袖振れ合うも多生の縁365~昔は毎朝夕、108の鐘をついていたとか。それが除夜だけになったそうです。~

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今年もいよいよ押し詰まりあと3日で大晦日ですから、今年最後のブログは除夜の鐘についてです。除夜とは、除日(じょじつ)の夜のことで、「除」には古いものを捨てて新しいものに移るという意味があり、除日とは一年の一番最後の日、大晦日(おおみそか)のことをさすのです。
処で除夜の鐘は108回撞かれますが、この108という数の由来は、複数の説があり、煩悩説、一年間を表す説、四苦八苦を表す説などがありますが、煩悩説がポピュラーのようです。

【煩悩説】
人間には<六根>と呼ばれる6つの器官、眼(げん)、耳(に)、鼻(び)、舌(ぜつ)、身(しん)、意(い)があり、これらの六根の各器官には、好(こう。気持ちが良い)、悪(あく。気持ちが悪い)、平(へい。どちらでもない)という3つの人間の心の状態が反映されていると考えられています。ですから、煩悩の数は6✕3で18種類ということになり、更に上記3つの心の状態は、浄(じょう。きれい)、染(せん。きたない)の2種類に細分化されます。つまり、煩悩の数は18✕2=36種類となります。更に人は転生するので、36の煩悩は前世・今世・来世と変化し、36✕3=108種類となるのです。
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【一年間を表す説】
月の総数(12)と二十四節気(24)及び七十二候(72)を加算した数が108となることが由来とされています。
二十四節気というのは、春(立春、雨水、啓蟄、春分、清明、穀雨)、夏(立夏、小満、芒種、夏至、小暑、大暑)、秋(立秋、処暑、白露、秋分、寒露、霜降)、冬(立冬、小雪、大雪、冬至、小寒、大寒)の4つの季節をそれぞれ6つの分けた、4✕6=24の期間です。そして七十二候は、二十四節気を約5日ずつ3つの期間に分け、24✕3=72となり、12+24+72=108となる訳なのです。
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四苦八苦を表す説

四苦八苦を取り払うという説もあり、4×9+8×9=108ですね。因みに、四苦八苦における「苦」というのは「苦しみ」ではなく「思うようにならないこと」を意味し、生・老・病・死の四苦を根本的な苦とし、更に、愛別離苦(あいべつりく。愛する者と別離すること)、怨憎会苦(おんぞうえく。怨み憎んでいる者に会うこと)、求不得苦(ぐふとくく。求める物が得られないこと)、五蘊盛苦(ごうんじょうく。五蘊、人間の肉体と精神が思うがままにならないこと)の4つの「思うようにならないこと」を加え、全部で八苦と呼ばれています。

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色々な理由から除夜に108つ鐘をつく訳ですが、新しい年を迎えるぎりぎりに煩悩を払い落としすっきりして迎春しようというのでしょうか。これって節季仕舞のように、その年一年の決算を済ますようなものなのか・・・と思てましたが、本来は毎朝夕108つ鐘をつかなアカンのやったそうです。

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江戸中期の禅宗用語辞典『禅林象器箋』に「仏寺朝暮ノ百八鐘、百八煩悩ノ睡ヲ醒ス」とあり、寺の百八の鐘は毎日の朝暮の鐘のことだったようです。それがどんな理由からか(怠慢からか?)除夜だけ百八鐘を撞くようになったのは、江戸後期からだとか。このことを私は『増殖する俳句歳時記』なるHPで知りました。
そのHPで小笠原高志さんという方が、江戸文学の泰斗で西鶴研究の第一人者で、暉峻康隆(てるおかやすたか。写真下)さんの除夜の鐘の句について述べておられます。
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百八は ちと多すぎる 除夜の鐘

というのが暉峻さんの句ですが、米寿の頃詠まれたそうで、「実感である。煩悩を根こそぎ清算されると、いくら因業爺でも来る年が淋しい。」と添え書きされ、更に、

新しき 煩悩いずこ 除夜の鐘

で締めておられます。いゃあ、暉峻さんは88歳にしてまだまだ人間味溢れるお方だったのですね。ワタシなんか77歳にして煩悩が早よ無くなったらええのに・・・と思いますから、少しは枯れかかっているのでしょうか。

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それはさておき、『増殖する俳句歳時記』に清水哲男さんと仰る方が、山口青邨さん(写真上)の割と知られている除夜の鐘の句、

おろかなる 犬吠えてをり 除夜の鐘

についてコメントされていますので、シェアさせて貰います。

時ならぬ深夜の鐘の音に、びっくりした犬が吠えている。いつまでも吠えたてている。その犬を指して、作者は「おろかなる」と言ったわけだが、しかし、この「おろかなる犬」は単純に「馬鹿な犬め」ということではないだろう。ただ、犬は人間世界の事情を解していないだけのことなのであって、彼にとっては吠えるほうが、むしろ自然の行為なのだ。そんなことは百も承知で、あえて作者が「おろか」と言っているのは、むしろ犬の「おろか」を羨む気持ちがあるからである。「おろかなる犬」なのだから、人間のように百八つの煩悩などはありえない。ありえないから「除夜の鐘」などはどうでもいいのだし、はじめから理解の外で生きていられる。だから、素朴に驚いて吠えているだけだ。ひるがえって、人間はなんと面倒な生き方をしていることか。犬のごとくに「おろか」ではないにしても、犬よりももっと「おろか」に生きているという認識が、除夜の鐘に吠える犬に触発されて出てきたというところ……。静かに句を三読すれば、句の奥のほうから、除夜の鐘の音とともに犬の吠える声が聞こえてくる。このときにほとんどの読者は、句の「おろかなる犬」にこそ好感を抱くだろう。

この論評にワタシも概ね納得です。犬は人間のように怒りや憤りや儘ならぬこの世の愚痴など煩悩を、脳内でぐちゃくぢゃ繰り返し増幅することなくすぐ忘れ去ることが出来、禅的生き方をしているそうですから。

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しかし、わが家の愛犬スオミくん(写真上)は、耳をつんざくような雷鳴にも全く反応せず何処吹く風ですから、多分除夜の鐘にも無関心だと思います。一度スオミに除夜の鐘を聞かせてみたいものです。と言いますのは、わが家には除夜の鐘が聞こえてこないのです。以前西宮に住んでいた時は、近くの山麓にある神呪寺(かんのうじ)の鐘が鳴っていて、それを聴きながらその年ひととせを回顧していたのです。
でも今は、わが家から歩いて15分くらいの所に、通称聖天さんと言われる東寺派真言宗の七宝山了徳密院があるのですが・・・。高浜虚子の句にあるように、

町と共に 衰へし寺や 除夜の鐘

なのでしょうか。あ、師(坊さん)も走るせわしない年の瀬なのに、結構長くなってきましたので、除夜の鐘の句を検索していて、心に残った2句を掲載させて頂き、今年最後のブログを締めくくりたいと思います。
今年一年、有り難うございました。

おんおんと 被爆地渡る 除夜の鐘 小谷一夫
除夜の鐘 看取り日誌の 筆をおく  正木光子

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