袖触れ合うも多生の縁307~久しぶりにロダンのモデルとなった女優ハナコに再会しました!? PartⅡ

前回のブログにも書いたように、ドキュメンタリー作家大野芳さんは、著書の「マダム・ハナコ」の19Pで、以下のように書いておられます。
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明治の半ばにドイツに留学した鴎外と花子との接点はまったくない。しかし外国の新聞や雑誌を取り寄せて購読していた鴎外は、花子がロダンのモデルになっていることを知っていたのだ。そしてグラビア写真でみた「子守りあがり位にしか値踏みできない」花子を、臆せず裸になる゛はすっぱ"な女として描いた。これが当時の、エリート知識人の認識だったのであろう。
当時の知識人のハナコに対する認識は、多分芸者あがりと思う素性の知れない女が人気女優だなんて、片腹痛い!とエリート意識ふんぷんで、ハナコを下に見下していたのでしょう。そんな知識人のひとりが、演劇人の先達とも言える小山内薫です。
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小山内薫は、洋行帰りの歌舞伎俳優二代目市川左団次と組んで自由劇場を結成し、ロシア現代劇の代表作とも言うべきゴーリキーの「どん底」を翻案し「夜の宿」と改題して公演するなど、ロシアや西洋演劇を模索していたのです。
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そんな小山内薫が手本とするモスクワ芸術座を視察した歳に、モス芸の演出家にして芸術監督であり、俳優であり座長であるコンスタンチン・スタニスラフスキーに大晦日のホームパーティに招かれ、スタニスラフスキーに「花子はどうかね?」と尋ねられた時のことを、「北欧旅日記」に書いています。(大野さんの「マダム・ハナコ」24P)
(私はもう居ても立ってもいられません。私は日本中の恥を一人で背負って立ったような気がしました。私は真っ赤になりました。「そんな人の名は日本で聞いた事もありません。」私は冷汗をかきながら、やっとこれだけ言いました)
小山内薫さん、あなたは鴎外の書いた「花子」の登場人物、医学生久保田なのですか!?
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小山内薫の父親は軍医時代の鴎外の大先輩だったから、小山内は鴎外に可愛がられており、鴎外の影響で詩や小説を書くようになり、舞台演出を始めたとか。ですから彼は鴎外の「花子」を読んでいたのでしょう。しかし鴎外が自らを仮託したのは医学生久保田でなく、ロダンであると読み取って欲しかったですね。処で、小山内薫が信奉していたスタニスラフスキー(写真下)ですが、50数年前数ある演劇ジャンルの内、新劇で演劇生活をスタートさせた私もスゴイ人と思っており、スタニスラフスキーの「俳優修業」を夢中になって貪り読んだものでした。
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画像画像当時出版されていた本のタイトルは、「俳優の仕事」ではなく「俳優修業」で、確か全5冊だったと筈です。ま、それはさておき、女優としてのハナコさんは、小山内評のように見るに堪えない拙劣な演技だったのでしょうか?ハナコ、こと太田ひさは生涯に一度の恋に破れて、デンマーク人興行師ゼー・ウィルガード率いる旅一座に加わり欧州に旅立つ。明治35年のことである。それから大正10年迄、約20年間一大センセーションを巻き起こし続けたのです。当初は一座のペエペエでしたが、ロイ・フラー女史の目に留まり、大いなる道が拓けたのである。
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この写真がロイ・フラーで、別になんと言うこともないフツーの女性のように見えますが、彼女は一世を風靡したコンテンポラリー・ダンサー(現代舞踊家)だったのです。彼女は時代が何を求めているかを肌感覚でわかる多才な人だったようで、御覧のように白い絹のドレスの両袖に付けた棒を縦横無尽に振り回し蝶々のように舞い、赤や青、更に黄色や緑の照明を当て幻想的な雰囲気を醸し出す舞踏で衆目を釘付けにしていたのです。それ迄、舞踏の舞台は薄暗いのが定番だったそうですから、舞踏に革命をもたらしたと絶賛を博した由。
御覧の写真がカラーでないのが残念です。
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そして彼女は現役引退後、プロデューサーというか、興行師となり辣腕をふるっていたのですが、ハナコの舞台を見、直感でこの人を主役にすれば売れると睨んだのです!
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この3葉の写真ではハナコがどのような女優であつたのか分かりかねますが、悲劇も喜劇も、シリアスなものもコミカルなものも、どちらもこなせたそうです。イタリアの季刊誌「東洋の緞帳」にロイ・フラーの回想として、次のように書かれています。

この一座の大役はすべて男優が独占していたのである。にもかかわらず、私の眼にとまったのは彼女ただひとりであった。(ハナコが)演じていたのはほんの端役であったが、こまねずみのように駆け回りながら愛嬌をふりまく、その仕方は、インテリジェンスに満ち、かと思うと、突然表情を変えて、恐怖に全身を硬直させる迫真の演技もやってのけた。しかも容姿は端麗で愛らしい顔立ちをしており、ちょっと日本人離れをしていた。
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又、フラーは自身の「回想録」で、次のようにも評しています。

<恐れおののく子供にも似た、細やかな、微かな仕草や、あるいは傷ついた子鳥のような叫び、ため息などと共に、彼女はくづれ折れ、その小柄な身体は、刺繍を施した豪華な和服の中に、ほとんど埋まってしまうのだった>
更に、フラーはこう表現している。
<身体は石のように動かぬまま、眼の輝きのみが強烈な生命力を伝えたかと思うと、すすり泣きが全身をゆさぶり、突然絶叫すると、一拍おいてもう一度絶叫、その声は長く響いて最後にはため息となり、ひとみも大きく見開いて、近づく死を見つめながら、がっくりとのけぞる。何とももの凄い演技であった>

このようなハナコの顔を彫刻として創造したのが、ロダンの<死の首>と言われる作品です。
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この他、ロダンはハナコをモデルにし<ハナコのマスク>等を創作しています。
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小山内薫など当時の日本人知識者がハナコを取るに足らない芸者あがりと見下したのに反して、ロイ・フラーもロダンも賞賛しています。ロダンはハナコに、「日本ノ宝石」と題したこんな詩を贈っています。

キミは、ハナコの芝居を見るとき、ひとことの日本語もいらない
そこにキミは、すべてを演じきる天才と輝ける明晰さと生気とを発見するだろう
このような生き生きとした魂、優美な道化をみたことがあるだろうか?
彼女は小さい、しかし偉大だ!
もし疑うなら、ボクとアンバサダーズ劇場にきてみるがいい
もしボクが、大げさだとおもうなら


東洋女性をモデルに!と渇望したロダンやハナコで興行を打ち一儲けしようとしたロイ・フラーなど幾ばくかの利害絡みがありそうな人物だけでなく、多くの人達がハナコの演技を的確に評価しているのです。
一例をあげますと、大野芳さんの「マダム・ハナコ」の159Pには、スタニスラフスキーと双璧をなす演出家であり、辛口の演劇評論家であるH・エヴレィノフの「ラブコール」と題した評論が紹介されています。
この評論「ラブコール」は、昭和62年に発表された『共同研究 日本とロシア』(安井亮平編)に収録されている坂内徳明さん(ばんないとくあき 一橋大学副学長 社会学博士)と亀井郁夫(かめいいくお 前東京外国語大学学長 ロシア文化・ロシア文学博士)の論文「ロシアの花子」紹介されているのです。一寸長いのですが、引用させて頂く前に、ハナコ贔屓の私としては、この埋もれていたエヴレィノフの評論を見つけ出して下さった坂内先生(写真下右)と亀山先生(写真下左)に感謝と敬意を表し、画像を謹んで掲載させて頂きます。画像画像













さて、その「ラヴレター」と題しての濃厚な評論は・・・

<ぼくはきみの芸術に魅了されてしまった、やさしい魅力あふれる花子よ! きみは美人でもなければ、もはや若くもないが、そんなことくそくらえさ。舞台の上で美と若さとを体現してみせるきみのなんと美しく、若々しいこと! 小柄で、滑稽で、胸に迫る花子よ! ぼくは呼びかけるつもりだ、わが老廃せる舞台の女優たちがこぞってきみに見惚れ、きみから学ぶようにと。なぜなら、きみは”小賢しき”作者やら高価な衣装やら細々した舞台装置をあてにするでもなく、かくも新鮮で、かくも真に舞台的で、かくも魅力的に美しいおのれの芸のみを頼りとしているのだから。ああ、わが国の女優たちのせりふ術ときたら、きみの芸に比べなんと荒削りなものか。それにミミック(道化)や身のこなし方! きみを見てぼくは、スカラムーシ(道化役)の意味とその天才的なる十五分間のポーズがついに会得できたというわけだ!おかしな話だ。菊や蓮の花に飾られた、きみの才能に劣らず魅惑的なきみの国の言葉も知らぬぼくが、きみの役柄を理解したというのだから!>

如何でしょうか、これ程の賛辞を受けた女優さんの演技を生で見てみたいと思いませんか!? でも、それは最早叶わぬ夢、憧れなのです。生で見たと言えば、モスクワ芸術座の俳優さんたちは、スタニスラフスキーが花子を招聘し、ハナコは色々な演技を披露しているのです。女が懐剣で自害するシーン、様々な笑い、憤怒の型、愁嘆場の表情、それぞれの情景を演ずる娘や老婦人等々・・・。演じ終えるや否や、「ブラボオ!!!」と祝福の声がとめどなく繰り返され、チエホフ夫人が率先して立ち上がり、スタンダップオベイションを、皆に先んじて拍手の口火を切られたそうです。
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上の写真はチエホフ記念モスクワ芸術座で、下は劇作家チェーホフを囲んで『かもめ』の内容を聞いているモスクワ芸術座の団員たちです。中央で本を広げているのがチエホフ、その右後がスタニスラフスキーです。ハナコはこんな人達に演技の模範をお見せしたのでしょう。
そんな花子さんの存在が、嬉しくなる私なのです。

袖触れ合うも多生の縁306~久しぶりにロダンのモデルとなった女優ハナコに再会しました!?

久しぶりにハナコと再会したと言っても、ご本人ではなく、女優ハナコさんについて書いた本となのです。当然や、ハナコさんは明治元年4月15日に生まれ、昭和20年4月2日に77歳でお亡くなりになっておられるのですから。
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上の写真は女優ハナコのブロマイドと晩年のお姿ですが、私が久々に袖触れ合ったのは、大野芳(おおのかおる)さんというノンフィクション作家の「マダム・ハナコ」(写真下)なる著書なのです。
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処で、私が最初にハナコと出逢ったのは、森鴎外が明治43年に書いた短編小説「花子」(写真下)です。
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この小説では医学生の久保田が通訳としてハナコに付き添うという設定で展開されていますが、半ばから引用させて頂きますと・・・

久保田は花子を紹介した。ロダンは花子の小さい、締まつた体を、不恰好に結つた高島田の巓から、白足袋に千代田草履を穿いた足の尖まで、一目に領略するやうな見方をして、小さい巌畳な手を握つた。
久保田の心は一種の羞恥を覚えることを禁じ得なかつた。日本の女としてロダンに紹介するには、も少し立派な女が欲しかつたと思つたのである。さう思つたのも無理は無い。花子は別品ではないのである。日本の女優だと云つて、或時忽然ヨオロツパの都会に現れた。そんな女優が日本にゐたかどうだか、日本人には知つたものはない。久保田も勿論知らないのである。しかもそれが別品でない。お三どんのやうだと云つては可哀さうであらう。格列荒い為事をしたことはないと見えて、手足なんぞは荒れてゐない。併し十七の娘盛なのに、小間使としても少し受け取りにくい姿である。一言で評すれば子守あがり位にしか、値踏が出来兼ねるのである。

意外にもロダンの顔には満足の色が見えてゐる。健康で余り安逸を貪つたことの無い花子の、些の脂肪をも貯へてゐない、薄い皮膚の底に、適度の労動によつて好く発育した、緊張力のある筋肉が、額と腮の詰まつた短い顔、あらはに見えてゐる頸、手袋をしない手と腕に躍動してゐるのが、ロダンには気に入つたのである。


この後、ロダンはハナコに衣服を脱ぎモデルになることを要請し、ハナコはあっさりと承諾する。そしてロダンがハナコをエスキス(スケッチ)する間、久保田は場を外し書斎にあったボードレールの本を読んでいたのだが、スケッチし終わったロダンが書斎に顔を出してからのやり取りは、以下のように描かれています。

「ボオドレエルの何を読みましたか。」 「おもちやの形而上学です。」
「人の体も形が形として面白いのではありません。霊の鏡です。形の上に透き徹つて見える内の焔が面白いのです。」
久保田が遠慮げにエスキスを見ると、ロダンは云つた。「粗いから分かりますまい。」
暫くして又云つた。「マドモアセユは実に美しい体を持つてゐます。脂肪は少しもない。筋肉は一つ一つ浮いてゐる。Foxterriers の筋肉のやうです。腱がしつかりしてゐて太いので、関節の大さが手足の大さと同じになつてゐます。足一本でいつまでも立つてゐて、も一つの足を直角に伸ばしてゐられる位、丈夫なのです。丁度地に根を深く卸してゐる木のやうなのですね。肩と腰の濶い地中海のtype とも違ふ。腰ばかり濶くて、肩の狭い北ヨオロツパのチイプとも違ふ。強さの美ですね。」

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このシーンのスケッチは多分この画像のようなものだったのでしょうか。それは兎も角、大野芳さんは「マダム・ハナコ」の19Pで、以下のように書いておられます。

明治の半ばにドイツに留学した鴎外と花子との接点はまったくない。しかし外国の新聞や雑誌を取り寄せて購読していた鴎外は、花子がロダンのモデルになっていることを知っていたのだ。そしてグラビア写真でみた「子守りあがり位にしか値踏みできない」花子を、臆せず裸になる゛はすっぱ゜な女として描いた。これが当時の、エリート知識人の認識だったのであろう。

私も20歳半ばの頃、この小説を読んだ時、そのように思ったのを記憶しています。つまり、医学生久保田を鴎外と見ていたのですね。しかし今読み直してみると、医学生久保田は若かりし頃の自分で有り、小説執筆時48歳(60歳で死去)だった鴎外は、この時既に晩年だと思っていたでしょうから、自分をロダンに託していたのではないか・・・そう思えるのです。
そう捉えると、花子を見下げているのではなく、「人の形は霊の鏡です。」とロダンに言わしめているように、勇躍欧州に飛び立ちセンセーションを巻き起こした女優花子の魂を褒め称えているのではないでしょうか!?
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因みに三島由紀夫は、森鴎外の代表作として「百物語」と「寒山拾得」、そしてこの「花子」を挙げているのですが、鴎外=ロダンの視点に立つと、この短編の見方が一変し、三島由紀夫が賛辞を呈しているのも納得できるよな・・・そんな私なのです。ではでは、次回もこのハナコさんについてもう少し蘊蓄を傾けたいと思います。

袖触れ合うも多生の縁305~とざい、とーざい 東西両本願寺譚にござりまする!

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上の写真は西本願寺と東本願寺ですが、タイトルの「とざい、とーざい」というフレーズは、東西声(とうざいごえ)と言い歌舞伎や人形浄瑠璃の序びらき、口上の前などに用いられる開始の合図です。江戸期、照明のない時代の劇場は舞台に太陽光線を受ける為、通常南に向かって建てられています。ですから(客席側から見て)客席の右端は東、左端は西で、お客様への呼びかけを「とざい、とうざい」と言うようになったとか。口上につきものの「隅から隅まで」とほぼ同じ意味ですね。
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それから余談ですが、ちんどん屋のことを東西屋とも言いますね。抑もチンドン屋(チンドンや)は、チンチンドンドンと鳴るチンドン太鼓という楽器を鳴らし、宣伝文句の口上を面白おかしく言い立てたのですが、道行く人達に呼びかける冒頭に東西声を用いたので、東西屋とも呼ばれるようになったのです。
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又々余談ですが、東西と言えば東西冷戦、東西冷戦など若い人達には昔のことでしょうね。でもしかし、東西冷戦の終わった今も、世界中で紛争は絶えず、この国も戦争の出来る国となり、右肩上がりの経済最優先、バブルよもう一度など甦る筈もない見果てぬ夢を追い求めている内に、歩一歩戦争に向かっているようで気がかりなことです。ま、気を取り直し本願寺について一寸筆を進めてみましょう。私の家の宗旨は浄土真宗本願寺派(西本願寺)ですが、私はどの宗教、どの宗派も侵攻してはいません。しかし、スピリチュアルな宗教的感性人間だと思っております。ま、それは兎も角、本願寺は何故東と西に別れているのか?秀吉と家康が関与しているのですが、ブログ「Taptrip」の解説を要約しますと・・・
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時は文禄元年(1592年)に遡ります。当時の「龍谷山本願寺」(後の西本願寺)11代目住職顕如が亡くなったので、時の将軍豊臣秀吉は顕如の遺言に従い、10年後三男の准如(和睦派)に住職を継がせるよう、臨時住職であった長男の教如(抗戦派)に申し立てます。教如は秀吉の申し立てに納得しましたが、教如を取り巻く抗戦派の面々は黙って居ず、秀吉の怒りを買い追放されてしまいます。そして隠居生活を強いられた教如は嘗てから交友のあった徳川家康に接近し、慶長7年(1602年)、家康から烏丸七条に寺地を寄進され、ここに真宗大谷派本山の「真宗本廟」、所謂東本願寺を建立したのです。かくして浄土真宗の2大総本山が現在のJR京都駅近くに佇み続けているのです。
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処で、両西と東の本願寺はどう違うのでしょうか?両本願寺の宗祖は共に親鸞聖人で、11代目迄は同じ思想で同じ釜の飯を食べていたのですから、言い回しや祭壇の飾りつけ等に微妙な違いはあるものの、宗教的思想にほとんど違いはないのです。
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東西本願寺画像比較を検索してシェアさせて頂きましたが、どこが違うねん、殆ど同じやないか、ようわからんわ・・・というのが皆さんの思いでしょうね。私もそうですが、一番大きな違いは、門徒なら一日に何度も唱える「南無阿弥陀仏」の発音が違うのです。西本願寺では「な"も"あみだぶつ」、東本願寺では「な"む"あみだぶつ」と発音するのが一番大きな違いだとか。私は知らなかったので、ホンマかどうかお西さんに問い合わせてみますわ。 え、<も>と<む>て、そない大した違いやないがな・・・と仰るかも。門徒やないお方はそうでしょうね。私の家の宗旨はお西さんですから、もし確認してそやったら、墓参りした時は「なもあみだぶつ」と唱えることにしますわ。あ、そう言えば私が西本願寺の御影堂に上がらせてもろてる時、お剃刀式が行われてましたが、皆さん「なもあみだぶつ」と唱えてはったような気がしてきましたです、ハイ。
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お剃刀式(帰敬式)とは、阿弥陀如来と親鸞聖人の御前で浄土真宗の門徒としての自覚をあらたにし、お念仏申す日暮を送ることを誓う最も大切な儀式なのです。 この帰敬式を受式され、仏弟子となった方には本願寺住職(ご門主さま)より法名が授与されるとか。若い女の子も結構仰山お剃刀式を受式してはって、仏教は葬式仏教に過ぎないと言われて久しいですが、まだまだ生きているんやなと思いを新たにした次第です。


袖触れ合うも多生の縁304~野球審判の判定ジェスチャーは手話から始まったのです。

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60年前の私は野球少年でしたが、審判の判定ジェスチュアが手話からきているなんて全く知りませんでした。しかし先日、ニュージーランドでは手話が公用語になっていると知り、その関連資料を検索していると、下の図書を見つけたのです。
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このナンシー・チャーニン:文、ジェズ・ツヤ:絵、斉藤洋:訳の学童図書によりますと、大リーグに聴覚障がい者のウィリアム・ホイという選手がいて、彼が審判に「判定が聞こえないから身振りで示して欲しい」と頼んだ事から審判員のジェスチュアは始まり、更に監督の指示を選手に伝える為、相手に内緒の仕草を使い始めたのがサインなのだそうです。ところで、ウィリアム・エルズワース(ダミー)・ホイ(William Ellsworth "Dummy" Hoy)は1862年5月23日 生まれで 1961年12月15日に亡くなっていますから、享年100歳だったんですね。彼はアメリカ合衆国オハイオ州フックスタウン出身のプロメジャーリーガー(中堅手・右投げ左打ち)で、聴覚障害を抱えながら通算2000安打と600近い盗塁を記録、アメリカンリーグ初年度の優勝メンバーの一人となった結構スゴイ選手なのです。
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Wikipediaによれば、ホイはオハイオ州の農場に生まれ、3歳の時に髄膜炎が元で聴覚障害となり、1872年にオハイオ州の聾学校に進学し、1879年に卒業する際には卒業生の総代をつとめたとか。当時他の聴覚障がい者がそうしたように、彼も靴屋を開き、店の合間に近所の子供達を集め野球をしていたそうですが、1886年頃プロチームから勧誘されたのをきっかけに、ウィスコンシン州のオシュコシュ球団に所属、2年後の1888年にナショナルリーグのワシントン・ナショナルズ(当時)に入団し、メジャーの選手となったのです。ホイに対し審判が一定の動作でボール・ストライクなどの判定を伝えるようにしていたことが、後年ビル・クレムにより、審判員の判定動作が体系化されるに至るきっかけになったのです。
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又、中村和彦さん(写真上)のサッカー狂映画監督のブログによりますと、「サイン・オブ・ザ・タイム」というアメリカのドキュメンタリーを見たが、野球審判員のアウト・セーフ、ストライク・ボール等、今では常識になっているジェスチャーの起源を探る作品だった。そしてその起源に聴覚障害者の野球選手であったダミー・ホイが大きく関わったらしい。観客にとっても審判が声だけでなく、ジェスチャー付きだと遠くからもわかり、ベースボールの隆盛につながったようだ。手話の勉強を始めた時、まるで野球のサインのようだと思ったのをよく覚えている。とコメントされています。因みに手話のアウトは、右手で指文字の”た”を作り、下図のように前方に出すのです。
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それからセーフは、下図のように両の掌を下に向け左右に勢いよく開きます。
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それから阪神タイガースは、両手の指先を折り曲げ、下図のように両手を口元から左右に開きます。(虎のひげを表しているのです。)
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話しが阪神タイガースのことに及ぶと、子供の頃からのタイガースファンである私は、嗚呼!という心境の現在なのです・・・。


袖触れ合うも多生の縁303~ニュージーランドの国鳥キーウイとキゥイフルーツのカンケーは!?

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キーウィはニュージーランド固有の鳥で、ニュージーランドにしか生息していませんし、その憎めない姿から人々に深く愛され、ニュージーランドの国鳥になっているのです。因みに日本の国鳥はトキ?いえ、キジなんです。渡り鳥でない日本固有の鳥はキジとヤマドリだけで、キジは古事記や日本書紀にもキギジとの名前で書かれているとか。キジのことはさておき、ニュージーランド人の愛称は「キーウィ」で、「キーウィ・イングリッシュ」と言えば、「ニュージーランド人の英語」を意味しますし、コインにキーウィの姿が描かれています。
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処で、キーウィという名前は、オスの鳴き声がそのように聞こえることからマオリの人が名づけたもので、そしてニュージーランドを代表する果実であるキウイフルーツが、アメリカへ輸出されるようになった時、見た目が丸く茶色くて鳥のキーウィに似ているという理由から、国鳥「キーウィ」の名前を貰い、1959年にキウイ、キウイフルーツと命名されたのです。
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御覧の写真に見られるように、キーウィには羽がありません。キーウィには敵がほとんどいないので、空を飛び逃げる必要がなくなった為、翼は退化したのです。翼が使えない分、足はとても発達し、同じくらいの大きさの鳥に比べてとても丈夫な足で、ダチョウほど速く走ることができるとか。 このキーウィの羽がなくなった謂われについて、「マオリ族」の間ではこんな伝説が残っているそうです。

ある日、森の王が森の中を歩いていると、木々がとても病んでいることに気付きました。地面で暮らす虫たちによって食べられていたのです。森の王は、空の王である実の兄に「このままでは森が死んでしまう」と相談をしました。空の王は、空に住む鳥たちを一堂に集め、「地上で虫を食べて森林を守ってくる鳥はいないか?」と問いかけたのです。 しかしどの鳥も口を開くことはありませんでした。そこで空の王はキーウィに頼んでみました。すると、キーウィは空の王の願いを聞き答えました。「参ります」と。森の王と空の王は大層喜びびました。しかし、キーウィが地上で生きていくには翼を捨て、強い脚を持たなければなりません。元々キーウィは美しい翼を持っていたのです。二人の王は、地上へ降りる覚悟があるか、改めてキーウィに確認しました。するとキーウィはやはり「参ります」と答えました。これに対し空の王は「大いなる犠牲によって、森で最も愛される鳥となるだろう」と賛辞を送りました。こうして、キーウィは現在の素朴な見た目になり、願いに応えなかった鳥たちも「キーウィを見習うように」と綺麗な羽を奪われてしまったのでした。 ニュージーランドにはこのような訳で、キーウィの他にも「プケコ」「タカへ」などの飛べない鳥がいるのです。
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(写真上の上がブケコ、上の下がタカヘ)元来ニュージーランドの国土は、コウモリとオットセイ以外の哺乳類が存在しない島でしたから、鳥たちは外敵から飛んで逃げる必要がなく、多くの鳥の羽が退化してしまいました。ところがマオリ人の到来やヨーロッパ人の入植とともに森が開拓され、外敵となる哺乳類が持ち込まれたことで、飛べない鳥たちが捕食され個体数が激減し、多くの鳥たちを絶滅に追い込んだという悲しい歴史があり、キーウィも現在では絶滅危惧種に指定されています。その為、近年ではキーウィを繁殖させて森に戻すためのプロジェクトが全国各地で行われています。クイーンズタウンのキーウィ・バードライフパーク(写真下)やロトルアのキーウィ・エンカウンター、クライストチャーチのウィローバンク野生動物公園などはその代表的な施設で、キーウィを見学することも出来るのです。
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因みに日本では、大阪の天王寺動物園で、キーウィに逢うことが出来るのです。
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あ、そうそう、9月1日はキウィの日だそうですが、ご存知でしたか?ま、これはワタシのアタマがたまたま横道に逸れて思い出しただけですが、一度天王寺動物園のキーウィを見に行こうかな・・・と思っています。でもキーウィって本来夜行性ですから、昼間行ってもアカンのと違うかな???

袖触れ合うも多生の縁302~来世で又お逢いしたい名物男、村田弘道さんを偲ぶ会が催されました!

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御覧の写真が村田弘道さんです。先週の土曜日、台風25号が来るかも知れないという真夏の再来を思わせる暑さの上に暴風か強風に襲われるかも・・・とシンパイになるややこしい日に京都へ足を運びました。村田さんを追悼する会の前に、前から見てみたいと思っていた東西本願寺に足を運びましたので、石見銀山群言堂製の白っぽいバンド・シャツにジーパンというラフな取材スタイルを多少気にしながら会場に入った処、皆さんは喪服ではなかったもののダークな色合いのスーツやジャケットでした。余談ながらバンド・シャツとは下の写真のようなものです。(シャツを着てる人はモデルさんで私やおまへん)
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こないなシャツなんで私だけ些か違和感ありでしたが、まあ、村田さんなら、「かめへん、かめへん、亀で噛むのはスッポンだけや。」と訳の分からん駄洒落で笑ろてくれるやろと自分で自分をナットクさせた次第です。
処で、村田さんがお亡くなりになる2ケ月前、多分今年の4月頃だったと思いますが、電話を頂いたのです。

「いやな、東京に居る孫から電話がかかってきてな、お爺ちゃんのこと書いてるブログ見つけた。原彰いう人や、て教えてくれたんや。それで慌てて見たんやけど、感動したんで電話させて貰ろたんや。」

因みに、村田さんが御覧になった2012年秋のブログを再録致しますと・・・

村田弘道さんはABC朝日放送の名物プロデューサーで、ABC退社後も「彩館」という制作会社でユニークな番組を作り続けてきたお人です。

ABC時代には、午後2時からのワイドショー枠を定着させ、<プラスα>では「とにかくおもろうせえ!」と乾浩明アナにハッパをかけ続け、「晴れときどきたかじん」では危険を顧みず爆弾男たかじんのトークを全開させ、「彩館」では、<たかじんのバー>で酒を飲みながらぶっちゃけトークをするという前代未聞のタブーを畏れぬ番組をやってのけたのです。

そんな破天荒な村田さんは数々のエピソードで知られていますが、入社する時、「ABCに絶対入りたい、入れてくれへんかったら帰らへん!」と駄々をこね玄関前に座り込み、当時の社長が困り果て入社させたとか。
又、地方出張と奥さんに嘘をついて大阪のホテルで浮気をし、アリバイづくりとして梅田阪神百貨店横の地下にある地方名店街で土産を買い、奥さんに渡したところ、梅田地下名店街の領収書が入っていてバレバレで、きついお灸をすえられたとか・・・

そんな村田さんと出逢ったのは、「エキスタ女学院」でした。大阪駅ビルの梅田大丸にオープンスタジオ・エキスタ(駅のスタジオ・・・安易なネーミングやなぁ)が出来、奥様やお嬢さんを生徒として募集し、授業形式の番組(村田さんにしてはマジメやないか!?)をやるから構成をやれという電話がかかってきたのです。私はそれ迄村田さんにお逢いしたことはありませんでした。電話がかかってきた時私は不在で、電話に出たうちのヨメさんに、「なんでわしが電話をかけとるのに原はおらへんのや!?」とのたもうたそうです。フツー、一面識もない人の家に電話して、そんな事言いませんわナ。

それは兎も角、その番組が2年で終わり、それ以後30年、賀状のやりとりはしていたものの、お会いすることはありませんでしたが、私がBATを立ち上げたのがきっかけで、エキスタ時代のスタッフや生徒が集うようになったのです。村田さんは昨年、大腸ガンの手術から生還され、「村田弘道さんの快気祝い」をやりました。今年は昨年の手術跡がヘルニアになり、目下その手術で入院されています。ですから、退院され体調が回復されたら、「村田弘道さん、再度の生還を祝う会」をやるつもりです。
村田さんをご存じの方、村田さんが無事生還されるよう、念じて下さい!

しょうもない冗談言いの村田さんは、昨年、手術後「ガスが出ましたか?」と看護士(彼が相手にするのは看護婦さん)に聞かれ、「はい。大阪ガスが出ました。」と答えたそうですが、今年はもうちょっとましなジョークにしてえな!


このブログがある意味で、村田弘道さんの人生の一コマをラフスケッチしたみたいだったからでしょうか、村田さんは電話を切る前にこう仰いました。

「わしな、自叙伝を書いてたんやけど、疲れてもて止めてるねん。」
「そやったんですか。又元気出して続きを書いて下さいな。数年前、3・11の後原発反対のレポート書いて送ってくれはりましたやん。自叙伝も書き上げて是非送って下さい。」
「そやな。書き上げたら出版するつもりや。そやけど書き終えられるかどうかわからんわ。もし出来たら送るけど、あてにせんといてや。」


これが村田さんから私が聞いた最後の言葉でした。
最後の言葉の前に、貰った平成二十五,年三月に書かれた原発レポートの一端をご紹介しますと・・・
私は敢えて言う! 子孫のために!『 爺さんの反原発考 』
なるタイトルで、原発が如何に危険であるか!即廃止すべきであるか!を力説されており、村田さんの熱く激しく強い想いを感じ、心を打たれたのです。特に私の心を揺さぶったのは、最後の言葉でした。それは・・・
最後に田中正造の言葉を記して、私のレポートを完とする。
「真の文明は山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし」

でした。

さて、村田さんの自叙伝は30頁くらいで未完だとか、だから私が代筆という訳では有りませんが、村田さんについてもう少し知りたく、PCで彼のプロフィールを調べてみました。
○1931年、石庭で有名な龍安寺の姉妹寺である亀岡市の禅寺 龍潭寺(写真下)に生まれる。
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○同志社大学卒業後、中学校教師、児童養護施設指導員、大映撮影所を経て朝日放送入社。
中学の先生であられたことや映画会社におられたのは全く知りませんでした。
あ、そうそう、村田さんはユニークなTVプロデューサーでありながら、児童養護施設「青葉学園」の理事長として福祉の面でも大いに貢献されていたのです。その学園は昭和22年4月に臨済宗妙心寺派の禅寺、龍潭寺第23代住職江口快翁和尚(故人)が非行少年を救済しようと、学園の母体である龍潭寺の裏山に創設されました。
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昭和20年8月、日本は敗戦国となり国土は荒廃し社会情勢も混沌とした時代でした。快翁和尚は『こんな時代やからこそ、何かせんと宗教家として一生悔いが残る』と言い、周囲の反対にも屈せず寺の納屋を篤志家から集めた寄金で改築し、巷に溢れていた非行少年を保護育成したのが始まりだそうです。そしてそれから40年、創設者快翁和尚も、2代目園長・理事長の宗道和尚も遷化され、又、60年に理事であられた金閣寺住職村上慈海師も旅立たれ、後任に快翁和尚の義弟村田弘道さんが理事に、更に62年4月、朝日放送勤務の傍ら理事長に就任されたのです。その頃園舎も老巧化し、児童の養育に支障を来たす状態だったので、村田理事長・川勝和幸園長のコンビは当時の理事各位の支援のもと、新園舎建設の大事業を始め、平成3年度国庫と府の補助金及び後援者の寄付、多額の社会福祉医療事業団からの借入金等で、 旧園舎前に3棟 定員60名の新園舎を完成させました。資金調達の為の寄付金集めに理事長や後援者がチャリティイベントを何度も開催したり、篤志家を訪問するなど東奔西走されたそうです。
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そして平成4年3月、新築園舎が完成(3棟定員60名)し、それ以後も新園舎(小舎制園舎)を完成させました。
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TVプロデューサと理事長の二足の草鞋を履き、丸25年もフル活動し続け、平成23年4月に村田理事長は退任されたのです。本当に本当にご苦労様でした。ほんまにほんまにお疲れ様でした。
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村田さんは今年6月、享年88歳、米寿であの世に旅立たれたとお聴きした時、「嗚呼、さすが村田さんや、仏兄(さとえ、81歳の異称)はとうに超えてはる!」と私は感慨深かい想いがしたのです。仏兄というのは、お釈迦様が80歳で亡くなられたので、その歳を超えてお釈迦様の兄、仏様の兄さまになったとの意味で、悟りを開いた者(釈迦牟尼)の兄と称える言葉なのです。
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余談ながら、この言葉は死語に近く辞書にも余り載っていませんが、芭蕉と並び称される伊丹の俳人上島鬼貫は、上島仏兄と号していたことがあるのです。それは兎も角、村田さんは悟りを開いておられたようで大往生だった由。
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おい、村田さんが大往生の話しになんでステーキと鰻重の画像が出てくるねん!? 喰いじがはるのは煩悩も煩悩、、一、二を争う煩悩の親玉やないか・・・と思いはるでしょうね。でも、村田さんの奥様のお話だと、その日の晩ご飯にステーキを用意していたところ、子供達がやってきたので、「ほな、鰻重とれや。」とダンナさまが言うので、夫唱婦随で鰻重にし、用意していたステーキも食べたとか。食べ終えた村田さん、「わし、こんな旨いもんばかり喰うとってええんかいな・・・」と宣うたのが最後の言葉だったそうです。私の思うにウナギちゃんとモーモーさんの命に感謝、感謝、有り難いことやと心で合掌してはったのではないでしょうか。私にはそう思えるのです。そう言えば村田さんにお聞きしたのですが、村田さんのお父さんも晩酌でしみじみとお酒を味わうように飲んで、盃を持った手を膝の上に置き、こっくりこっくりしてるので、「あらら、親父、寝てもたな・・・」と思っていたら息をされていなかったそうです。「わしも親父みたいに逝きたいねん。」と仰ってましたが、そうなったやないですか。村田さん、良かったですね。

さて、このブログも長くなってきましたが、最後は村田さんと旦那様を見送られた奥様ににこんな俳句を贈りたいと思います。

『 裏を見せ 表を見せて 散るもみじ 』

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この句は良寛さんが晩年、和歌のやり取りを通じ心温まる交流を続けられた弟子の貞心尼との心の通い路を詠んだ句をまとめた歌集「蓮(はちす)の露(つゆ)」に出てくる良寛さんの言葉です。貞心尼が、高齢となり死期の迫ってきた良寛さんのもとに駆けつけると、良寛さんは辛い体を起こされ貞心尼の手をとり、「いついつと まちにし人は きたりけり いまはあいみて 何か思わん」と詠まれました。そして最後に貞心尼の耳元で、「裏を見せ 表を見せて 散るもみじ」とつぶやかれてお亡くなりになったそうです。この歌には「あなたには自分の悪い面も良い面も全てさらけ出しました。その上であなたはそれを受け止めてくれましたね。そんなあなたに看取られながら旅立つことができます」という貞心尼に対する深い愛情と感謝の念が込められているのではないでしょうか。

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村田弘道さん、もし来世でお逢いしたら飲みながら真面目な話し、例えば今生で出来なかった原発廃棄への道や、戦争の出来る国になったこの国の行方などを、駄洒落抜きで談論風発、大いに語り合いたいと思っております。
ではでは、村田さん、光iに導かれ安らかに西方浄土へ赴かれますように!
   

      


            
   







袖触れ合うも多生の縁301~ニュージーランドでは手話も公用語ですが、日本の公用語は!?

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いきなり写真をずらっと並べましたが、ニュージーラントって自然がとても美しいですよね。でも自然だけでなく、住む人々の心も美しいのです。何故私がそう思うかというと、マイナーな人達、少数派の人達をキチンと認め、差別しない制度があるからです。例えば公用語ですが、ニュージーランドには公用語が3つあります。1つは英語、もう一つが先住民の言葉のマオリ語です。日刊ニュージーランドライフによれば、ニュージーランドには2016年の時点で470万人弱の人が住んでいますが、日本でいう国勢調査にあたるCensusのデータを見ると、「自分はマオリである」と答えた人は60万人(人口の14%弱)程です。
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その60万人の内マオリ語を話せる人は更に少なく、人口の1/5にあたる12万人と言われています。つまり全体の3%くらいしかマオリ語を話せる人はいませんし、マオリ語を流暢に話せる人は65歳以上が多いので、やがてマオリ文化が廃れていくのを護るべく国をあげてマオリ語とマオリ文化を守る運動を展開し、1987年に公用語としてマオリ語が登録されたのです。因みにロトルア(写真下)ではマオリ語を今まで以上に押し出し、街全体をバイリンガル化させる動きがあり、毎年「Maori Language Week」というマオリ語推進週間があって、2017年は9月11日から9月17日まで行われました。
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マオリの話が少し長くなりましたが、ニュージーランドの3つ目の公用語は「手話」なのです。ニュージーランド手話は、主にイギリスの手話をベースにし、アメリカの手話やマオリの踊りの動きなどを取り入れているとか。
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手話を使う人達の数もマオリ同様少数だと思いますが、少数派の人達の人権をキチンと認め公用語に制定するって素晴らしいことですね。手話を使わない人達は公用語であろうとなかろうとカンケーないと思うかも知れませんが、手話を喋る人達にとっては手話が公用語として認められているのは大層心強いものがあるのです!そんな思いを叶えるべく、2006年に世界で初めてニュージーランドが手話を公用語として認めたのです!
処で日本には公用語というものがありません。ほぼすべての国民が日本語を母国語としているせいか、法律に記載がないのです。ですから、例えば国会中にアイヌ語とかを喋っても問題ないことになっています。但し裁判所では裁判所法という法律によって「裁判所では日本語を用いる」と定められているとか。この件は、朝散歩でよく出逢う知人に元裁判官Hさんがいらっしゃるので近々確かめてみましょう。それはさておき、日本は手話を公用語として登録していませんが、都道府県市町村には<手話言語条例>という、手話を言語として認め、手話が日常的に使え、ろう者とろう者以外の者が共生できる社会を目指す条例があり、2013年に鳥取県が全国で初めて制定し15府県、市町村では96市町が制定しているそうです。(全日本ろうあ連盟による)
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それから余談ですが、日本以外で日本語を公用語にしているところがあるんですよ!それはパラオ共和国のアンガウル州です。
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ここでは公用語がパラオ語、英語、そして日本語の3つです。バラオは第二次世界大戦前、日本の委任統治領でしたから、パラオ語の25%は日本語が由来になって、例えば・・・下着をサルマタ(猿股)、ブラジャーをチチバンド(乳バンド)、ビールを飲むことをツカレナオース(疲れ治す)、美味しいをアジダイジョーブ(味大丈夫)、乾杯をショウトーツ(グラスが衝突)、じゃんけんをアイコデショ、混乱することをアタマグルグル・・・と言うのだとか。
今回のブログも少々長くなり、私のアタマもそろそろ「アタマグルグル」ですので、この辺で。




袖触れ合うも多生の縁300~北方領土が未だに解決しないのは、米国の策略なのです!

前回述べたようにソヴィエトはサンフランシスコ講和条約に調印せず、日本はソ連の調印のないまま千島列島放棄に同意し、1951年(昭和26年)この講和条約を受け入れます。ですからその後の5年間、日ソの国交は無く、1956年(昭和31年)の日ソ共同宣言により日ソの国交が回復されたのです。
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処で、この日ソ共同宣言中、北方領土問題に関する重要な案件は項目(9)で、
(9)日本国及びソヴィエト社会主義共和国連邦は、両国間に正常な外交関係が回復された後、平和条約の締結に関する交渉を継続することに同意する。
ソヴィエト社会主義共和国連邦は、日本国の要望にこたえかつ日本国の利益を考慮して、歯舞群島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する。
ただし、これらの諸島は、日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする。

と書かれています。
調印式の写真には鳩山一郎首相、ブルガーニン首相とキャプションされていますが、正式に言うなら、内閣総理大臣鳩山一郎とソヴィエト連邦大臣会議議長エヌ・ア・ブルガーニンですね。そんなことは兎も角、この共同宣言の下交渉をソ連としていたのは重光葵外務大臣(当時)ですが、当時の米国国務長官ジョン・フォスター・ダレス(写真下)が重光外相(写真下の下)に、「この条件に基づき(歯舞・色丹の2島返還でよしとする意・・・筆者注)日ソ平和条約締結に突き進むならば、米国は沖縄を永久に返還しないぞ!」との主旨の発言を行い、介入したのです。具体的には<国後島・択捉島も返還要求せよ!>とソ連が絶対のめないような要求を突きつけろと、恫喝まがいの脅しをかけたのです。
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一寸待ってや、対日参戦したら千島列島を割譲したる!てソ連に内緒の話はアノネノネてこっそり約束したんはアメリカさんやないんか!? そやからスターリンはんは、千島列島は国際的に認められとる自分とこの領土や!とゼッタイ思てるわな。日本がそないな無茶なゴリ押しするんやったら、歯舞も色丹も返したらへんぞ!!平和条約なんぞ締結せんかてウチはゼンゼンかまへんのや。せいだい日本はアメリカに尻尾ふっとれ!・・・こないな具合に怒ってるのちゃうやろか!?
そう、私の大阪弁の独白のように、ソ連を日本に対し硬化させ、北方領土問題の解決を妨げ、日本人の非難が沖縄占領に向かわないようにする事と、日本人にソ連に対する敵意を持ち続けさせ、日本がソ連の友好国になったり中立政策をとること無く、アメリカの同盟国に留まらせるのを意図しての恫喝なのでしょう。まさか、と信じて頂けないかも知れませんが、元外務官僚で外交評論家の孫崎亮さんの著書「戦後史の正体」によると、こんなことは国際政治の世界では常識で、英国など植民地から撤退する時、多くの場合あとに紛争の火種を残していきます。それはかっての植民地が団結して反英国勢力になるのを防ぐ為だそうです。
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英国がインドから撤退する時は、パキスタンとの間にカシミール紛争を残しましたし、アラブ首長国連邦から引き揚げる時は、飛び地の領土を作り、領土の境界をわざと複雑に設定し、複数の首長国がいがみ合うようにしたとか。そう言えば、西パキスタンと飛び地の東パキスタン、現バングラデシュが作られたのもこのような意図に基づく伝統的手法だそうです。
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このような国際政治の伝統に則ったアメリカの思惑が、日本で成功していることを伺わせるのではないかと思わせるような(?)、ワタシが勝手に思ってるだけかも知れませんが、そんな資料が外務省HPにあったのでコピペします。
Q:1956年当時、なぜ平和条約が締結されずに、「日ソ共同宣言」という名称の条約が締結されたのですか?
A:1956年当時、日ソ両国は平和条約を締結すべく交渉を行っていましたが、我が国が一貫して返還を主張した北方四島のうち国後島及び択捉島の帰属の問題について合意が達成できなかったため、とりあえず共同宣言を締結して外交関係を回復し、平和条約交渉を継続することとして、領土問題の解決を将来にゆだねたからです。
ま、アメノカの思惑も、それに従い四島一括返還要求をする日本の外交も冷戦下では致し方ないか、と思いますが・・・
さて、北方領土問題の原典とも言うべきサンフランシスコ講和条約に於ける千島列島について外務省HPを見てみますと・・・
日本は、サンフランシスコ平和条約により、ポーツマス条約で獲得した樺太の一部と千島列島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄しました。しかし、そもそも北方四島は千島列島の中に含まれません。また、ソ連は、サンフランシスコ平和条約には署名しておらず、同条約上の権利を主張することはできません。
え、択捉・国後は千島列島に含まれてないて!? ほんまかいな?? それにソ連はサンフランシスコ講和条約に調印してないけど、国際的に千島列島はソ連領と認められてるんやないですか。あ、択捉・国後が千島列島やないて言い分ですけど、日本政府はこんな国会発言をしとるんやけど、どやねん!?
サンフランシスコ講和条約締結前の1950年3月8日の衆議院外務委員会にて島津久大政務局長が、条約締結直後の1951年10月19日の衆院特別委員会にて西村熊雄条約局長が、同年11月6日の参院特別委員会に草葉隆圓外務政務次官が、それぞれ「南千島(国後島・択捉島)は千島に含まれている」と答弁しているのです。この発言は隠しきれませんから、否定しないと外務省の見解は成り立たないので、「国後島・択捉島は千島に含まれているとの答弁がなされた当時は、条約を成立させ主権を回復する事が最優先課題であり、占領下にあって実際上政府に答弁の自由が制限されていたから。」と、1956年2月に森下國雄外務政務次官が取り消していますが、こんな取り消しが国際司法裁判所で認められるのでしょうか?尤も、歯舞・色丹に関しては、西村さんも草葉さんも、千島に含まれていないと発言していますし、アメリカ全権のダレス国務長官も講和会議の演説(写真下)で、歯舞群島は千島列島に含まないとするのが合衆国見解であると述べていますので、この2島は外務省見解のように問題なく日本固有の領土なのでしょう。
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そう、アメリカと連合国の見解がそうだからこそ、日露共同宣言の際にニキータ・フルシチョフソ連共産党第一書記(当時)は平和条約締結後に歯舞・色丹を返還すると譲歩したのでしょう。
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しかし、日ソ共同宣言から60年以上も時が流れ、ソビエト政権も変わりました。
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ロシアの首脳陣もゴルバチョフ、エリツィン、プーチンと交代しています。
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この間の交渉で、エリツイン時代に東京宣言なる文書が交わされています。
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この東京宣言について、外務省HPでは・・・
Q:1993年の東京宣言とはどのようなものですか?
A:ソ連崩壊後の1993年10月、ロシアのエリツィン大統領が訪日した際に、日露両首脳間で署名された文書のことです。この宣言は、北方四島の島名を列挙して、北方領土問題をその帰属に関する問題であると位置付けるとともに、この問題を歴史的、法的事実に立脚し、両国間で合意の上作成された諸文書、「法と正義の原則」を基礎として解決するという明確な交渉指針を示しました。その後、日露間においては、北方四島の帰属の問題を解決して平和条約を締結するという東京宣言の方針が繰り返し確認されてきています。

との見解を示しています。「法と正義の原則」を基礎として解決するというのは大変結構なことですが、この東京宣言から早25年、日ソ共同宣言に明記された歯舞・色丹の島影すら遠のいているのでは・・・とワタシは杞憂しています。
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ごく最近、と言っても2016年5月ですが、安倍総理のソチ非公式訪問の際に、
これまでの交渉の停滞を打破し,突破口を開くため,双方に受入れ可能な解決策の作成に向け,今までの発想にとらわれない「新しいアプローチ」で,交渉を精力的に進めていくとの認識を共有した。
と合意した由、今迄の発想にとらわれない「新しいアプローチ」に基づき、如何なる提案がなされるのか不明ですが、私にはダレスの恫喝を忘れ、対米従属から脱し、永年敗戦を葬り去ることからしか始まらないと思うのですが・・・。





袖触れ合うも多生の縁299~旧ソ連は北方領土だけでなく、北海道も占領しようとしていた!

前回、前々回とソフトな女性の話でしたが、又々敗戦がらみの領土問題です。え、鬱陶しいなんて言わずに、おつきあい下さい。
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ご覧の写真は上から歯舞島、色丹島、国後島、択捉島です。この所謂北方領土がソ連邦(後継国としてのロシア)の実効支配下に置かれるようになったのは、1945年8月9日にソ連が対日戦争(宣戦布告は8月8日)を開始し、日本のポツダム宣言受諾(8月14日)と降伏文書調印(9月2日)の後にも当時の日本領に侵攻を続け、南樺太、千島列島全島並びに色丹・歯舞島を占領したのです。
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本来なら、ポツダム宣言受諾か最悪でも降伏文書調印時点で戦闘を停止すべきで、正当化されない侵略行為ですし、それだけでなく56万人とも76万人とも言われる日本人を連行しシベリアに抑留しました。日本人としては、かくも不当な侵略行為に対し怒り心頭の感情にならざるを得ないかも知れませんが、ソ連にしてみれば日本の<シベリア出兵>に対する報復行為なのです。
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上の写真とイラストはシベリア出兵ですが、シベリア出兵は、私の世代でも歴史の授業で少しは聞いたことがあるかな・・・という程度ですので、Wikipediaで調べてみました。
シベリア出兵(シベリアしゅっぺい、英: Siberian Intervention)とは、1918年から1922年までの間に、連合国(大日本帝国・イギリス帝国・アメリカ合衆国・フランス・イタリアなど)が「革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する」という大義名分でシベリアに出兵した、ロシア革命に対する干渉戦争の一つです。
(中略)日本は兵力7万3,000人(総数)、4億3,859万円から約9億円(当時)という巨額の戦費を投入。3,333人から5,000人の死者を出し撤退した。アメリカが7,950人、イギリスが1,500人、カナダが4,192人、イタリアが1,400人の兵力を投入。ソビエト・ロシア側の兵力・死者・損害は現在まで不明だが、ある資料では死傷者8万人、6億ルーブル以上の被害とされている。

シベリア出兵は、出兵した連合国の一員たる日本人には遠い昔のことでしょうが、甚大な被害を被った側、ソヴィエトの人々にとっては子々孫々に伝え続けなければならない恨み骨髄の大事件で、ヤクザなら、「どない落とし前をつけてくれるねん!?」ちゅうところなのでしょう。この落とし前をつけたい怨念については後に触れますが、話をサンフランシスコ講和条約に転換させますと、この条約の第二章第二条(c)は・・・
日本国は千島列島並びに日本国が千九百五年九月五日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。
と定められています。(写真下はポーツマス条約)
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処で、この第二条(c)項は、大変問題があるのです。南樺太は日露戦争の結果ポーツマス条約にのっとり、日本がロシアから獲得したものですが、千島列島はそうではありません。いつの時代からとは特定出来ませんが、太古より日本人は南から千島列島を北上し、ロシア人は北から南下しており、領土は確定していませんでした。でも、1885年(安政2)2月7日に結ばれた日魯(露)和親条約(別名下田条約。写真下)により国境線は択捉島と得撫島(ウルップ島)の間に定められたのです。
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しかし、樺太については国境線を定めることが出来ず、両国民混住の地とされました。そして明治7年(1874年)3月、樺太全島をロシア領とし、その代わりに得撫島(ウルップ島)以北の諸島、千島18島を日本が領有するという樺太・千島交換条約が締結されたのです。
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その後、1895年(明治28年)に締結された日露通商航海条約(写真下)で日魯和親条約など総て無効になりましたが、この条約の補則で樺太・千島交換条約は有効と確認されています。
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このように千島列島は平和裡に日本領土へ編入されたものなのに、連合国側は日本側に千島列島の放棄を押しつけ、吉田政権(当時)はこの条文を呑まざるを得なかったのです。その裏には、1943年11月のテヘラン会議で米国のルーズベルト大統領がソ連のスターリンに対日参戦を求め、1945年2月のヤルタ会議で、参戦の見返りとして南樺太及び千島列島の引き渡しを密約していたのです。このヤルタ密約以後、ソ連が対日参戦する迄の経緯をもう少し見てみると・・・
ヤルタ会談の2カ月後、ルーズベルトは急死し、副大統領から大統領に昇格したトルーマンが終戦工作を進め、8月15日スターリンに対しソ連が受理する地域を規定した「一般命令第一号」を送付します。それはヤルタ密約とは異なり、南樺太は含まれているものの千島列島は含まれていなかったのです。この内容を大いに不満としたスターリンは翌16日、トルーマンに次のように要求を突きつけます。
(1)日本軍がソ連軍に明け渡す区域に千島列島全土を含めること。これはヤルタ会談における3カ国の決定により、ソ連の所有に移管されるべきものである。
(2)日本軍がソ連軍に明け渡す地域には北海道の北半分を含むこと。北海道の南北を2分する境界線は、東岸の釧路から西岸の留萌までを通る線とする。なおこの両市は北半分に入るものとする。

スターリンは北方4島を含む千島列島全島の領有を挙げたのみならず、北海道の半分を要求したのです。彼は北海道の占領は日本のシベリア出兵に対する代償であると主張したのですが、トルーマンから北海道北部のソ連占領を認めない旨の返書が18日に届きます。スターリンはそれを無視、同日千島列島北端の占守島上陸作戦を開始、北海道への侵攻を目指しましたが、占守島を護る日本軍の激しい抵抗に遭い、千島列島及び歯舞・色丹は占領したものの北海道には侵攻出来なかったのです。近現代史研究家の水間政憲氏は、ソ連の「北海道・北方領土占領計画書」を山形県鶴岡市のシベリア資料館で発見し、『正論』平成18年11月号にその内容を発表しています。これを読むと、ソ連は北海道の半分どころか、あわよくば全島の占領を目論んでいたことが分かります。これがシベリア出兵の落とし前なんや!
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日本にとっては不幸中の幸いで、スターリンの北海道占領という目論見が空振りに終わり、樺太と千島列島はソ連に譲渡されるべきと認められたものの、サンフランシスコ講和会議に中華人民共和国が招聘されなかったことや条約締結後も米軍が引き続き日本に駐留する内容である為、ソ連はこの条約調印を拒否したのです。この条約では千島列島の範囲は明確になっていませんが、ソ連の調印のないまま日本は千島列島放棄に同意し、サンフランシスコ講和条約を受け入れます。敗戦国としては受け入れざるを得なかったのでしょうが、この千島列島放棄に同意したことが後々大きな問題になるのです。次回はこの長引いている大きな問題、北方領土についてですが、この問題が未だに解決していないのは、な、な、何とアメリカの策略なのです!ではでは次回に続きます。
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袖触れ合うも多生の縁298~今、私の心を和ませてくれる人達の一人、それは・・・!?

ワタシは今数え歳の喜寿で、それなりに長い人生を歩んできたのですが、20数年前に袖触れ合ったある人のことを思うとほのぼのと心が和み暖められ、人と人との出逢いって捨てたもんじゃないなとしみじみ思うのであります。数ヶ月前だったか、「竹内早苗さんからメッセージが届いています」とFacebookより知らせがあり、「え、誰やろ?」とピンと来なかったのですが、メッセージを見て、「あ、彼女か!」と嬉しくなりました。その竹内早苗さんは旧姓大野早苗、芸名凛珠さあな、ニックネームさあな・・・というミュージカル女優さんでした。
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あ、そうそう、数年前、さあなさんのことをブログに書いた覚えがありますので、それで見返してみましたが、彼女の昔のエピソードも懐かしく思えるので、転載させて頂きますと・・・
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ご覧の写真は映画「1/4の奇跡~本当のことだから~」上映会&山元加津子さんの講演会&さあなと悠以のライブのチラシです。山元加津子さんは<かっちゃん>と生徒さん達から親しまれている養護学校の先生で、ある日多発性硬化症という難病をかかえている雪絵ちゃんに「先生、何か嬉しくなるようなお話をして」とせがまれて、昔アフリカのある村でマラリアという伝染病が猛威をふるい、村が壊滅的な打撃を受けた話を始めるのです。この話の何処が嬉しくなるようなお話なのでしょうか?それはこの映画をご覧頂くとわかるのですが、タイトルの「1/4の奇跡」とは、マラリアが多く発症する地域ではある一定の割合でマラリアに強い突然変異遺伝子を持つ人が生まれ、その<強者の遺伝子>を持つ人の兄弟には重い障害を持つ人が必ず現れ、その確率が1/4なのです。
・・・とまあ、このような展開のドキュメンタリー映画で、私も見たい見たいと思いながらまだ見ていませんが、『1/4の奇跡』についての本は5年程前に買っています。それは兎も角、このチラシを発見したのはFacebookで、大野さなえさんの近況レポを見たからです。
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大野さなえさん、さあなさんは、OSK日本歌劇団出身で、彼女が歌劇学校に在籍していた頃、私は校長且つ演劇講師でした。初めての授業ではみんなに自己紹介をやって貰うのですが、さあなさんは小学校の時、学芸会でミュージカルの「アニー」を演じましたと言ったので、「アナタは犬の役?」とジョークを言ったのです。犬の役やなんて、怒るかな?と思いきや、彼女はむっとすることもなく何事も無かったように、別に得意気でも無くすらっとアニー役ですと答えたのを今でも覚えています。
そしてその後、私は自分の自己紹介で野球少年だったことを多分話したと思います。それから2年弱後、近鉄バファローズのホームグランド、大阪ドーム球場が完成し、彼女達のクラスを連れて球場の下見に行ったのですが(卒業するとバッファローズ・ギャルとして応援に参加するので)グランドの土を踏みしめていると、彼女が寄って来て、「先生、昔の血が騒ぎますか?」と尋ねたのです。彼女は私の自己紹介を覚えてくれていたのでしょう。こんな話、多分彼女はもう覚えていないでしょうね。さあななさんが卒業してから何年になるでしょうか。歌劇を退団し、劇団四季に入ったと聞いていましたが、長らく消息を耳にすることがありませんでした。
でも、今年の春からPCでFacebookをやり始めたので、彼女の活躍を知るようになったのです。彼女のプロフィールを見ると、カナダ版ピーターパンとか海外でも活躍していたようですが、それよりも、<愛と笑顔を広げる>をモットーに「スマイリング・ワールド」を設立し、フリーハグで10万人の人達と抱擁しあったりしたとか。そんなさあなさんになられた事がとても嬉しいです!
そして、そんなさあなさんと袖触れ合えたのもきっと何かのご縁でしょう。
そして、そしてそんなさあなさんだから山元加津子さんとも知り合い、「1/4の奇跡」上映会でジョイントしてるんですね。私も見に行きたいのですが、その頃の都合が未定なので、みなさんにご紹介させて頂こうと思い、ブログに書いた次第です。


処で、このブログには書いていないもうひとつのエピソードがあるのです。歌劇学校を卒業する時、同期のみんなと一緒に寄せ書きをしてくれたのですが、その寄せ書きに彼女はこんなことを書いていました。

『劇団で10年頑張って、その後OSKの学校のバレエの先生になる・・・という野望、いえ、大きな夢に向かって頑張ります!! かれんな娘役 大野さなえ』

さあなさん、覚えていますか!?10年後、貴女が本当にバレエ講師になりたいと言ってきたら、そして私がまだ校長をやっていたら、どう返答していたかな?即採用していたかも知れませんし、「他にもっとやるべきことがあるやろ。」と断っていたかも知れません。でも今のさあなを見ていると、歌劇学校のバレエ教師になってなくて良かった!と思いますよ。だって、ピースフル・ミュージカル「夏の日の悪夢」のような大きな仕事をしているんだから!
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このミュージカルは、お芝居をしたことなど全くなく、歌も踊りも勿論初体験というアマチュアの人達の舞台で、さあなさんが、作・作詞・振付・演出・主演であり、製作も担当したという、ある意味で桁はずれの公演なんですが、先日NHK国際放送で世界160ケ国に報道されたのです!
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何故、このように取り上げられたかを話しましょう。このピースフル・ミュージカルのいきさつは、大阪で活動していたさあなさんが広島に来たことから始まります。
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御覧の写真は、さあなさんご夫妻が<ぽかぽか>という夫婦紹介番組に出演された時のものですが、なかなかお似合いのカップルですね。さあなさんがステキな彼と結ばれ、竹内早苗さんとなり、ダンナ様の転勤(?)で広島に転居し、原爆ドームの前で原爆の恐ろしさ、核廃絶を訴える紙芝居をし続けている吉田悦子さん(写真下)と出逢ったのです。
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どちらから話しかけたのか分かりませんが、多分意気投合したのでしょう。吉田さんはさあなさんに、「この紙芝居を語り継いで欲しい」と頼んだのです。さあなさんは、紙芝居も良いけれど、もっと広げようと思ったのか、その紙芝居をミュージカルにしようと提案し、吉田さんも舞台に出てみたいと、大乗り気だったとか。そんな経緯でこのプロジェクトは転がり始めるのです。
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でも、さあなさんがFacebookに書いておられたように、大変な苦労があったのです。舞台に出ることはおろか、舞台を見たこともない人達に1から、いや0から、イロハから教え何とか公演にこぎ着けるのは並大抵のことではありません!
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まして製作も総て一人でやっているのですから、「もう嫌だ!止めたい、止めてやる!」と思ったことも当然あるでしょう。しかし、このプロジェクトはさあなさんがサムシンググレートというか、何か大きな存在に導かれてやらねばならなくなっている事態なので、神様は背負えない荷物は負わせないと言われるように、見事やり遂げられたのです!!さあなさん、ホントに本当にご苦労様でした。遠く離れた宝塚から気持ちだけしか応援できなかった私ですが、「ありがとう! ホンマにほんまにありがとさん!!」と心から有り難うを申し上げます。
このプロジェクト、この公演は今年だけでなく、毎年行われるそうですから、もし良かったら、サポートして頂ければ・・・と;お願いする次第です。
Readyfor.jp/projects/musical-natsunohinoakumu/ か、Facebookで竹内早苗さんを検索すると、サポートの仔細が出てきますので、貴方の力を、貴方のお気持ちを、ほんの少しでも結構ですのでお寄せ下さいますように!!
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さあなさんとのりこさんが描いたイラストのような世界を実現させるために。

袖触れ合うも多生の縁297~深く優しく響く音魂を奏でる植木美帆さんは、絵になるチェリストです!

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御覧の写真が植木美帆さんですが、今回は植木美帆さんについて書かせて頂きます。ここの処、敗戦を踏まえての領土問題など、私の脳みそに触れたカタイ話しが続いていましたので、一転してタイトル通りの袖触れ合った方についてです。彼女と出会った経緯は、私の中高同級生である土屋和之さんが主宰するコンサートにチェリストとしてジョイントされていたからです。土屋兄は現役バリバリのお医者さんでありながら、バリトン歌手、或いはチェロ演奏者としてプロに互し、堂々と歌い演奏するパワフルなスゴイ人なんです。下のチラシのように先日もコンサートを開催し、満杯のお客さんを集めていました。
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彼のことは以前にも書きましたので、この位にして植木さんに戻ります。彼女は一週間程前、リサイタルを開かれたのです。
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場所は阪急御影の瀟洒な街並みに佇む、お洒落な世良美術館でした。
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普段は小磯良平さんの絵などが展示されているのですが、この日もグランドピアノの背景にはそんな絵画が見え隠れしているし、ファンの方々から贈られた花々がそっと飾られていて、浮き立つことのない落ち着いた雰囲気のシックなスペースでした。そんな場でチェロを奏でる彼女は本当に絵になるし、花のあるチェリストです。下の写真はその時のものでないのが残念ですが、私の書いている一端を伺うことが出来ると思います。
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あ、コンサート写真が見つかりました!植木さんのブログのをシェアさせて頂きます。
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クラシックの名曲からジャズのスタンダードナンバーまで、美帆さんは深く優しく、時に強く激しく奏で、音魂を紡ぎ出すのです。(ピアノは山口亜弥子さん、下の写真は植木さんと山口さん)
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さて、さてさてさて、植木さんにいざなわれた彩なす音色(ねいろ)は静かにたゆとい、時に舞い躍り、聴く人の胸に染み入り寄り添い、心に魂に揺らぎをもたらしたのです。私が特に心奪われたのは、カッチーニの「アウェ・マリア」で、いけだ りかさんが植木さんの為にアレンジした由。 いけださんがこの曲をこのように捉えてご自身の想いを込めアレンジされたのを、植木さんがいけださんの想いを受け、更にグレードアップして演奏されたのでしょう。私の胸に迫るものがありましたが、私だけでなく一緒に聴いていた友人の横山クンも同じような思いだったのでしょう、大きな拍手だけでなく「ブラボー!」と賛辞の声を上げていました。因みに横山君は欧州に駐在していた頃、クラシック音楽にとっぷりと親しみ、現在は趣味としてチェロを習っているという音楽通で、私は彼の眼力に一目も二目もおいているのです。彼と違って、私は音楽は門外漢ですが、演奏の<テクニック>だけでなく、曲をどのように解釈しどう聴衆に伝えるかという<表現>が、私達の心を揺さぶったのだと思っています。
美帆さん、これからも貴女の想いの籠もった音魂を、私達の胸に贈り届けて下さいますように!
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それから、植木さんはラジオのレギュラー番組でお喋りもされているんですよ。上の画像は、スタジオでのスナップと、軽やかなトークで美帆さんのパートナーを勤める中安ゆみさんとの2ショット写真です。
インターネットラジオ RADIO BALLON 毎週月曜日21:00~22:00 再放送 毎週木曜日10:00〜11:00 /毎週土曜日12:00〜13:00です。
RADIO BALLON のHPによると・・・

チェリスト植木美帆が、リスナーの皆様にクラシック音楽を身近に感じて頂きたい!と、音楽の架け橋となってお送りします。日常のひとこまにクラシック音楽の癒しを取りいれてみませんか?

とのコンセブトで始められた番組で、私は一度聞きましたが、これが結構さわやかで良いんです!色んなクラシック曲を身近で楽しめるって有り難いですね。植木先生(彼女はあちこちの音楽院で指導もなさっています)のワンポイントレッスンというか、音楽を楽しむ上での一寸したアドバイスもあるし、文学的名言というか、心に残る珠玉の言の葉コーナーもありますから、皆さんも良かったらどうぞ!それからもう一つ、PRを。
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音楽に親しむことの少なかった野球&ラグビー少年が、どういう縁からか分かりませんが、ショー・レビュー・ミュージカルを生業とし、ジャズ・ポピュラーから邦楽まで、音楽と関わりを持たざるを得ない仕事を50年以上続け、お遊びのカラオケでは専ら<ちあきなおみ>の「かもめの街」や「朝日の当たる家」を歌い、そしてクラシック音楽が日々癒やしてくれる今日この頃、いゃあ、音楽って本当にいいですね!!

袖触れ合うも多生の縁296~敗戦記念日に因んで領土問題、尖閣諸島の領有を考えます。PARTⅡ

先ず、尖閣諸島が沖縄に属していたとする日本政府の公式見解から見てみましょう。

尖閣諸島は,歴史的にも一貫してわが国の領土たる南西諸島の一部を構成しています。元々尖閣諸島は1885年以降政府が沖縄県当局を通ずる等の方法により再三にわたり現地調査を行ない,単にこれが無人島であるのみならず,清国の支配が及んでいる痕跡がないことを慎重に確認の上,1895年1月14日に現地に標杭を建設する旨の閣議決定を行なって正式にわが国の領土に編入することとしたものです。また,尖閣諸島は,1895年5月発効の下関条約第2条に基づきわが国が清国より割譲を受けた台湾及び澎湖諸島には含まれていません。

成る程、成る程。でもね、こんな歴史的経緯が白井聡さんの「永続敗戦論」に載っているんですよ。

1884年に日本の民間人が同諸島の開拓許可を申請したのを受け、内務卿山懸有朋は「国標建設」を上申するが、時の外務卿井上馨が清国を刺激しかねないことを理由にこれを拒否しているのです。

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上の写真は山懸有朋と井上馨ですが、この一件って当時尖閣諸島に清国が関心をもっているのを日本側は知っていたってことですよね。更に白井聡さんはこうも言及されています。

1895年1月14日に尖閣諸島は日本に組み入れられたが、それは日清戦争の真只中においてのことであった。外務省の「基本見解」は、故意にかどうかは知らぬが、そのことに言及していない。(中略)日清戦争後の下関条約(1895年4月17日締結)によって、日本は台湾ならびに澎湖諸島を清から割譲させる。(中略)(尖閣諸島は)日清戦争の結果として日本領化されたとは言い切れない一方で、日本にとって有利な戦況を背景として領土化が公式に決定されたという側面から見れば、「日清戦争によって獲得された領土」であるという性格をも有している。

むむむ、するてぇと、外務省の言うことを素直に頷けませんが・・・次に話しを進めますと、又、外務省はこのような見解をも公表しています。

尖閣諸島の編入の後、日本の民間人が日本政府の許可の下、尖閣諸島に移住し、鰹節工場や羽毛の採集などの事業を展開しました。一時は、200名以上の住人が尖閣諸島で暮らし、税徴収も行われていました。
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▲古賀辰四郎によって事業経営が行われていた鰹節工場(写真:古賀花子氏・朝日新聞社)
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▲一時期は古賀村という村ができるほど、多くの日本人が生活していた(写真:古賀花子氏・朝日新聞社)

中国政府は、1895年の尖閣諸島の日本領への編入から、東シナ海に石油埋蔵の可能性が指摘され、尖閣諸島に注目が集まった1970年代に至るまで、実に約75年もの間、日本による尖閣諸島に対する有効な支配に対し、一切の異議を唱えませんでした。サンフランシスコ平和条約で尖閣諸島が日本の領土として確認されて米国の施政下に置かれ、その一部を米国が射爆撃場として使用しても、この間、尖閣諸島は、中国共産党の機関紙や中国の地図の中で、日本の領土として扱われてきました。
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▲1958年に中国の地図出版社が出版した『世界地図集』「尖閣諸島」を「尖閣群島」と明記し、沖縄の一部として取り扱っている。

それから、産経ニュースのこんな記事も見つけました。
尖閣諸島(沖縄県石垣市)の領有権をめぐり、中国が主張の根拠としている歴史資料を否定する台湾の公式文書が存在することが17日、分かった。尖閣諸島を示す台湾名の「釣魚台」は尖閣とは別の島を指していた内容で、長崎純心大学の石井望准教授(漢文学)が同日、東京都内で開いた記者会見で発表した。中国側がこれまで領有権を主張する根拠としていた歴史資料の1つで、清代の役人が記した台湾の地理書「台海使槎録(たいかいしさろく)」(1722年。写真下)の解釈の誤りを指摘した。
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同書には「山後(台湾東部)は大洋なり、北に山有り、釣魚台と名付けらる、大船十余を泊すべし」という記載がある。中国側はこの「釣魚台」が尖閣諸島を指すとしてこの記載を基に「歴史的に尖閣諸島は中国の領土」と主張してきた。だが、1970年に台湾政府が発行した公式の地理書「台湾省通志」(写真下)は、台海使槎録に明記された「釣魚台」を台湾東南部の「台東県の島」と認定し、尖閣諸島ではないことが記されていたという。
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この他、こんな新聞記事もあり、蛇足ですが一応取り上げますと・・・
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尖閣諸島が日本の領土だとする主張で、その証拠としてよく挙げられるのが、中華民国政府からの感謝状の中に「日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島内和洋島」と明記してある、というものです。しかし、この感謝状が送られた大正9年は、台湾が日本に統治されていた時ですから、尖閣諸島が台湾に属していても当然日本領土なんですよね。これを以て中国も尖閣が日本領土であると認めていた証拠というのは余りに馬鹿馬鹿し過ぎますよね。
さて、今まで縷々取り上げてきましたが、両国の言い分を一覧にして見ると、日中どちらの主張にもそれぞれ分があると言わざるを得ないと思います。
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結局、どちらも主張を譲らないのであれば、武力行使の愚を避けて、国際司法裁判所の裁定を仰ぐしか解決の道はないのではないでしょうか。
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袖触れ合うも多生の縁295~敗戦記念日に因んで領土問題、尖閣諸島の領有を考えます。PARTⅠ

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前回はカイロ宣言・ポツダム宣言・サンフランシスコ講和条約について調べましたが、それを復唱してみましょう。
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カイロ宣言では、「台湾及澎湖島の如き日本国が清国人より盗取したる一切の地域を中華民国に返還すること」とあり、ポツダム宣言では、「カイロ宣言の条項は履行されるべき」とされていますし、サンフランシスコ講和条約では、「日本国は台湾及び澎湖諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」とありますから、尖閣諸島が台湾に属していたのなら、台湾の領土ということになりますね。しかし、沖縄に属していたのなら、サンフランシスコ講和条約の第三条により、沖縄と共に米国の施政下におかれたが、1972年の沖縄返還協定により、返還され日本の領土ということになるのです。
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さて、尖閣諸島問題が日中間で深刻な事態に至る発端は、2010年9月7日に起こった中国漁船衝突事件ですが、このことはまだ記憶に新しいですよね。
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尖閣諸島近海で操業していた中国漁船に対して日本の海上保安庁巡視船が退去命令を発したところ、中国漁船は巡視艇に体当たりし衝突、日本側は漁船を拿捕、船長以下乗組員を逮捕したのです。中国側は「尖閣は中国領」との立場から不当逮捕と非難したが、菅首相を首班とする日本政府は、船長を日本の正式な司法プロセスに基づき処分する姿勢を表明したので、事態は一挙に深刻化したのです。中国政府は日中交流事業を次々と停止し、中国国内にいた建設会社フジタ社員4名を軍事管理区域の無断撮影容疑で逮捕し、更にレアアースの対日輸出差し止めるなど強硬手段に出たのです。では何故、中国政府は強行手段に打って出たのか?それは尖閣諸島問題は日中間で「棚上げ」が暗黙の合意となっていたからなのです。時は1972年、日中国交正常化交渉の時点に遡ります。
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この交渉の際、田中角栄首相(当時)が、「尖閣諸島について如何に思うや?」と発言した処、周恩来首相(当時)は「今これを話すのは良くない。この問題を議論すれば何日かかるか分かりませんよ。」と応答、問題を先送りし、棚上げしたのです。又1978年、日中国交正常化の際に来日した鄧小平副首相(当時)も、「中日国交正常化交渉の際も双方はこれに触れないことを約束した。今回の平和友好条約締結の際も同じくこれに触れないことで一致した。こういう問題は10年棚上げしてもかまわない。」との発言があり、改めて両国で確認されたのです。
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この約束にのっとり、小泉政権当時の2004年3月、中国人活動家が尖閣諸島に上陸したので、出入国管理法違反で逮捕したものの、正規の司法手続きを経ること無く強制退去処分としています。
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又これに遡ること7年、1997年11月に締結した日中漁業協定では、<中国国民に対して、当該水域において、漁業に関する自国の関係法令を適用しないとの意向を有している。>と、橋本龍太郎内閣の小渕恵三外務大臣(当時)が中国側全権大使に、協定但し書きを書き添えているのです。
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このような両国が相互に了解しあっていたのを知ってか知らずか、いや知っているのですが、外務省HPによると・・・

我が国の立場は一貫しており、中国との間で尖閣諸島に関する「棚上げ」について合意したという事実はありません。この点は、公開済みの外交記録等からも明らかです。

外交記録には、日本側も「棚上げしましょう」と発言した記録はないかも知れませんが、では周恩来さんや鄧小平さんが棚上げ発言した時、日本側は棚上げしないと拒否はしていないでしょうし、黙っていたのなら暗黙の了解ということになりはしませんかね。それに、小泉政権当時、中国人活動家が尖閣諸島に上陸し出入国管理法違反で逮捕したが正規の司法手続きを経ること無く強制退去処分としたことや日中漁業協定で小渕外務大臣(当時)が但し書きした事について外務省は何ら言及していないのです。そんな外務省の見解にのっとり、更に煽るように、2012年4月向こう見ずな極右ナショナリスト石原慎太郎東京都知事(当時)が、東京都の尖閣諸島購入を宣言したので、慌てふためいた無知蒙昧と言わざるを得ない(この問題だけ?)野田佳彦首相(当時)が、同年9月に尖閣諸島国有化を実行してしまったのです。嗚呼!!
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かくして中国各地で反日暴動が起き、中国艦船及び軍用機による領海・領空への侵入が毎日のように起こるという事態に至ったのです。いや、日本の尖閣諸島国有化に中国が硬化した裏には、いままで棚上げしていたが、尖閣諸島近海で石油資源埋蔵が判明した為だとの見方もありますが、それも含めて日中両国が尖閣諸島は自国の固有領土だと主張する根拠を冷静に見てみましょう。(下の写真は外務省HPより)
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先ず日本側は、外務省のHPで「尖閣諸島についての基本見解」で日本の立場を次のように示しています。

尖閣諸島が日本固有の領土であることは,歴史的にも国際法上も疑いのないところであり,現にわが国はこれを有効に支配しています。したがって,尖閣諸島をめぐり解決すべき領有権の問題はそもそも存在していません。第二次世界大戦後,日本の領土を法的に確定した1952年4月発効のサンフランシスコ平和条約において,尖閣諸島は,同条約第2条に基づきわが国が放棄した領土のうちには含まれず,第3条に基づき南西諸島の一部としてアメリカ合衆国の施政下に置かれ,1972年5月発効の琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定(沖縄返還協定)によりわが国に施政権が返還された地域の中に含まれています。以上の事実は,わが国の領土としての尖閣諸島の地位を何よりも明瞭に示すものです。

このように日本側は領土主張の根拠をサンフランシスコ講和条約に求めていますが、これに対し中国側は、中華人民共和国はサンフランシスコ講和会議への代表派遣を連合国に拒否され(中国政府は政権交代し日本と戦った中華民国ではなく社会主義政権との理由で)ているのでこの条約を認めず、カイロ宣言に基づくボツダム宣言に領土的根拠を求めるべきとしているのです。そして日本が受理したボツダム宣言第8条は、「日本ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルヘシ」と定められていて、ポツダム宣言にはサンフランシスコ講和条約第3条の南西諸島云々に該当する条項は定められていません。又中国は、尖閣諸島は元来台湾に属しており、日清戦争を契機として台湾共々日本領土になったのであるから、カイロ宣言に「中国東北、台湾、澎湖群島など日本が窃取した領土は中国に返還させる」と定められているように、ポツダム宣言受諾時点に於いて中国の領土に返還されていると主張しているのです。(下の3葉の写真は日清戦争のもの)
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このように両国の言い分を見てみると、どちらもさもありなん・・・と私など思ってしまうのですが、尖閣諸島は台湾か沖縄かどちらに属していたのか、次回、じっくと見てみましょう。ではでは。

袖触れ合うも多生の縁294~8月15日は終戦でなく敗戦記念日で、その視点から領土問題を考えました。

8月15日は確かに戦争が終わったので終戦記念日ですが、この日をそう呼ぶのは敗戦ししたのを思い出したくない、隠したいとの意図が込められています。多くの識者達がそのようにコメントしていますし、白井聡さんも「永続敗戦論」で同じ趣旨のことを述べておられます。
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このことは前回も書かせて頂きましたが、白井さんの「永続敗戦論」は文庫本になる程読まれています。そんな著書で、白井さんは戦後日本は未だに敗戦を永続しており、「永続敗戦」の代表が領土問題であり、沖縄の米軍基地問題にほかならず、尖閣諸島(写真下)をはじめとする領土問題に解決の目途が全く立たない理由は、現代日本の抱える領土問題が第二次世界大戦の敗戦処理の問題であると仰っているのです。
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前回に続いて、「オルタ広場」なるメルマガに掲載されている白井聡さんの「永続敗戦論からの展望」をコピペさせて貰いましょう。

これらの領土問題の処理は、カイロ宣言、ポツダム宣言、サンフランシスコ講和条約といった日本が受け入れた(敗戦により受け入れざるを得なかった)諸外交文書の文言によって原則的に規定される。この事情から見れば、日本政府が掲げる「固有の領土」論には相当の無理があるとみなさざるを得ないのだが、このことは敗戦を意識の外に追い遣った国民にはほとんど理解されていない。こうした現状は敗戦を否認し、「あの戦争は負け戦ではない、単に終わったのだ」という歴史意識を国民に刷り込んできたことの結果にほかならない。

では先ず、カイロ宣言、ポツダム宣言、サンフランシスコ講和条約とは何なのかを簡単に纏めてみましょう。カイロ宣言とは、第二次世界大戦末における対日方針を協議する為、1943(昭和18)年11月22日からエジプトのカイロで開催されたフランクリン・ルーズベルト米大統領、ウィンストン・チャーチル英首相、蒋介石中国国民政府主席による首脳会談を受けて12月1日に発表された宣言で、下の写真は英文のものと米軍飛行機から蒔かれたビラですが、「カイロ宣言」は日時や署名がなく、公文書も存在しておらず、宣言として扱うことが適切か否かについては議論があるのですが・・・。
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公文書かどうかはさておき、このカイロ宣言を踏まえたポツダム宣言は1945年(昭和20年)7月26日にアメリカ合衆国大統領、イギリス首相、中華民国主席の名において大日本帝国(日本)に対して発され、「全日本軍の無条件降伏」等を求めた全13か条から成る日本への降伏要求の最終宣言なのです。日本はこれを1945年8月14日に受諾し、1945年9月2日、東京湾内に停泊する米戦艦ミズーリの甲板で日本政府全権重光葵と大本営(日本軍)全権梅津美治郎及び連合各国代表が宣言の条項の誠実な履行等を定めた降伏文書に調印し、即時発効され日本は敗戦に至ったのです。
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かくして占領下に置かれた日本は、6年後の1951年9月8日、サンフランシスコ講和条約締結で独立は回復したのですが、白井聡さんの言うところの<永続敗戦>が始まったのです。
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さて、カイロ・ポツダム両宣言や講和条約で、領土問題はどうなっているのかを見てみましょう。カイロ宣言では、『同盟国ノ目的ハ日本国ヨリ千九百十四年ノ第一次世界戦争ノ開始以後ニ於テ日本国tガ奪取シ又ハ占領シタル太平洋ニ於ケル一切ノ島嶼ヲ剥奪スルコト並ニ満洲、台湾及澎湖島ノ如キ日本国ガ清国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民国ニ返還スルコトニ在リ』とされていて、ポツダム宣言で領土問題は、『.カイロ宣言の条項は履行されるべきであり、又日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国ならびに我々の決定する諸小島に限られなければならない。』と宣言されているのです。そしてサンフランシスコ講和条約では・・・
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第二章 領域
第二条
(a)日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島及び欝陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原  及び請求権を放棄する。
(b)日本国は、台湾及び澎湖諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。
(c)日本国は、千島列島並びに日本国が千九百五年九月五日のポーツマス条約の結果として主権を獲得し   た樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。
(d)日本国は、国際連盟の委任統治制度に関連するすべての権利、権原及び請求権を放棄し、且つ、以前に日本国の委任統治の下にあつた太平洋の諸島に信託統治制度を及ぼす千九百四十七年四月二日の国際連合安全保障理事会の行動を受諾する。
(e)日本国は、日本国民の活動に由来するか又は他に由来するかを問わず、南極地域のいずれの部分に対する権利若しくは権原又はいずれの部分に関する利益についても、すべての請求権を放棄する。
(f)日本国は、新南群島及び西沙群島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。
第三条
  日本国は、北緯二十九度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)孀婦岩の南の南方諸島(小笠原群島、西之島及び火山列島を含む。)並びに沖の鳥島及び南鳥島を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。このような提案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする。
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カイロ宣言では、「台湾及澎湖島の如き日本国が清国人より盗取したる一切の地域を中華民国に返還すること」とあり、ポツダム宣言では、「カイロ宣言の条項は履行されるべき」とされていますし、サンフランシスコ講和条約では、「日本国は台湾及び澎湖諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」とありますから、尖閣諸島が台湾に属していたのなら、台湾の領土ということになりますね。しかし、沖縄に属していたのなら、サンフランシスコ講和条約の第三条により、沖縄と共に米国の施政下におかれたが、1972年の沖縄返還協定により、返還され日本の領土ということになるのですね。

じゃあそれなら、元来台湾か沖縄か、どちらにに属していたのかをじっくり考えたいと思いますが、今回は長くなってきて私も些か疲れましたので、次回ということに致します。ではでは。

袖触れ合うも多生の縁293~新進気鋭の論客、白井聡さんの「永続敗戦論」を読みました!

来年平成天皇が退位され、新しい元号が始まりますね。私をOSK日本歌劇団の作・演出としてデビューさせて下さった故吉村捨男さんは明治生まれで、「明治・大正・昭和と三代の天皇陛下にお仕えしてますわ。」と冗談っぽく仰っていましたが、私も昭和・平成・○○と3代の元号の間を生きることになるのでしょうね、多分。
そんな訳で戦後もどんどん過ぎゆきて、戦前に復古させたい輩が跋扈する今日この頃、この先どないなるんやろと老爺心に思い煩い、図書館で「白井聡対話集 ~ボスト戦後の進路を問う~」を手に取り、政治学者にして思想史家である白井聡さんの存在を知って、白井さんの名を知らしめた著作「永続敗戦論」を読むに至ったのであります。
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ご覧のように、この本はマンガにもなっているベストセラーなんですが、私は勿論マンガを読んだのではあのません。漫画は「のらくろ」で卒業しておりまして、マンガを読むのは一寸苦手なんです。
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それはさておき、私達は8月15日を終戦記念日と言いますよね。8月15日の玉音放送では「降伏」や「敗北」とは一言も言われていないから「敗戦」でなく「終戦」ですが、しかし連合国サイドは玉音放送でポツダム宣言が受諾されから約半月後の1945年9月2日、東京湾上のアメリカ戦艦ミズーリの甲板上において調印された日本の無条件降伏の日が戦争に勝利した日(日本が敗戦した日)なのです。
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「オルタ広場」というメルマガに掲載されている白井聡さんの「永続敗戦論からの展望」によりますと・・・

八・一五を「終戦の日」と日本人が呼び慣わしているのは、「敗戦」を「終戦」と呼び、敗北の事実を曖昧化する「敗北の否認」である。「敗戦の終戦へのすり替え」がなされなければならなかった最大の理由は、敗戦の責任を有耶無耶にし、敗北必至とあらかじめ分かっていた戦争(対米戦)へと国民を追い込んで行った支配層が、戦後も引き続き支配を続けることを正当化しなければならないという動機であった。この策動は玉音放送において「降伏」や「敗北」といった表現が慎重に避けられたことから早くも開始され、東久邇宮内閣の「一億総懺悔」という標語の提示に見られるように、明確な意図を持って推進されたと言えよう。こうした流れの果てに、敗戦したことそのものが曖昧化され、「敗戦ではなく終戦」というイメージに日本人の歴史意識は固着してゆく。そもそも敗戦していないのであれば、誰も責任を問われる道理がなくなるのだから、実に見事な(!)論理である。 こうしたからくりは言うまでもなく、日米合作によって成立した。非常に限定された形でしか戦争責任を追及せず、戦前の支配層を戦後の統治者として再起用する一方、左翼をはじめとする批判者勢力の力を抑制するという方向性は、「逆コース」以降顕著になるアメリカによる「民主化」の基本方針であり、それは、明瞭なかたちをとり始めた冷戦構造における日本の位置づけによって必然化されたものであった。こうした経緯を経て戦後日本の権力中枢が再編成されたことを鑑みれば、その体制が対米従属を基幹とする、半ば傀儡的なものとなったのは当然の事柄であった。保守合同による自民党結成(1955年)におけるCIAの資金提供という事実に典型的に見て取れるように、戦後日本の保守政治の根本は半傀儡的政権を通した間接統治であった。
CIAの援助によって成立した政党がほぼ一貫して政権を握り続けてきたという一事をとっても、「敗戦」は今現在に至るまで継続している。ゆえに「永続敗戦」という概念こそ戦後という時代を指し示すのに好適であると私が確信する所以があるが、問題はこのことが、大多数の国民にとって意識の外にあるということである。


「玉音放送」で「敗戦」なる言葉を避けたのは、軍部や国民への衝撃を些かでも薄める為であろうし、「一億総懺悔」は、天皇や支配者層のみならず国民総て反省すべしと主張し、国民から天皇の戦争責任追及を免れようとしたもので、日米合作ではないと私は思います。この「一億総懺悔」対しGHQは、1945年10月4日、天皇に対する批判の自由,政治犯の釈放,特高警察の廃止などを命じ,東久邇内閣はこの衝撃で総辞職しています。
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しかしながら私も、我が国は永続敗戦やなあ・・・とつくづく思うわけであります。
そして白井聡さんは、こうも仰っておられます。
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「永続敗戦」の代表が領土問題であり、沖縄の米軍基地問題にほかならない。尖閣諸島をはじめとする領土問題に解決の目途が全く立たない理由は、その本質が国民に、否、外交当局者においてすら理解されていないという事情に求められる。その本質とは、現代日本の抱える領土問題が第二次世界大戦の敗戦処理の問題であるという事実である。

という訳で、次回は尖閣諸島のお話でーす。

袖触れ合うも多生の縁292~劇団第一主義公演「カーゴ・カルト」と小説「教団X」

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先日、オウム死刑囚の死刑執行が行われました。このことの賛否は色々あるようですが、刑執行にサインした上川陽子法務大臣は勇断、いや蛮勇を振るわれたのでしょう。しかし上川女史以上の方もいらっしゃるようで、1948〜50年に在任した殖田俊吉氏は少なくとも33人(役職は法務総裁)の、50〜51年に在任した大橋武夫氏(同)、52〜54年に在任した犬養健氏は少なくとも24人の執行命令を下したとか。それに反して1967〜68年在任した赤間文三氏は秘書課長から暗にサインを促されるたび「勘弁してくれ。そんなことをしたら今度はオレにお迎えがくる」と拒否していたそうです。また、3年4ヶ月にわたって死刑が停止されていた期間の当初に在任(90〜91年)していた左藤恵氏は、自らが真宗大谷派の住職であるという宗教上の理由で執行を拒否。2005~06年に在任していた杉浦正健氏も就任会見で、宗教観や自らの哲学を理由に「サインしない」と発言したものの、1時間後に撤回したが、10ヶ月の在任中には刑を執行しなかったのです。あれ、話しがタイトルから逸れてますので、本題に戻しましょう。
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オウムの死刑判決された人達が如何なる想いで身罷かったのか分かりませんが、それとは関係なく、中村文則さんの小説「教団X」を読んだのです。この小説の粗筋をPC検索でみつけた<ダ・ヴィンチニュース>からコピペさせて頂くと・・・
舞台は、2つの対立する宗教団体。自分のもとから去った女性・立花涼子の行方を追って楢崎はとある宗教団体に足を踏み入れることになる。そこは、アマチュア思想家を名乗る松尾が作り上げた宗教団体。楢崎の探している涼子は松尾の団体と対立する沢渡のカルト教団の信者であるらしい。家族のような温かなつながりを持つ松尾の教団と、セックスで人を洗脳していく沢渡の教団とを彷徨うことになる楢崎。生きる苦しみを抱えた信者たちと関わりあう中で、次第に翻弄されていく楢崎は、気づかぬうちに、4人の男女の運命、あらゆる欲望の渦に巻き込まれてしまう。———「あなたは、私がつかむことのできなかった、もう一つの運命だったの」。生きるとは。苦しみとは。宗教とは。惹かれ合い、反発し合う男女は一体どこへ向かうのだろうか。

処で、この本は読書芸人(写真下の面々)、芥川賞作家の又吉直樹やオードリー・若林、三四郎・小宮らが大絶賛し、人気に火がついた小説なのです。
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そんな経緯は兎も角、人間は神様に命を限られた代わりに楽しみとしてセックスを与えられたという沢渡なる人物が教祖である教団思想を描く為にか、情事が延々と描写されているのに、ワタシは些かならず辟易しましたが・・・。そう、今回のブログのメインは劇団第一主義の公演「カーゴ・カルト」なんですが、この劇団の主宰者が沢渡(写真下)さんなのです!
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沢渡さんて、劇団主宰者にして演出家、そして舞台監督をなりわいとする演劇人なんですが、教祖的風貌ですね。
それはさておき、<カーゴ・カルト>とは公演チラシによりますと・・・

カーゴ・カルトとは、メラネシアなどに存在する招神信仰・積荷(cargo)信仰(cult)である。いつの日か、先祖の霊・または神が、天国から、海の向こうから船や飛行機に文明の利器を搭載して自分達のもとに豊穣をもたらす、という現世利益的な信仰である。日本では、海のかなたの異郷・異界(常世 とこよ)から稀に訪れ人びちを祝福する客神・来訪神を歓迎する(まれびと信仰)といわれる。

そんな<まれびと信仰>を待ち望む信者達、夫から離れ一主婦から教祖に成ってしまう女・失踪した妻を探す夫、妻の探索を依頼された探偵男女・・・13名の芸達者達が織りなす2時間弱のドラマは些か難解で、私の周りのお客さんにはこっくりする人がチラホラいてましたが、私にとってはなかなか魅力的な舞台でした。このお芝居は戯曲をじっくり読めばよく理解できるのでしょうが、上演された舞台を一度見たのでは分かりづらいところがなきにしも非ずと感じました。でも、アブストラクト絵画を鑑賞する時と同じで、何が描かれてるのか分からなくても面白く感じるってあるじゃないですか。そんな雰囲気を醸し出しているお芝居でありました、ハイ。
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舞台写真が無いので、劇団第一主義HPのブログ、稽古場日誌から転載させて頂いておりますが、(因みに稽古場日誌は同劇団唯一の俳優熊谷香月さんが担当されていて、私はずっと読んでいますが、稽古の進展状況をよくもまあ、読み手に飽きさせないように工夫し書き続けたと感心しています!)一番上の写真は読み合わせ、次は古田里美さん扮する女教祖と信者達、その下は探偵達と依頼人の夫、ことぶきつかささん、一番下は稽古場日誌執筆者にして女探偵役の熊谷香月さんです。熊谷さんはお芝居がしたくて、どういうご縁か沢渡さんに弟子入りした今時珍しい人(?)で、3年前の初舞台から私は見続けていますが、今回は存在感が出て来、一寸魅力的な女優さんになっていたのです!
これは私個人だけの贔屓目では無く、師匠の沢渡さんも同意見でした。熊谷クン、今後も頑張ってもっともっと伸びて下さいね!!
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さて、先ほど13名の芸達者と書きましたが、特筆したいのは皆さん、声が良い!のです。稽古場日誌によると、演出の沢渡さんはご自身でも声フェチだと宣言しているほどの良い声大好き人間だそうですが、そんな沢渡さんがキャスティングしただけあって、なかなか耳に嬉しいハーモニーのお芝居でありました。なかでも古田里美さんは平凡な鬱々とした暮らしをしている妻役の低めのトーンも、教祖となり高揚した時の高めのトーンもお見事でした!
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これがことぶき・古田夫妻の稽古場写真ですが、平々凡々たる妻の日常生活を思わせる彼女のどこか張りのない感じから、教祖になり一転しオーラに充ち満ちたお姿は流石でした!(教祖姿の適当な写真をお見せ出来ないのが残念です)それから沢渡演出のポイントは、この戯曲の持つ「歪み」「違和感」を出す為、 「相手を見て会話をしない」と動きを制限しているのもユニークで興味をひかれました。又、この劇場は上手しか登場退場出来ないのが難であるのを、パネル数枚を斜めに配置することにより、迷路を思わせる舞台装置を造形し、教団に迷い込むようなイメージを醸し出し、上手下手センター奥にも登退場可とした演出プランは秀逸でした!
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命にかかわる猛暑にめげず、地震にも豪雨にもめげず、この舞台を造り上げた演出スタッフの皆さん、キャストの皆さん、本当にお疲れ様でした。稽古終わりの宴会にもまして楽日の打ち上げのお酒はこの上なく美酒だったでしょうね!
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袖触れ合うも多生の縁291~西日本豪雨とノアの方舟、又は体育会系と文化系人間について。

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先日の西日本豪雨、被害に遭われた方々に心よりお見舞い申し上げます。又、災害復旧を助けていらっしゃるボランティアの皆さん、本当に有り難う御座います。何も出来ない自分を不甲斐なく思っております。
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さて、数日続きの豪雨を眺めていると、うちのヨメさんが、「ノアの方舟の時は、何日降り続いたのかしら?」「さあ、一週間ぐらい違うかな・・・」こんな会話から、ノアの方舟は神話や伝説でなく、史実であったという話に発展したのです。
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処で、今このブログを書くに当たって、聖書を見たり、PCで調べてみたのですが、ノアの方舟は旧約聖書『創世記』の6~9章に記されていて、Wikipediaによる要約は以下の通りです。
神は地上に増えた人々の堕落を見、「神と共に歩んだ正しい人」であったノア(当時500~600歳)に、堕落した人々を洪水で滅ぼすと告げ、ノアに箱舟の建設を命じた。(中略)ノアは箱舟を完成させると、妻と三人の息子とそれぞれの妻、そしてすべての動物のつがいを箱舟に乗せた。洪水は40日40夜続き、地上に生きていたものを滅ぼしつくした。水は150日の間、地上で勢いを失わなかった。その後、箱舟はアララト山の上にとまった。
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このように遺跡も発掘されていて、史実であるのは間違いないようです。又レプリカを聖書に書かれた実寸で造ったりされているのです。
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再びWikipediaによる要約です。
40日後、ノアは鴉を放ったが、とまるところがなく帰ってきた。さらに鳩を放したが、同じように戻ってきた。7日後、もう一度鳩を放すと、鳩はオリーブの葉をくわえて船に戻ってきた。さらに7日たって鳩を放すと、鳩はもう戻ってこなかった。ノアは水が引いたことを知り、家族と動物たちと共に箱舟を出た。そこに祭壇を築いて献げ物を神に捧げた。神はこれに対し、ノアとその息子たちを祝福し、ノアとその息子たちと後の子孫たち、そして地上の全ての生きとし生ける物を絶滅させてしまうような大洪水は、決して起こさない事を契約した。神はその契約の証として、空に虹をかけた。
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虹って、こんなエピソードが有ったなんて知りませんでした。鳩がオリーブの葉をくわえて戻ったので、後に鳩を平和のシンボルにしたのは知っていましたが。
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とまあ、こんなに詳しくじゃないけれど、ノアの方舟の話をヨメさんとしたのですが、数日前、ヨメさんは長年の友達と会った折りに西日本豪雨の話となり、その友人は豪雨の日に聖書を取り出し読み直しておられたとか。
さて、話は方向転換しますが、ワタシは中高時代、野球部に所属していた体育会系人間だったのです。しかし19才から芝居の世界に入り、文化系人間に転じて60年弱、この間OB会などで幾つ何十になっても体育会的体質の抜けきらない、いや歳を取る程甦っている上から目線の先輩方々と宴を繰り返していましたが、なんだか肌合いが違うなぁ・・・と昨今思うようになったのであります。
西日本豪雨の後、ある先輩に出会い一杯・・・ということになり、「この間はようふりましたなぁ。ノアの方舟みたい・・・」と話しをふった処、ノアの方舟には皆目反応がなく、阪神タイガースの試合が仰山流れて、9月半ばからの試合が連戦続きとなるから、ピッチャーのローテーションが大変や!と滔々と立て板に水で、応答するワタシは「あ、ら、らぁ・・・っと(アララトのしゃれです)」と横板に鳥もちの相槌でした。そうか、こないな話しのすれ違いが肌合いの違いを感じてた由縁なんや・・・と思った次第であります。いや、勿論体育会系の方でも色々話題が豊富で、話していて面白いと感じる人もいてはりますことを付け加えさせて頂きます。
ではでは。


袖触れ合うも多生の縁290~小説「雲上雲下」は朝井まかてさんの最高傑作か!?

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樋口一葉の歌の師として知られる中島歌子の苛烈な生涯を描いた『恋歌』で第150回直木賞を受賞し、歴史・時代小説家として礎を築いた朝井まかてさん(写真上)の小説を私は殆ど読んでいて、どの作品もとても面白く一気飲み、いえ一気読みしてしまうのです。でも先日、最新刊の「雲上雲下」を読んだのですが、この作品は民話を題材にした和風ファンタジーで、作風が一新したのにびっくり、ゆっくりじっくり二度読みしてしまったのです。この作品は当初、日本農業新聞の連載で「福耳草」という題名でした。
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旧タイトルに見られるように、福耳を持った大きな草が子狐にお話をしてあげるという構成で粗筋は・・・私がゴチャゴチャ書くより、文芸評論家の縄田一男さんが産経新聞に書評を書いていらっしゃるので、先ずはそれを借用させて頂きます。
この作品は断崖絶壁の大樫(おおがし)の洞(ほら)のそばに根を張る、丈(たけ)は二丈(じょう)、根許は一抱えもあろうかという「草どん」が、ここにやって来た子狐(こぎつね)を相手に、さまざまな物語を話して聞かせることで幕があく。六地蔵ならぬ〈団子地蔵〉、鶴の恩返しならぬ〈開けずの抽斗(ひきだし)〉、そして、作者はこれらの物語が、人が「見てはならぬものを見たいし、交わした約束は破りたい」という欲望と表裏の関係で成立していることを示しつつ、次にささやかな善意の物語〈粒や〉を語っていく。こうした祝宴にはあの恐ろし気な山姥(やまんば)も加わり、浦島太郎ならぬ〈亀の身上がり〉や、ユーモアたっぷりの〈猫寺〉が続く。さらに、“人々が忘れず、我が子に語り継いできた〈通り過ぎる者〉”小太郎の登場で、本書で語られる物語は、命の巡り合いを語り一つのクライマックスを迎えることになる。
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このひげもじゃおじさんが縄田一男さんなのです。まあ、なんともユーモラスな風貌でいらっしゃいますよね。それはさておき、粗筋を私なりに補足させて頂きますと・・・
山奥の森の奥の奥の奥の、更に奥にぽっかりと広がった草原に太古から生えている一抱えもある大きな草の根方に子狐が迷い込んでくる。子狐はその草を草どんと呼び、夜眠る時、お話をせがむのである。聞かせる話なんぞ持ち合わせていないと断ったものの、いつの間にか草どんのアタマにお話が浮かび上がり、物語を語り始めるのだ。第1章は、博打に興じる鬼を騙し金(きん)を授けてくれる「団子地蔵」、タニシの姿に生まれたが利発な働き者で長者の娘を嫁にする男の子「粒」、竜宮に仕える亀が乙姫のピンチに活躍する「亀の身上がり」、寺で飼われていた猫が恩返しする「猫寺」の4話。第2章は、草どんの佇む広場に母を探し訪ねる小太郎という少年が通りかかり、小太郎の目指す湖への道に子狐が道案内するが、この小太郎こそ「龍の小太郎」の主人公であり、その生い立ち、悲しい恋、母である龍神を訪ねる旅、母との再会と山を崩し湖を埋め立てる話が情感豊かに語られる。 第3章では、草どんのもとにいる子狐を訪ねて来て居着いた山姥が人間の娘であった頃の物語を語り、子狐も九尾の狐の子だと分かる。又、草どんは自分が福耳彦命という天界で地上の物語を集めて神々に聴かせる御伽衆で、役目に失敗し地上に落ちたことを思い出す。 そして草どんのいる草原も開発され、物語の世界は急速に影を薄め、主人公たちは避難してゆく。なな、なんと、これは今の、現在の話だったのです!
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再び、縄田さんの書評です。
今は分からぬが、かつて、日本の、いや、世界中の子供たちは、母親の懐に抱かれて、昔々、あるところに」ではじまる物語を聞いたことがあるはずである。この本は、読者を限りない優しさで、そうした甘美な幼い頃の記憶へ誘(いざな)いつつ、もう一方で、物語という“共通言語”喪失の危機に対する問題提起を行った稀有(けう)な一巻といえよう。何の躊躇(ちゅうちょ)もなく朝井まかての最高傑作といっていい。いや、文学史に残る作品であると断言してもいいのではあるまいか。それにしても作者のオリジナリティーを含めた説話=物語再生産能力は目を見張るほどである。しかしながら、やがて「草どん」の存在意義が明らかになると、物語が錯綜(さくそう)しはじめ、天地にゆがみが生じ、いままで語り継がれてきた遠い記憶の分断がはじまってしまう。そしてラスト、作者は物語る者としての誇りを懸けて、それらにおごそかな反旗を翻す。何と熱くすばらしい一巻であることか。全読書人必読の一冊といっていい。
とべた褒めです。私も不思議な感動を覚え、ブログに書きたくなり、PCで色々検索してみたところ、小学館のブログ通信<小説丸>に、吉田大助さんというライターが作者にインタビューされた記事が載っていましたので掲載させて頂きます。
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「専門紙なので、読者は農業に従事してらっしゃる方が多いです。農業は大変な仕事ですから、朝からきつい物語を読むのはしんどい。NHKの朝ドラのような明るいテイストのものを、というご希望をいただきました。でも、私は作品のテイストを先に決めて書くことができないんですよ。テーマすらも、書きながら見出していくことがほとんどなんです。でも、一番最初に届けるべき読者の顔をくっきりと思い描けたことが、進むべき道を照らし出すことに繋がりました。」
テーマも決めずに書き進めるられるなんて、私には出来ないことですが、でも、そんな作家さんもいらっしゃるんですね。
「土に近いものを書いてみよう、と思いました。その流れから、いろいろな土地の風景や方言、土地に根付いている民話を盛り込んだものを書いてみたくなったんです。編集者さんと一緒に日本各地を回り、民話を"体の中に入れて"おられるお年寄りの方々からお話を伺いました。でも、実は民話って先人が尽力したおかげでほとんど文字化されて後世まで残っています。だから、私が魅了されたのは語り部さんの話術の方でした。その語りを小説にも反映できたらなと思いましたし、旅の道中で見つけた、湖に突き出している桜の一本道の風景だとか、田んぼのはしっこにある小さなお地蔵さんなどからも、お話の種をたくさんもらいました。」
取材された語り部さんの語り口が文脈の其処此処に満ちていたので、私は声にこそ出さないものの、無音の音読をしていました。この無音の音読は、自分が戯曲の台詞を書く時には常にやっていることなんです、ハイ。
「普段、歴史・時代小説を書いている時は、フィクションを支えるのはリアリティだという意識があるんです。細かなところまで史実のチェックが必要で、登場人物達の言動も嘘くさくはないかと神経を張り巡らせている。でも、"団子を追いかけて穴の中に吸い込まれたら、喋るお地蔵さんがいた""嫁が田螺を産んだ"という発端の理由を説明するのは、むしろ物語の邪魔になるんですよ。リアリティをどんどんすっ飛ばしていくことで出てくる物語のドライブ感が、書いていてとても気持ちよかったです。」
私はそのリアリティのなさが昔話のおおどかな良さだと思うのです。しかし、「浦島太郎」とその他いくつかの民話を組み合わせてリメイクした一篇では、〈ひとたび亀の甲羅の上にまたがれば、その者は溺れることも息が苦しくなることもない。亀甲にその力が宿っているらしい〉と舞台装置を成立させるための説明が付加されていて、この辺りは今迄の作者のリアリテイ造りの賜物なのでしょうね。
「乙姫が病気になって、それで病気に効くとされている猿の活き肝を手に入れるために、地上の猿を騙して龍宮城に連れて来るのが原話です。でも、その思惑が猿にうっかりバレてしまったところで、"活き肝を木の枝に干し忘れてきたんで、取りに戻ってくるわ"と、まんまと逃げられてしまう。小説の場合、"いやいや、その頓智には騙されないでしょ!"となるじゃないですか。そこで猿を逃がすことなく、別のユニークな展開を考えたのですが、そんな処にリアリティを求めたがる私の癖が出ています(笑)」
癖が出てると仰っていますが、現代的に計算しての創造で流石!と思いました。
「この作品を書き始めた頃は"原話をいかに残すか"という意識が強くて、つまり長い時をかけて日本人が語り継いできたものを壊してはいけない、と。でもある時、"私は小説家なんだから、小説を書けばいいんだ!"と腹が据わって、自由に想像を膨らませて書くようになった。するとその頃から、新聞読者の皆さんの反響も大きくなっていったんです。でも、第2章に取り上げた小太郎伝説の民話は、農耕文化以降に語られるようになったものなので、農業にまつわるエピソードが数多く出てきます。この作品で絶対採り上げたかった民話のひとつなんですが、今回一番苦しんだ話でもあるんです。というのも農耕って、自然の側に立って見てみると自然破壊なんですよね。今、そのテーマを無視して書くことはできないなと思いました。そして自然災害についても避けては通れませんでした。その苦しみ、悲しみを乗り越えるために日本人が紡いできた民話があるわけですから。小太郎は、人間の父親と龍の母親との間に生まれた、いわば人間と自然の"ハーフ"です。そんな彼の視点だからこそ、人間と自然のせめぎ合い、共存についてアプローチすることができました。批判だけではなく、少しでも未来につながる何かを、ほぼ丸一章使って考え続けたような気がします」
このように第2章には母を探して旅する少年・小太郎がフィーチャーされていますが、元になった民話は長野県に伝わる民話「小泉小太郎伝説」で、テレビアニメ『まんが日本昔ばなし』のオープニングで、龍に乗る「坊や」のモデルになっているんですよ。
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そして、再び草どんを語り部に据えた最終第3章では、個々の物語が意外なかたちで集結し、大きな物語へと変貌を遂げるのです。きっかけとなったのは、草どんに対する作家の疑問だったという。
「草どんは何者なのか、私自身も分からずに書き始めたんです。もっと言うと、子狐が何者で、どうして山姥や小太郎までもが草どんの前に現れるのか、書いている自分にとっても謎でした(笑)。そこを探っていくうちに、「物語(る)とは何か?」というテーマが立ち上がってきたのです。語り部さん達がおっしゃっていて印象的だったのは、幼稚園や小学校で民話を語ってくださいという依頼が来るとき、先生方や保護者から"残酷な表現、汚い表現はやめてください"と言われること。でも、そこも剥き出しになっているところが民話の素晴らしさじゃないですか。世の中は不条理であり、残酷なことも存在する、と伝えるのが民話や昔話、物語の持つ重要な役割ですよね」
草どんや子狐が何者か分からずに、決めずに書き始めるって、ある意味スゴイですね。私には到底出来ない凄技ですよ!草どんは福耳彦命という語り部で、子狐は、平安時代鳥羽上皇に仕えた玉藻御前(たまものごぜん)という美女に変化(へんげ)していて、正体は九つの尾を持つ霊獣である狐の子供・・・なんて設定が如何にして浮かんで来たのか・・・その辺りを私は知りたいですね。
「単行本のための原稿直しをしながらふと"私たちは何を信じて生きているんだろう?"という問いかけをこの小説でしたかったのかな、と気付いた瞬間がありました。もしかしたら今、信じるものの範囲がとても狭くなっているのかもしれない。その危機感をひしひしと感じますね。私はフィクションや想像の力を信じたい。小説家ですから。」
今は、フィクションを、昔話を信じない子供達、いや大人だってお伽噺なんて他愛も無い話でホンマやあらへんと信じてないですよね。そう、だから作者は作品の終盤に、雲下で、下界で、祖母と孫が交わすかみ合わない悲しい会話を、福耳彦命が聞いてしまうシーンを書いておられるのです。

・・・・今夜は一寸法師にしようか、それとも神様のお話かな。
・・・・オ祖母チャン、神様ナンカ、イナイヨ。
・・・・またそんなこと言って、罰が当たるよ。
・・・・罰ッテ、何。
・・・・神様がいつも、空の上から見てなさるってこと。
・・・・ソンナノ、作リ話ダヨ。
・・・・ほんとよ。木にも草にも、神様は宿ってなさる。お米の一粒にだって。
・・・・ジャア、イイヨ。オ祖母チャンノオ話、聴イテアゲルカラ、・・・・ヲ買ッテ。


福耳彦命と弟子の明日彦は、「誰ももう、雲上の世界など、信じるどころか想像すらしていないんだ」と絶望する。
かくして朝井まかてさんは、「物語こそが雲上雲下、即ち神々の天界と人間世界を繋ぎ語られるものなのだ。神々は人の心に支えられ像を結ぶ、かそけき存在なのです」と、この物語の本質を読者の胸に、私の魂に語りかけておられるのです。雲上から雲下は見えているのでしょうが、雲下から雲上は見えない昨今なのです。
嗚呼!
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袖触れ合うも多生の縁289~日本を極右に傾ける日本会議と安倍内閣の密なるカンケーは!?

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このモリトモの仲良しグループも籠池夫妻だけが罪に問われ、他のエライさんは無罪放免にて過去の過ぎ去った事件として忘れさられてしまうのでしょうか!?そないさせたらアカンと思うのですが、自民党や安倍内閣支持の皆さんはそうさせたいようですね。ま、それについては深入りせず話しを進めましょう。

英 The Economist紙 や仏 L’Obs 誌 などが相次いで、日本の危険な右翼団体「日本会議」が、安倍政権の政策に大きな影響を与えていると報じている。
出典:LA FACE CACHÉE DE SHINZO ABE:アベシンゾーの隠された顔|PAGES D'ECRITURE
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世界第三の経済大国である日本は、総理大臣安倍晋三も含めて閣僚の4分の3が歴史修正主義で権威主義の極右団体、「日本会議」と呼ばれる、目立たないが影響力のある団体に属している。
出典:LA FACE CACHÉE DE SHINZO ABE|PAGES D'ECRITURE

この他Wikipediaによれば、アメリカのニューヨーク・タイムズで、日本会議が「日本最大のナショナリスト団体(Japan’s largest nationalist organization)」と表現されています。
アメリカのナショナル・レビューで、日本会議が「急進的なナショナリスト団体(radical nationalist organization)」と表現されています。
イギリスのエコノミストは、日本会議が「『伝統的価値観』への復帰と戦時の日本の悪行への『謝罪外交』の否定を主張するナショナリスト・シンクタンク」と記しています。
イギリスのガーディアンで、日本会議が「超保守的なロビー団体(ultra-conservative lobby group)」と表現されています。
フランスのル・モンドは、日本会議を「日本軍国主義による犯罪の告発に異義を唱える修正主義組織(organisation révisionniste qui réfute les accusations de crimes formulées contre le Japon militarist)」「超国家主義団体(organisation ultranationaliste)」と表現しています。
フランスのL'Obs(旧:Le Nouvel Observateur、「新監視者」)は、日本会議を「歴史修正主義的な主張をする保守系団体」と紹介しています。
ドイツの南ドイツ新聞は、日本会議を「右翼民族主義の懐古的組織(rechtsnationalistischen Nostalgie-Organisation)」と表現しています。
ベルギーのデ・モルゲン(nl:De Morgen)は、日本会議を「民族主義的世界観のカルトのようなロビーグループ(cultachtige lobbygroep met nationalistisch wereldbeeld)」と表現しています。
香港のサウスチャイナ・モーニング・ポストは、日本会議が「極右のカルト(ultra-right cult)」と呼ばれていると報じています。
韓国の聯合ニュースや中央日報は、日本会議が“日本の右傾化の流れに相当な影響力を行使している”と報じ、“積極的な対処が必要だ”としています。
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ご覧頂いたように、今日本以外の各国でも安倍内閣は大いに注目されています。でも、良い意味でなく悪い意味なので困ったものです。このようにイギリスやフランスの新聞や雑誌が報じている日本会議なる団体ですが、日本のマスコミは何故か取り上げることが無い、いや、あったとしてもごく少ないですよね。
そやからという訳やないんですが、老婆心ならぬ老爺心から私がブログに取り上げた次第です。上の写真は日本会議のHPの背景画像ですが、Wikipediaによると日本会議は、《美しい日本の再建と誇りある国づくり》を掲げ、政策提言と国民運動を行うとしており、主な活動や主張には以下のものだそうです。
<皇室>
〇男系による皇位の安定的継承を目的とした皇室典範改正
〇皇室の地方行幸啓の際の奉迎活動

<憲法>
〇「押し付け憲法論」に立った憲法改正要綱の作成
〇歴史と伝統に基づいた、新しい時代にふさわしい新憲法の制定
〇(上記2頃の為)地方、中央に於ける憲法シンポジウム・講演会の開催

<教育>
〇学校教科書に於ける「自虐的」「反国家」な記述の是正
〇「親学」に基づく親への再教育、いじめ撲滅等を目的に掲げる「家庭教育基本法」制定
〇「特に行きすぎた権利偏重の教育」是正
〇「わが国の歴史を悪しざまに断罪する自虐的な歴史教育」是正
〇「ジェンダーフリー教育の横行」是正
〇学校における国旗掲揚・国歌斉唱運動推進
〇教育委員会制度改革
〇「公共心」「愛国心」「豊かな情操」教育等を盛り込んだ「新教育基本法」制定
〇「国旗国歌法」制定(1999年公布施行済み)

<国防>
〇海上保安庁法等改正(一部改正)
〇平時における自衛隊の領域警備に関する役割を定める法律制定
〇自衛隊法の改正等による「有事法制」整備
〇統帥権独立させない文民統制のされた国防軍発足

<歴史認識>
〇先の大戦は侵略戦争に非ず。謝罪外交を止め国の誇りを取り戻せ
  (大東亜戦争肯定論)

<靖国神社>
〇内閣総理大臣の靖国神社公式参拝実現
〇靖国神社に代わる無宗教の「国立追悼施設」建設反対
会長の田久保忠衛は靖国参拝について、中国・韓国等の諸外国の主張の通り「A級戦犯を除外すれば、次はB、C、最後には靖国神社自体をなくしてしまえとなるのは目に見えている」とし、「外交の道具に使われているだけ」であるとしている。

<女性に関する国民運動>
〇夫婦別姓法案反対
〇男女共同参画条例反対

<在住外国人問題>
〇日本の主権を侵害すると見做した動きへの反対運動
〇外国人地方参政権反対
〇「人権機関設置法」反対
〇「自治基本条例」制定反対

かような主張を見ると、冒頭に列挙した諸外国のマスコミ報道も、むべなるかな!ですよね。
さてと、このような日本会議には国会議員懇談会というバックアッブ団体があり、安倍総理はその日本会議国会議員懇談会副会長であり、学校法人森友学園の元理事長籠池泰典さんは日本会議大阪のメンバーなのです。(尤も日本会議は、籠池氏は過去に日本会議の会員であったものの2011年に退会しており、籠池氏が用いていた「日本会議大阪代表・運営委員」との名刺は虚偽の役職を記載したものである」という趣旨の文書出していますが)ですから安倍昭恵総理夫人は、森友学園が2017年4月に開校予定だった瑞穂の國記念小學院の名誉校長に就任なさっておられたのでしょう。(そやけど、ぐつ悪なったからして止めてしまいはりましたけどナ)
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しかしま、仲良さそうなお写真やおまへんか!あ、こないな揶揄したような物言いしてスンマセン。
しかしですね、人間の性が元来<善>なら、関係者の皆さんが本来の人間性に一刻も早く立ち帰られることを切に切に祈り、切に切に切に望む次第であります。
拉致、いや埒がアカン話しやのうて、日の丸についてのミニ知識で締めたいと思います。皆さんは日章旗の正式サイズをご存じでしたか?
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日本の国旗)は法律上、日章旗と呼ばれ、日本では古くから、また今日でも一般的に日の丸と呼ばれるており、1999年(平成11年)に公布・施行された「国旗及び国歌に関する法律」(国旗国歌法)の規定によると、旗の形は縦が横の3分の2の長方形で、日章の直径は縦の5分の3、日章の中心は旗の中心なのです。色地は白色、日章は紅色とされています。ではでは。

袖触れ合うも多生の縁288~日本を右に傾ける神社本庁とアベソーリの密なるカンケーは!?

最近、吉田神社や伏見稲荷大社について書いていますが、今回は日本国中の神社の大元と言っても良い神社本庁とアベソーリやソーリ夫人、そしてやっと保釈された籠池泰典さんのカンケーで注目されている日本会議について蘊蓄を傾けたいと思います。そやけど、書きたいことが仰山あるから、日本会議まで辿り着けるかどうか、ま、兎に角書き始めますわ。あ、念の為付け加えておきますが、吉田神社は神社本庁傘下ですけど、稲荷神社は神社本庁に属してないんですよ。
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ご覧の写真が神社本庁ですが、<庁>と名乗っているものの公の機関、役所ではなく、神宮(伊勢神宮のこと。写真下は外宮と内宮)を本宗とし、日本各地の神社を包括する民間の宗教法人なのです。
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さて、神社本庁は神道系の宗教団体として日本で最大で、約8万社ある日本の神社のうち主要な7万9千社以上を傘下におさめており、戦前は内務省の外局であった神祇院の後継的存在なのです。江戸幕府は仏教をもって国を治めていましたが、明治維新以来戦前迄政府は神道を国家の宗教と定め、本来の神道を歪めた国家神道の頂きに現人神として祀りあげた天皇を据え、為政者達の思うが儘に操ろうとしていたのです。そんなおいしい目をしていた良き時代に戻すべし!との目論見があってか、<庁>なんて国家機関を思わせるようなネーミングをしているのでしょうか?そして、神社本庁の宗教法人としての規則である「神社本庁庁規」では神社本庁の目的を、包括下神社の管理・指導、神社神道の宣揚、神社祭祀の執行、信者(氏子)の教化育成、本宗である伊勢神宮の奉賛、神職の養成、冊子の発行頒布を通じた広報活動などとしています。
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各神社には毎年、「天照皇大神宮」と書かれた神札、神宮大麻(天照大神の御札)が頒布されますが、「神宮」とは神社本庁が本宗と仰ぐ伊勢神宮を指し、神宮大麻は伊勢神宮のお札であり、伊勢神宮しか発行出来ず、これを各神社が代行し委託販売していて、初穂料(つまり販売価格)は神社によって異なるものの、概ね800円のようです。神社本庁傘下の各神社は神宮大麻を販売し、その売り上げ総額を先ず伊勢神宮に納め、伊勢神宮はその金額の半分を収入とし、残りの半分を神社本庁に交付し、神社本庁はこの金額を各神社に配分しているそうで、神札を800円で販売したとして300~500円のリターンだとか。尚、神社本庁は傘下の神社に対し一定数の神宮大麻の頒布を求めており、規定数に達しない場合も傘下の神社は札を返さない、と週刊ダイヤモンドは報じています。返さないのか返せないのかは分かりませんが。それから各神社は神宮大麻の売り上げの他に、神社本庁に納付金名目で会費のようなものを支払っているのです。その額は基本的に氏子の数で決められますが、この場合の氏子数はその神社の地域人口をもとに算出されるのです。神社本庁は国勢調査の人口をもとに各都道府県の神社庁からヒアリングを行い、各都道府県の納付金額を決め、各都道府県の神社庁は本庁から割り振られた金額を管轄の各神社の規模や事情を加味して負担する額を決定する由。
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上の写真は明治神宮の初詣と神宮外苑の球場ですが、明治神宮の場合氏子数は知名度に比べると多くはないが、初詣に300万人が訪れ、神宮外苑に結婚式場や神宮球場など競技施設を持っているリッチな大神社で、本庁に納められる納付金約10億円の相当額を負担しているそうです。些か古いテータですが、このような集金システムによる2001年(平成13年)度神社本庁の収入は約35億円だったとか。又週間ダイヤモンドによれば、2014年の時点で神社本庁の所有財産は93億7644万円、この内神社本庁の建物は14億4079万円、境内地の評価額は10億8900万円とされています。それから所有する普通財産には歴史教科書を出版している教科書会社の株式などが含まれているのです。
さて、次に神社本庁の政治的主張を見てみますと・・・
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○皇室典範の改正:皇位は<一つの例外もなく男系により継承されている>とし、「皇室典範改正に関する神社本庁の基本的な姿勢について」で政府や有識者会議に対し男系による皇位継承の尊重を呼びかけている。
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○首相の靖国神社公式参拝:A級戦犯も含め、戦争裁判犠牲者を日本政府の一連の措置により昭和殉難者として合祀、慰霊してきた靖国神社を支持し、首相は靖国神社参拝を継続するべきであると主張。
○紀元節復帰運動:生長の家や修養団などと合同で紀元節(西暦紀元前660年2月11日に初代・神武天皇が即位したとされる日を日本国誕生の日とする)を復活させる運動のための統一団体「紀元節奉祝会」を結成し、「建国記念の日」の名称で紀元節を復活させるなど政治的な理念も有して活動。
○神社境内における憲法改正署名運動:神社本庁傘下の一部神社において、神社本庁が参加する「美しい日本の憲法をつくる国民の会」(櫻井よしこ主宰)が憲法改正を求める署名活動を行っている。
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神社におけるこのような活動に関しては、「神社の職務は参拝者に気持ちよくお参りをしていただく環境を整えることであり、不快感を抱く人もいる改憲運動を持ち込むのは神職の職務放棄、神社の私物化」などと、神社本庁内外の有力神社関係者からも批判があるのです。又、この署名問題や集金システムだけでなく、人事問題での紛争も多いとか。
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大相撲の起源とされる「江戸勧進相撲」の発祥で、江戸三大祭である「深川八幡祭り」でも知られる東京・富岡八幡宮は2017年(平成29年)6月に脱退していますが、原因は富岡八幡宮が宮司に指名した人物を神社本庁が承認しなかったという人事トラブルと言われていますし、全国約4万4000ある八幡宮の総本社、大分・宇佐神宮でも離脱の動きがあるのです。
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宇佐神宮の権宮司(ナンバー2)と神社本庁の間で『誰を次の宮司にするか』をめぐり対立が起き、権宮司は罷免されたのですが、この権宮司は代々宇佐神宮の宮司を務めてきた家柄の為、内部に支持派が多く、権宮司派が神社本庁からの離脱を主張しているので、内部でも対立が続いているとか。このように神社本庁からの離脱の動きは年々加速し、2005年からの10年間で214もの神社が離脱しています。
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又、能登一宮の気多大社も宮司人事における対立から訴訟の末、神社本庁から離脱し単立神社となっていますし、明治神宮も2004年(平成16年)に神社本庁と被包括関係を解消しましたが、2010年(平成22年)8月23日に再び神社本庁と縒りを戻しています。このような昨今の離脱で無く、鎌倉宮・靖国神社・日光東照宮・伏見稲荷大社などは神社本庁との被包括関係を有せず、単立宗教法人として運営されています。大きな単立神社は約2000社、小さな祠等を含めると20万社の単立神社があり、神社本庁以外にも神社本教、北海道神社協会、神社産土教、日本神宮本庁など神社神道系の包括宗教法人がいくつかあり、これに属する神社は神社本庁の被包括関係には属していないのです。このように神社本庁の求心力が低下すると、影響を受けるのが安倍政権の進める改憲の動きです。神社本庁はかねてから憲法改正を推進しており、神社本庁の政治団体、「神道政治連盟」の国会議員懇談会現会長は安倍首相で、首相にとって神社本庁は改憲への動きを草の根で広げる重要な支持基盤なんですが、氏子や参拝者が多く金銭的に余裕のある神社ほど、神社本庁の管理から離れようとする傾向が出てき、このまま有力神社の離脱が相次げば、安倍首相の改憲後押しパワーも弱まってしまうので、リベラルを旨とする私としてはニンマリなのですが・・・。
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ご覧のデータは第3次安倍内閣の閣僚達が神道政治連盟と日本会議のメンバーか否かの一覧です。
と言う訳で、次回は日本会議についてです。ではでは。