。当日は川淵東京地方裁判所検事正も羽佐間検事を従え午後一時より三時まで同署へ出張して実況を視察せり。

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そして田中正造直訴から112年後の10月31日、山本太郎参議院議員(当時)が天皇陛下に直訴、いえ、直接手紙を手渡したのです。
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何故「直訴」を「手紙を手渡した」と書き直したのかと言いますと、『HUFFPOST』(2013・10・31)に、<請願法第3条には「天皇に対する請願書は、内閣にこれを提出しなければならない」と定められているので、もし山本太郎氏の手紙が「請願」に当たる場合には違法である可能性もネット上では指摘されている>と書かれているからです。単にご機嫌伺いのような挨拶的な親書であれば、問題ないのでしょう。又『朝日新聞』2013年11月1日付によれば・・・
参院議院運営委員会の岩城光英委員長(自民党)は1日、山本太郎参院議員(無所属)が10月31日の園遊会で、天皇陛下に手紙を手渡したことに対し事情を聴いた。山本氏は聴取後、記者団に「マスコミが騒ぐことによって政治利用にされてしまう。政治利用なら手紙の内容を公開するはずだが、一切していない。個人として陛下に子供たちの健康被害や被曝(ひばく)労働者の切り捨ての実情を伝えたかっただけだ」と、政治利用との指摘を強く否定した。ただ、「ルールを知らずにお手紙を渡したことは事実。そのことに関する議会のお沙汰が出た時には受け止めるしかない」と述べ、同理事会が処分などの決定を出した場合は従う意向を示した。
そして、菅義偉官房長官は今回の山本太郎氏の行動について、以下のようにコメントしています。
「文書はそばにいた侍従長が預かった。内容は聞いていない。」
このコメントは、山本議員の文書は陛下に伝わっていないし、政府もその文面が請願に該当するか分からないので不問にする・・・ということを意味しているのでしょうね。なんだか田中正造の時の、<単に狂人が馬車の前によろめいただけだ>から不問にするという対応と似ていませんか?

処で、山本議員の手紙を受け取られた陛下は、この手紙をお読みになりたかったのかどうか。陛下のお気持ちを知るすべはありませんが、その後の陛下の私的ご旅行が私には些か気になるのです。同じ年の11月14日付け時事通信社の記事によりますと・・・
宮内庁の風岡典之長官は14日の定例記者会見で、秋の園遊会で天皇陛下に直接手紙を渡した 山本太郎参院議員について、刃物が入った封筒が同議員宛てに届いたとの新聞記事を見た陛下が心配されていることを明らかにした。
とのこと。そして5月21日の『朝日新聞』夕刊によりますと・・・
天皇,皇后両陛下は21日,東北新幹線で栃木県入りした。同日午後,足尾鉱毒事件の舞台となった渡良瀬遊水地などを訪問。22日には日光市で,足尾銅山の煙害により木々が枯れた松木渓谷などを視察する。

この記事に関する『社会科学者の随想』というブログによりますと・・・
この記事の中身は,明治帝政が日本の国土を破壊していった典型的な実例である足尾鉱毒事件の歴史に対して,現在の天皇家がわざわざ並々ならぬ関心を抱いているというものである。明治以来の日本帝国が武力でもって東アジア諸国を侵略するさい,兵器・武器の製造において重要な鉱物となる銅を採掘・精錬するための鉱山・工場が足尾にあったのである。
又『朝日新聞』2014年5月23日朝刊の報道によりますと・・・
天皇,皇后両陛下は22日,1泊2日の日程で訪れた栃木,群馬両県訪問を終えて帰京した。両陛下が自然の再生に関心を寄せつづけていることが発端となって実現した私的な旅行。栃木県では,足尾銅山跡付近の山々や,田中正造ゆかりの佐野市など「日本最初の大規模公害」とされる足尾鉱毒事件の舞台をめぐった。
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「この赤いのが訂正ね」。天皇陛下は佐野市郷土博物館(写真下。館前に佇むのは田中正造の像)で田中正造が明治天皇に宛てた直訴状を前にメガネをかけ、赤い訂正印が各所に押された推敲の跡を確かめるように見入った。正造が直訴を試みてから113年。説明役の山口明良館長は「一文字一文字を追っていらした。明治天皇が目にしなかった直訴状をみてもらい,感慨深いものを感じます」と言う。
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足尾鉱毒事件の舞台をめぐられ、田中正造の直訴状に大いに関心を寄せられた陛下は、山本太郎参院議員に手渡された福島原発被害者を思いやる手紙を開封し、文書を一読してみたいとお思いになっておられたのではないか・・・などと私は推測してしまうのですが、如何なものでしょうか。
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  山本太郎議員を如何に思うかは黙して語らぬ田中正造の像