袖振れ合うも多生の縁354~悟るということは、ただの人になることなのです!~

二河白道の図1.jpg
唐突ですが、この絵は浄土教の教えを説く「二河白道図(にがびゃくどうず)」です。どのような教えなのか、PCのコトバンコクを検索してみますと・・・
<浄土教で阿弥陀仏の救いを説く比喩。火の河と水の河を人の貪欲と怒りにたとえ、この間にある白い道が極楽に通じる道で、往生を願う信心にたとえる>
と説明されていました。極楽往生を願う浄らかな信仰心を白い道に例えているのですね。ま、何となく分かるのですが、私は前回のブログで書かせて頂いた<風のつどい>の町田宗鳳師が、以前放映されたNHKの「心の時代 法然を語る」で仰っていたことの方がストンと納得出来たので、それを紹介させて貰いますが、このような訳で、今回も町田宗鳳師の話なのであります。
町田宗鳳2.jpg
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さて、「こころの時代 法然を語る」の最終回「日々新た」、師はこのように仰っています。

浄土教の方に「二河白道(にがびゃくどう)」という非常に分かり易いたとえ話があって、一方には水の河があり、一方には炎の河があり、その中に一本の白い細い道が通って仏の世界に行くというお話なんです。私たちは劣等感という水の河、優越感という炎の河(火の河)、その両方に落ち得ることなく、本当に自分の進むべき道を真っ直ぐ進んでいく。それによってやっと彼岸に達する。彼岸に達するというのは、「ただの人になる」ということです。

師は又、「あなたを救う法然のことば」という著書で、このように書かれています。
あなたを救う「法然」のことば.jpg

仏教には、「増上慢(ぞうじょうまん)」「卑下慢(ひげまん)」という2種類の慢心があると教えられています。前者は、自分が他人よりも偉いと思い込むことであり、後者は自分が他人よりも劣っていると思い込むことです。二つとも、エゴにこだわる者が陥る心の奢りなのです。

そうか、思い上がったり、へりくだり過ぎんと、ただの人になったらえゝえんや・・・そやけど、ただの人になるって、簡単なようで難しく、難しいようで簡単かも・・・。処で、師は同番組の5回目「念仏とは何か」で、西田幾多郎(写真下)の哲学概念のひとつについて述べておられます。
西田幾多郎1.jpg

「逆対応」、それはどういうことかと言えば、人間が小さければ小さいほど、エゴが小さくなればなるほど神の力が大きく現れてくるという。自分を小さくすればするほど、神の救いが大きく現れてくる、というのを、西田幾多郎は禅の実践者でしたから、禅の世界で言えば、自分が無になった時に、仏法というものは如実に現れてくる、と。そういう体験から彼が生み出した言葉だと思うんです。

成る程、この逆対応という仏法の真実をご理解されてない宗教者って結構多いですよね。ワタシの実家の旦那寺のお住持さんなんかも法事の時の説教が上から目線で、聴いててホンマしんどかったですわ。いやいや、お住持さんの悪口やなしに、他山の石とせなあきませんわな。

Nisida漫画.jpg

西田幾多郎切手.jpg


そやけど、西田幾多郎さんて凄いですね。切手になってるし、漫画にも描かれてるんですね。よーし、漫画から西田哲学に入門してみるか・・・。

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