袖振れ合うも多生の縁365~昔は毎朝夕、108の鐘をついていたとか。それが除夜だけになったそうです。~

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今年もいよいよ押し詰まりあと3日で大晦日ですから、今年最後のブログは除夜の鐘についてです。除夜とは、除日(じょじつ)の夜のことで、「除」には古いものを捨てて新しいものに移るという意味があり、除日とは一年の一番最後の日、大晦日(おおみそか)のことをさすのです。
処で除夜の鐘は108回撞かれますが、この108という数の由来は、複数の説があり、煩悩説、一年間を表す説、四苦八苦を表す説などがありますが、煩悩説がポピュラーのようです。

【煩悩説】
人間には<六根>と呼ばれる6つの器官、眼(げん)、耳(に)、鼻(び)、舌(ぜつ)、身(しん)、意(い)があり、これらの六根の各器官には、好(こう。気持ちが良い)、悪(あく。気持ちが悪い)、平(へい。どちらでもない)という3つの人間の心の状態が反映されていると考えられています。ですから、煩悩の数は6✕3で18種類ということになり、更に上記3つの心の状態は、浄(じょう。きれい)、染(せん。きたない)の2種類に細分化されます。つまり、煩悩の数は18✕2=36種類となります。更に人は転生するので、36の煩悩は前世・今世・来世と変化し、36✕3=108種類となるのです。
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【一年間を表す説】
月の総数(12)と二十四節気(24)及び七十二候(72)を加算した数が108となることが由来とされています。
二十四節気というのは、春(立春、雨水、啓蟄、春分、清明、穀雨)、夏(立夏、小満、芒種、夏至、小暑、大暑)、秋(立秋、処暑、白露、秋分、寒露、霜降)、冬(立冬、小雪、大雪、冬至、小寒、大寒)の4つの季節をそれぞれ6つの分けた、4✕6=24の期間です。そして七十二候は、二十四節気を約5日ずつ3つの期間に分け、24✕3=72となり、12+24+72=108となる訳なのです。
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四苦八苦を表す説

四苦八苦を取り払うという説もあり、4×9+8×9=108ですね。因みに、四苦八苦における「苦」というのは「苦しみ」ではなく「思うようにならないこと」を意味し、生・老・病・死の四苦を根本的な苦とし、更に、愛別離苦(あいべつりく。愛する者と別離すること)、怨憎会苦(おんぞうえく。怨み憎んでいる者に会うこと)、求不得苦(ぐふとくく。求める物が得られないこと)、五蘊盛苦(ごうんじょうく。五蘊、人間の肉体と精神が思うがままにならないこと)の4つの「思うようにならないこと」を加え、全部で八苦と呼ばれています。

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色々な理由から除夜に108つ鐘をつく訳ですが、新しい年を迎えるぎりぎりに煩悩を払い落としすっきりして迎春しようというのでしょうか。これって節季仕舞のように、その年一年の決算を済ますようなものなのか・・・と思てましたが、本来は毎朝夕108つ鐘をつかなアカンのやったそうです。

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江戸中期の禅宗用語辞典『禅林象器箋』に「仏寺朝暮ノ百八鐘、百八煩悩ノ睡ヲ醒ス」とあり、寺の百八の鐘は毎日の朝暮の鐘のことだったようです。それがどんな理由からか(怠慢からか?)除夜だけ百八鐘を撞くようになったのは、江戸後期からだとか。このことを私は『増殖する俳句歳時記』なるHPで知りました。
そのHPで小笠原高志さんという方が、江戸文学の泰斗で西鶴研究の第一人者で、暉峻康隆(てるおかやすたか。写真下)さんの除夜の鐘の句について述べておられます。
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百八は ちと多すぎる 除夜の鐘

というのが暉峻さんの句ですが、米寿の頃詠まれたそうで、「実感である。煩悩を根こそぎ清算されると、いくら因業爺でも来る年が淋しい。」と添え書きされ、更に、

新しき 煩悩いずこ 除夜の鐘

で締めておられます。いゃあ、暉峻さんは88歳にしてまだまだ人間味溢れるお方だったのですね。ワタシなんか77歳にして煩悩が早よ無くなったらええのに・・・と思いますから、少しは枯れかかっているのでしょうか。

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それはさておき、『増殖する俳句歳時記』に清水哲男さんと仰る方が、山口青邨さん(写真上)の割と知られている除夜の鐘の句、

おろかなる 犬吠えてをり 除夜の鐘

についてコメントされていますので、シェアさせて貰います。

時ならぬ深夜の鐘の音に、びっくりした犬が吠えている。いつまでも吠えたてている。その犬を指して、作者は「おろかなる」と言ったわけだが、しかし、この「おろかなる犬」は単純に「馬鹿な犬め」ということではないだろう。ただ、犬は人間世界の事情を解していないだけのことなのであって、彼にとっては吠えるほうが、むしろ自然の行為なのだ。そんなことは百も承知で、あえて作者が「おろか」と言っているのは、むしろ犬の「おろか」を羨む気持ちがあるからである。「おろかなる犬」なのだから、人間のように百八つの煩悩などはありえない。ありえないから「除夜の鐘」などはどうでもいいのだし、はじめから理解の外で生きていられる。だから、素朴に驚いて吠えているだけだ。ひるがえって、人間はなんと面倒な生き方をしていることか。犬のごとくに「おろか」ではないにしても、犬よりももっと「おろか」に生きているという認識が、除夜の鐘に吠える犬に触発されて出てきたというところ……。静かに句を三読すれば、句の奥のほうから、除夜の鐘の音とともに犬の吠える声が聞こえてくる。このときにほとんどの読者は、句の「おろかなる犬」にこそ好感を抱くだろう。

この論評にワタシも概ね納得です。犬は人間のように怒りや憤りや儘ならぬこの世の愚痴など煩悩を、脳内でぐちゃくぢゃ繰り返し増幅することなくすぐ忘れ去ることが出来、禅的生き方をしているそうですから。

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しかし、わが家の愛犬スオミくん(写真上)は、耳をつんざくような雷鳴にも全く反応せず何処吹く風ですから、多分除夜の鐘にも無関心だと思います。一度スオミに除夜の鐘を聞かせてみたいものです。と言いますのは、わが家には除夜の鐘が聞こえてこないのです。以前西宮に住んでいた時は、近くの山麓にある神呪寺(かんのうじ)の鐘が鳴っていて、それを聴きながらその年ひととせを回顧していたのです。
でも今は、わが家から歩いて15分くらいの所に、通称聖天さんと言われる東寺派真言宗の七宝山了徳密院があるのですが・・・。高浜虚子の句にあるように、

町と共に 衰へし寺や 除夜の鐘

なのでしょうか。あ、師(坊さん)も走るせわしない年の瀬なのに、結構長くなってきましたので、除夜の鐘の句を検索していて、心に残った2句を掲載させて頂き、今年最後のブログを締めくくりたいと思います。
今年一年、有り難うございました。

おんおんと 被爆地渡る 除夜の鐘 小谷一夫
除夜の鐘 看取り日誌の 筆をおく  正木光子

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袖振れ合うも多生の縁364~平成の田中正造とも言える山本太郎さんの『れいわ新撰組』に注目しています!~

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日本を守る、とは
あなたを守ることから始まる。

あなたを守るとは、 あなたが明日の生活を心配せず、人間の尊厳を失わず、
胸を張って人生を歩めるよう全力を尽くす政治の上に成り立つ。

あなたに降りかかる不条理に対して、
全力でその最前に立つ。
何度でもやり直せる社会を構築するために。

20年のデフレで困窮する人々、
ロスジェネを含む人々の生活を根底から底上げ。
中卒、高卒、非正規や無職、障害や難病を抱えていても、
将来に不安を抱えることなく暮らせる社会を作る。

私たちがお仕えするのは、
この国に生きる全ての人々。

それが、
私たち「れいわ新選組」の使命である。

これが「れいわ新撰組」結党の決意です。
「日本を守る」とは、「外国の侵略から我が国の国民、財産及び領土(領海・領空を含む)を守る事」と言われています。でも、先の戦争ではそうではなかった!いや、今もそうかも知れません。自衛隊という名のわが国の軍隊の、第12代陸上幕僚長にして第10代統合幕僚会議議長であった栗栖 弘臣(くりす ひろおみ)氏は、栗栖弘臣.jpg
「自衛隊は国民の生命、財産を守るものだと誤解している人が多い。政治家やマスコミも往々この言葉を使う。しかし国民の生命、身体、財産を守るのは警察の使命であって、武装集団たる自衛隊の任務ではない。自衛隊は国の独立と平和を守るのである。警察法と自衛隊法に書いてある。『国』とは、わが国の歴史、伝統に基づく固有の文化、長い年月の間に醸成された国柄、天皇制を中心とする一体感を享受する民族、家族意識である。決して個々の国民を意味しない」
と著書に明記しています。ここまで断言しなくても、多くの政治家たちや幹部自衛官は、似たり寄ったりの考えなのではないでしょうか。
この国を牛耳る人達が右へ右へと草木も靡く、そんなヤバイ(本来の意味での)危険極まりない時代にあって、<日本を守る、とはあなたを守ることから始まる>と冒頭で断言されている大胆さに、まさに感嘆したのであります。そして、7月の参院選挙で重度障害者の方を見事に当選に導いたのです。ふなごやすひこ氏.png

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今まで重度障害者の方が議員に選出されたことはありませんし、多分立候補されたこともなかったのではないでしょうか。何たる快挙!!
結党の決意に「中卒、高卒、非正規や無職、障害や難病を抱えていても、将来に不安を抱えることなく暮らせる社会を作る。」と宣言されていることの第一歩を踏み出されたのです。そして傷害物だらけだった議場のバリアフリー化が早速始まりました。
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又木村英子議員は、重度訪問介護の早急な見直しに関する質問主意書を参議院に提出しました。
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現行の重度訪問介護制度では、経済活動が除外されている、つまり仕事に関する介護費用は公的負担ではないので、木村議員の議員活動に対する介護費用は自分で負担しなければならないのです。参議院は、木村議員の議員活動介護費用は参議院で負担するとしていますが、これに対し木村議員を特例とするのではなく、すべての重度障害者が仕事する場合の介護費用を公的負担にすべきであるとの主意書を提出したのです。
これに対する答弁書は、検討中とのことですが、政治に於ける検討中とは検討するだけで改善しないという意味だそうですが、早急に改善、実施して欲しいものです。
処で、プレジデントオンライン編集部 2019/07/29のmsn ニュースによりますと・・・
安倍晋三首相は、早ければ今秋にも衆院解散する選択肢を持っていたが、今は「来年の五輪後」に傾いてきた。これは「れいわ」の実力を慎重に見定めようという判断によるものだという。「1強」が、たった2議席の新政党におびえていているのか。参院選で「れいわ」が獲得したのはわずか2議席だが、安倍氏はその存在感を過小評価していない。特に都市部での爆発力には脅威を感じているのだ。例えば東京都では、比例代表で「れいわ」は45万8151票獲得した。これは日本維新の会の47万9908票とほぼ同じ。社民党はもちろん、国民民主党よりも多い。もはや主要政党と言っていい。今の勢いのまま衆院選に突入したら「れいわ」は、無党派の若者層から大量得票して多くの議席を獲得する。その場合、最近の選挙では若者層の支持が高い自民党に対する影響は甚大だ。
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成る程、憲法改悪を何としても成し遂げたいアベソーリとしては、衆院選は五輪後にせざるをえませんわな。国威発揚の五輪後の衆院選まで、政界の闇にうごめく輩は山本太郎さんを、れいわ新撰組を失脚させるべく、スキャンダル探しに躍起となっていることでしょうね。姑息な手段で折角芽生えた弱者の為の政治の流れを途絶えさせないよう願うばかりです。共同通信の世論調査では、れいわ新選組の政党支持率が4・3%で参院選結果を受けて実施した7月の前回調査から2・1ポイント増え、野党では第1党の立憲民主党に次ぐ支持率で共産党に並んでいます。れいわの支持層を年代別で見ると、若年層(30代以下)が7・4%、中年層(40~50代)は4・6%、高年層(60代以上)は1・9%ですから、未来を担う人たちの為に、現在は負け組に甘んじている人たちや弱者を余儀なくされている人たちの為、希望の党のようにぽしゃらないで貰いたいものです。

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袖振れ合うも多生の縁363~今日12月14日は赤穂浪士討ち入りの日ですが、では12月10日は何の日かご存じでしょうか?~

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12月14日、1702年元禄15年のこの日に47士が吉良屋敷に討ち入りし主君の仇討ちを成し遂げたのは皆さん、ご存じですよね。そやけど12月10日ちゅうのは何の日やろか? それに山本太郎議員の写真がドカンと写されてるのはどういうこっちゃ???
PCで<今日は何の日>を調べてみると、「ノーベル賞授賞式」や「三億円事件の日」なんかが載ってました。あ、そうそう「世界人権デー(Human Rights Day)」なんてのもありました。
処で、世界人権デーは、1950(昭和25)年の国連総会で制定された国際デーの一つで、1948(昭和23)年のこの日、パリで行われた第3回国連総会で「世界人権宣言」が採択されたのです。
「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。」で始る全30条と前文からこの宣言はなっているのですが、この宣言がもっと前に、50年以上前に採択されていて且つ日本政府が遵守していたら、1901年(明治34)12月10日に元衆議院議員田中正造氏(写真下)が明治天皇に直訴するなんてこともなかったでしょうね
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いえ、今でも日本政府は人権を遵守しているとは必ずしも言い難い部分もありますから、2013年10月31日に山本太郎参議院議員(現在は元参院議員)は秋の園遊会で平成天皇に直接手紙を手渡したのでしょう。朝日新聞デジタル版によりますと、手紙の内容は、「原発事故での子どもたちの被曝や事故収束作業員の劣悪な労働環境の現状を知ってほしかった。」と山本議員は記者団に説明した由。

『れいわ新撰組』党首の山本太郎さんが話題になったのは7月の参院選挙ですから、数ヶ月後の今頃取り上げたのは、天皇陛下への直訴つながり、田中正造さんがらみなのであります。
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処で田中正造(敬称略)が明治天皇に直訴したのは、足尾鉱毒事件についてですが、この事件って名前は記憶しているものの、よく知らないのでWikipediaで検索してみました。その説明を要約しますと・・・足尾銅山は江戸時代から採掘されていたが、幕末には殆ど廃山状態となり、明治維新後民間の古河市兵衛に払い下げられ、古河が採鉱事業の近代化を進めた結果、大鉱脈を発見し足尾銅山は日本最大の鉱山となり、東アジア最大規模の銅の産地となりました。しかし精錬時の燃料による排煙や、精製時に発生する鉱毒ガス(主成分は二酸化硫黄)や排水に含まれる鉱毒(主成分は銅イオンなど金属イオン)は甚大な鉱毒公害ををもたらしたのです。鉱毒毒ガスやそれによる酸性雨で近辺の山は禿げ山となり、木を失い土壌を喪失した土地は次々と崩れ、この崩壊は21世紀となった今も続いているのです、嗚呼!

現在も続いているなんて知りませんでした!(下の写真は2005年3月撮影)

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鉱毒による被害はまず、渡良瀬川の鮎の大量死という形で現れ、次に渡良瀬川から取水する田園や、足尾から流れた土砂が堆積した田園で、稲が立ち枯れるという被害が続出し、これに怒った農民らが数度にわたり蜂起したのですが、田中正造はこの時の農民運動の中心人物なのです。又、この鉱毒被害は渡良瀬川流域だけにとどまらず、 江戸川を経由し行徳方面、 利根川を経由し霞ヶ浦方面まで拡大し、田畑への被害は、特に明治23年8月と29年7月21日、8月17日、9月8日の4度もの大洪水で顕著となり、明治34年には足尾町に隣接する松木村が煙害のために廃村となり、松木村に隣接する久蔵村、仁田元村も前後して廃村となったのです。

公害対策工事は明治30年頃から行われ、表だった鉱毒被害は減少したものの、渡良瀬川に流れる鉱毒がなくなったわけではなく、渡良瀬川から直接農業用水を取水していた群馬県毛里田村とその周辺では、大正期以降逆に鉱毒被害が増加し、以後も昭和になった1971年(昭和46年)には毛里田で収穫された米から カドミニウムが検出され出荷が停止さました。古河鉱業はカドミウム被害を認めていませんが、群馬県はこれを断定しているのです!

又明治に戻りますが、農民の鉱毒反対運動が激化し、明治33年(1900年)2月13日、陳情団が東京へ押しかけようとしたところ警官隊と衝突し流血の惨事に至り、農民多数が逮捕されました。

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田中正造は、度々国会で足尾鉱毒について糾弾したのですが、埒があかず、明治34年(1901)12月10日、東京市日比谷において帝国議会開院式から帰る途中の明治天皇に直訴に及んだのです。しかしながら警備の警官に取り押さえられ、直訴そのものは失敗したものの大騒ぎになり、号外も配られるに及び、直訴状の内容は広く知れ渡りました。直訴状は幸徳秋水が書いたものに田中が加筆修正したと伝えられています。直訴未遂の結果、田中は即拘束されましたが、政府はこの件を何事もなかった如く葬る為、単に狂人が馬車の前によろめいただけだと不問にし、正造は即日釈放されたのです。

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上の写真は、田中正造直訴を報道する明治34年12月12日の野州日報ですが、12月11日の都新聞には下記のように報道されています。
 
「◎田中正造氏直訴彙報・・・・・▲現場の模様 大要号外に記しし如くなるが、なお其の詳細を記さんに氏が群衆中より?簿に向かって進むときはさすが恐?に堪えざりけん。気のみ焦りて足の進み意の如くならざるものの如く見えしが、真っ先にこの状を認めたる儀仗兵中の近衛騎兵連隊附陸軍騎兵特務曹長勲八等伊知地李盛氏は?剣を振り翳して氏の御馬車に近寄るを遮らんとしたるも乗馬逸して意の如くならざりしにぞ田中氏はこの隙に乗じて益々御馬車に接近せんとする際御道筋警戒中なりし麹町警察署の尾川彦二郎、高木八五郎の二巡査馳せ付け尾川巡査は氏を後方より抱き高木巡査は襟髪を捉え協力して一旦地上に引き倒し直ちに応援の警部巡査等と共に周囲より厳重に警戒して虎ノ門内派出所へ引致せり。
▲引致後の模様・・・・・派出所にては単に宿所氏名等を訊問せしのみにて間もなく氏を人力車に乗せ警部巡査四名付き添い麹町警察署へ拘引したるも拘留所へは入れず唯応接室の椅子によらしめ数名の巡査をして監視せしめ置き午後一時より石黒警部を立ち会わしめ同署長村島警視自ら訊問に着手せしが午後五時に至るまで引き続き取り調べ中にてその結了を告げるは十一時ごろならんとのことなりき。当日は川淵東京地方裁判所検事正も羽佐間検事を従え午後一時より三時まで同署へ出張して実況を視察せり。

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そして田中正造直訴から112年後の10月31日、山本太郎参議院議員(当時)が天皇陛下に直訴、いえ、直接手紙を手渡したのです。
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何故「直訴」を「手紙を手渡した」と書き直したのかと言いますと、『HUFFPOST』(2013・10・31)に、<請願法第3条には「天皇に対する請願書は、内閣にこれを提出しなければならない」と定められているので、もし山本太郎氏の手紙が「請願」に当たる場合には違法である可能性もネット上では指摘されている>と書かれているからです。単にご機嫌伺いのような挨拶的な親書であれば、問題ないのでしょう。又『朝日新聞』2013年11月1日付によれば・・・
参院議院運営委員会の岩城光英委員長(自民党)は1日、山本太郎参院議員(無所属)が10月31日の園遊会で、天皇陛下に手紙を手渡したことに対し事情を聴いた。山本氏は聴取後、記者団に「マスコミが騒ぐことによって政治利用にされてしまう。政治利用なら手紙の内容を公開するはずだが、一切していない。個人として陛下に子供たちの健康被害や被曝(ひばく)労働者の切り捨ての実情を伝えたかっただけだ」と、政治利用との指摘を強く否定した。ただ、「ルールを知らずにお手紙を渡したことは事実。そのことに関する議会のお沙汰が出た時には受け止めるしかない」と述べ、同理事会が処分などの決定を出した場合は従う意向を示した。
そして、菅義偉官房長官は今回の山本太郎氏の行動について、以下のようにコメントしています。
「文書はそばにいた侍従長が預かった。内容は聞いていない。」
このコメントは、山本議員の文書は陛下に伝わっていないし、政府もその文面が請願に該当するか分からないので不問にする・・・ということを意味しているのでしょうね。なんだか田中正造の時の、<単に狂人が馬車の前によろめいただけだ>から不問にするという対応と似ていませんか?

処で、山本議員の手紙を受け取られた陛下は、この手紙をお読みになりたかったのかどうか。陛下のお気持ちを知るすべはありませんが、その後の陛下の私的ご旅行が私には些か気になるのです。同じ年の11月14日付け時事通信社の記事によりますと・・・
宮内庁の風岡典之長官は14日の定例記者会見で、秋の園遊会で天皇陛下に直接手紙を渡した 山本太郎参院議員について、刃物が入った封筒が同議員宛てに届いたとの新聞記事を見た陛下が心配されていることを明らかにした。
とのこと。そして5月21日の『朝日新聞』夕刊によりますと・・・
天皇,皇后両陛下は21日,東北新幹線で栃木県入りした。同日午後,足尾鉱毒事件の舞台となった渡良瀬遊水地などを訪問。22日には日光市で,足尾銅山の煙害により木々が枯れた松木渓谷などを視察する。

この記事に関する『社会科学者の随想』というブログによりますと・・・
この記事の中身は,明治帝政が日本の国土を破壊していった典型的な実例である足尾鉱毒事件の歴史に対して,現在の天皇家がわざわざ並々ならぬ関心を抱いているというものである。明治以来の日本帝国が武力でもって東アジア諸国を侵略するさい,兵器・武器の製造において重要な鉱物となる銅を採掘・精錬するための鉱山・工場が足尾にあったのである。
又『朝日新聞』2014年5月23日朝刊の報道によりますと・・・
天皇,皇后両陛下は22日,1泊2日の日程で訪れた栃木,群馬両県訪問を終えて帰京した。両陛下が自然の再生に関心を寄せつづけていることが発端となって実現した私的な旅行。栃木県では,足尾銅山跡付近の山々や,田中正造ゆかりの佐野市など「日本最初の大規模公害」とされる足尾鉱毒事件の舞台をめぐった。
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「この赤いのが訂正ね」。天皇陛下は佐野市郷土博物館(写真下。館前に佇むのは田中正造の像)で田中正造が明治天皇に宛てた直訴状を前にメガネをかけ、赤い訂正印が各所に押された推敲の跡を確かめるように見入った。正造が直訴を試みてから113年。説明役の山口明良館長は「一文字一文字を追っていらした。明治天皇が目にしなかった直訴状をみてもらい,感慨深いものを感じます」と言う。
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足尾鉱毒事件の舞台をめぐられ、田中正造の直訴状に大いに関心を寄せられた陛下は、山本太郎参院議員に手渡された福島原発被害者を思いやる手紙を開封し、文書を一読してみたいとお思いになっておられたのではないか・・・などと私は推測してしまうのですが、如何なものでしょうか。
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  山本太郎議員を如何に思うかは黙して語らぬ田中正造の像


袖振れ合うも多生の縁362~高田茜さんと平野亮一さんって、凄いバレーダンサーですね!~

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今年も慌ただしい師走ですが、にも拘わらず顔中口にして笑っている(?)のは、英国ロイヤルバレエ団のドップダンサー、ブリンシパルである高田茜さんです。先日同バレエ団の「ロミオとジュリエット」を見た、と言ってもTVでなんですが、とても感動しましたので、高田茜さんについて書きたくなったという訳なのです。

Wikipediaによりますと、高田茜さんは東京都葛飾区出身で、3歳の時高橋洋美バレエスタジオでバレエを習い始めたのですが、高田をプロ入りまで指導した高橋さんによれば、おっとりとしたやさしい少女で、天性バレエの素質があったとか。そして1999年2月小学2年の時、日本バレエ協会主催の 『ドン・キホーテ』 公演で子役のキューピッドの一人として出演し、この公演の主役吉田都さんに彼女は憧れたとか。そして2006年1月、中学3年の時NBA全国バレエコンクールで審査員特別賞を受賞し、チャコット提供の奨学金で同年9月からモスクワのボリショイ・バレエ学校に留学したのです。ボリショイ在学2年目の2008年2月、17歳の時ローザンヌ国際バレエコンクールに出場し、プロ研修賞と観客賞を受賞。研修先としてロイヤル・バレエ団を選び、同年9月に研修生として入団。2009年9月にアーティストとして正式に入団し、2010年秋にファースト・アーティスト、2011年秋にソリストに昇格。2014年のシーズン終了後にファースト・ソリストに昇格。2015年3月には 『白鳥の湖』 の主役オデット/オディールを、翌2016年3月『ジゼル』 の主役(写真下)を踊り、シーズン終了後プリンシパルに見事昇格されたのです。
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処でプリンシパルというのは、元々は英語圏のバレエ団において主役級のダンサーを指す言葉だったのですが、その後広まり世界的に使われるようになっています。バレエ団によってはファーストソリストやエトワール、プリマバレリーナとも言うそうです。普通、世間では主役を踊る女性バレエダンサーをプリマと呼んでいて、プリマの方が馴染みのある言葉ですよね。因みに英国ロイヤルバレエ団のランクは、①プリンシパル ②プリンシパル・キャラクター・アーティスト ③ファースト・ソリスト ④ソリスト ⑤ファースト・アーティスト ⑥アーティストの6段階で、正団員100名をこえる中、プリンシパルは20名弱で、まさに文字通りトップアーティストなのです。

平野亮一2.jpg右の写真も英国ロイヤルバレエ団のブリンシパル、平野亮一さんですが、平野さんは高田茜さん(ジュリエット役)の相手役ロミオで、茜さんと日本人同士が主役の作品を、生でなく録画とはいえ見ることが出来たのはとても幸いでした。
平野さんは尼崎市出身で、4歳よりお母さんの平野節子さんのもとでバレエを始め、2001年ローザンヌ国際バレエコンクール・プロ研修賞を受賞し、英国ロイヤルバレエ団研修生となり、2002年英国ロイヤルバレエ団に入団。2007年ファーストアーティスト、2008年ソリスト、2012年ファースト・ソリスト、2016年プリンパルに昇格されています。
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2016年9月に、お二人は同時にブリンシパルに昇格なさっています。
この快挙は1990年代に熊川哲也さんと吉田都さんがプリンシパルに就任されて以来だそうです。
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左の写真は熊川さん、下の写真が吉田さんですが、茜さんは小学校の頃『ドン・キホーテ』で一緒に舞台を踏み、憧れた偉大なバレリーナ、吉田都さんと同じボジション、世界3大バレエ団の一つである英国ロイヤルバレエ団のプリンシパルという地位にまで17年かけて辿り着き、万感胸に迫るものがあったでしょうね。
吉田都2.jpg何故そう思うかというと、茜さんはボリショイ・バレエ学校で学んいる時も、「物語バレエを踊りたい!」と英国ロイヤルバレエでの活躍を熱望していたそうですから。望めばに叶うと言うものの、実現してしまうとは!

さて、肝心の『ロミオとシュリエット』ですが、演劇性の高いバレエを踊りたいと熱望し、ローザンヌのプロ研修賞獲得を契機に、演劇の伝統色濃いイギリスのバレエ団の本拠に入団し、プリマに上り詰めた高田茜さんだけあって、さすが流石、マイムだけでなく振りのひとつひとつにもジャリエットの愛の言葉が、心のささやきが感じられ、私は、茜さんのマイムや振りに合わせて我知らず台詞を口ずさんでおりました!
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そして、彼女の踊りに対する形容として英国では、しばしば<輝き (sparkle)> という賛辞が用いられていますが、まさにSparklingだったのです!そんな茜さんの輝きの画像をもっとお見せしたいのですが、著作権に守られていてそうもいかないので・・・残念です。
そして最後に、7月の参院選挙で少しばかり話題になった、『N国』の主張するようにスクランブル放送になっても、こんな素晴らしい作品を放送し続けるのなら、私は受信料を払いますよ。(でも忖度された報道は大いに問題ありですが)
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それからもうひとつ、同番組で放送された平野亮一さん主役の『フランケンシュタイン』も凄かったことを書き加えておきます。
ではでは。