袖振れ合うも多生の縁347~法然上人の思想<念声一致>に因み、体育会系部活の声出しと演劇の発声を想う~

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前回は法然上人が修行なされた青龍寺でしたから、今回は上人の思想について、私の琴線に触れたことを書かせて頂きます。8年前の平成23年に法然上人の800年大遠忌を機に放映されたNHK-TVの「こころの時代」(写真下)で、ありがとう寺の町田宗鳳師が草柳隆三アナと質疑応答されているNHKインタビュー「法然を語る」を比叡山から帰った翌日、読み直してみました。
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え、TV番組やから見直したやろとお思いでしょうが、そやのうて、町田宗鳳師のWEBサイトに文書化され掲載されているのをプリントアウトしてじっくり読んだのです。話は少し脇道にそれますが、今は平成31年、いえ令和元年ですから、法然上人の808回忌です。因みに808はエンゼルナンバーで、Webサイト「MORE THAN EVER」を見てみますと、
808のエンジェルナンバーには、『神はあらゆる手段を使ってあなたに豊かさを授けています。それらに気付き、ありがたく受け止めてください。』という意味が込められていて、あなたは自分の中心に神を位置付けることに成功しました
と書いてありました。
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私の心の中に神仏がおわすのか、私が神仏を思う人間なのか、それは兎も角、法然上人の<念声一致>という思想をみてみましょう。
“念声はこれ一なり。何をもつてか知ることを得(う)。観経(かんぎょう)の下品下生(げぼんげしょう)に云く、「声をして絶えざらしめて、十念(じゅうねん)を具足して、ナムアミダブツを称せば、仏の名を称するが故に、念々の中において八十億劫(おくこう)の生死(しょうじ)の罪を除く」と。今この文によるに、声はこれ念なり、念は則ちこれ声なり。その意明(あき)らけし。(『選択集』)”

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『選択集』(せんちゃくしゅう)とは、法然上人が撰述した2巻16章の論文の略称で、正式名称は『選択本願念仏集』(せんちゃくほんがんねんぶつしゅう)。
町田宗鳳師は選択集にある<念声一致>について書かれた一文を、以下のように解釈し説明なさっておられます。

この場合「念」というのは「仏の思い。弥陀の本願」と思えばいいんですが、私たちが声を発生した時、そこにはもう既に仏が現れている、ということなんですよ。何故そういうことがわかるかというと、観経(かんぎょう)―観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)にこういうふうに書いてあります、と。これを絶えることなく、十念を称えていけば―ナムアミダブツと声に出していけば、その声の中に仏が現れて、過去劫来私たちは輪廻を繰り返してきたわけだけども、そのカルマ(業)の罪を解くことができるんだ、と。そう書いてありますよ、と。だから私は、「声はこれ念仏なり、念は則ちこれ声なり」と、そのように確信するようになったんです、ということですよ。
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『観無量寿経』は浄土教の根本聖典の一つで、下品下生とは、能力や資質の最も劣った人が極楽浄土に生まれる、生まれ方です。

法然上人は選択集でこのように述べておられますが、宗鳳師は、法然さんが念声一致に思い至った経緯は、単に観無量寿経を読んだから、それだけで確信したのではなく、定善観―ビジュアルに浄土の光景を十三の段階に分けて見ていくという厳しい難行もし、また称名念仏、称名とは仏・菩薩の名を称えることで、「南無阿弥陀仏」の名号を口に出して称える口称念仏をもして、その上で念と声が一つであると確信されたのだと補足説明されています。

処で、『定善観』についてもう少し調べてみますと、『観無量寿経』に説かれる,阿弥陀仏の身や浄土のありさまを思い浮べる十三種の観法で、
1.日想観(太陽が沈むのを見て極楽が西にあることを観ずること)
2.水観(水と氷の清らかさによって極楽の大地の有様を観ずること)
3.地観(極楽の大地をまざまざと観ずること)
4.宝樹観(極楽の不思議な樹木の働きを観ずること)
5.宝池観(極楽の池の水を観ずること)
6.宝楼観(極楽にある多数の建物を観ずること)
7.華座観(阿弥陀仏の台座である蓮華を観ずること)
8.像観(仏像を置き阿弥陀仏の姿を観ずること)
9.真身観(阿弥陀仏の真実の姿を観ずること)
10.観音観(阿弥陀仏に従う菩薩のうち観世音を観ずること)
11.勢至観(大勢至菩薩を観ずること)
12.普観(あまねく浄土の仏、菩薩、国土を観ずること)
13.雑観(阿弥陀仏の身相に他の様々な姿を交えて観ずること)
等々ですが、こんな煩雑な観想は誰もが出来るわけないですよね。
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                (日想観之図)

そして更に、町田宗鳳師はこう言及されています。
以前私は、「否定的記憶」という言葉を遣ったことがありますが、まさにみんな心の奥底に無意識、近代心理学的に言えば、個人無意識とか普遍無意識のずっと深いところに、否定的記憶を抱え込んでいるけれども、この「声の力」はそれを消していく、お掃除する力があるんだという思いに体験的に到達されていたと思うんですよ。
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宗鳳師が仰っている個人無意識とか普遍無意識というのはカール・グスタフ・ユングの提唱している深層心理で、私も大いに共感している処なのです。
もう少し宗鳳師のご意見に耳を傾けてみましょう。師は念仏でなくてもいい、「南無阿弥陀仏」でも「南無妙法蓮華経」でも他の単純な言葉、例えば町田宗鳳師のありがとう寺では「あーりーがーとーうー!」ですが、シンプルな言葉を繰り返し称えていくうちに非常に意識の深い層に入っていくことが出来ると仰っています。
これを私は、「ボイスメディテーション(音声による瞑想)」と呼んでいるんですけれども、黙って坐禅をするよりも遙かに雑念が入りにくくって、坐禅をしたことがない人も短時間のうちに三昧(さんまい)に入れる、ということを発見してきました。(中略)我々の聴覚は普通二十キロヘルツの周波数の音しかキャッチできないんですが、実は自然の中に入ると、風の音とか、水のせせらぎとか、動物の声とか、いろんなものが混ざって、森の中などでは百キロヘルツ以上の高周波音が出ている、と。これは専門家の研究で証明されているわけですけれども、これが実は凄い癒しの力になるんですよ。癒しというのはムードでいうんじゃなくって、実際にそういう音に触れた場合、我々の聴覚に聞こえていなくても、脳幹―脳の基幹部にそういう高周波の振動が伝わるわけで、もう少し科学的に言えば、脳内物質ドーパミンとかβエンドルフィンというものが出てきまして、でリラックスしてくるわけですよ。ですからお念仏を称えている時の境地と、ちょっとお酒を一杯飲んだ、あるいはお風呂に浸かって良い気持ちになった、そういう意識の状態とほとんど区別がないんですよ。ですから声を出すとリラックスするし、いろんな不安とか恐怖がはずれてくるんですよね。

いゃあ、「ちょっと一杯」や「いい湯だな」が音声瞑想と同じだなんて嬉しいですね! 因みに私は、入浴中に思いもかけないような作品のアイディアが浮かんだり、友人と酒を酌み交わし歓談している時、己が考えたこともないような見解を語っていることが多々あるのです。これって音声瞑想と同じように変性意識になっているんでしょうね。処で、下のお猿サンもそうかな? それからワタシも色んなヒトと呑みましたが、ネコちゃんとはないですわ、ハイ。
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宗鳳先生が、「声を出すとリラックスするし、いろんな不安とか恐怖がはずれてくる。」と仰ってるので思い出しましたが、ワタシは中・高併設の学校で部活は野球部でしたが、その頃わが母校の練習は高校生と一緒やったんです。それで、おっさんみたいなキャプテンから、「声を出せ、声を出さんか!」とよう叱られました。なんであないにワァワァ、ガァガァ怒鳴って練習せなアカンねんと、時々声出しをさぼってました。でもつらつら思い出してみると、声を出してたら練習中も試合中も、結構リラックスして集中出来て結果は良かったように思えます。
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そんな部活中心の中・高生活を終え、180度転換し体育会系から文化系へ、芝居の世界に迷い込んだのです。演劇に声はつきもので、俳優なんてこっぱずかしいこと出来へんから、文芸・演出志望やったんですが、役者体験抜きにして演出は出来ないと分かり、俳優修業も少しはやらせて貰いましたが、声出しは野球部での経験が結構役に立ち、腹式呼吸や腹から声を出すのなどは楽チンでありました。
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稽古開始前や公演の開演前に声出しすることにより、リラックスして演じる役に集中出来たように思えます。部活とお芝居の声出しはこれ位にして、音声瞑想に於ける波動に話を展開しようと思っていたのですが、結構長くなってきましたので、ワタシが瞑想時に用いているシンキング・ボウルなど、色々な波動については、いつか機会をみて蘊蓄を傾けたいと思います。ではでは。







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