袖振れ合うも多生の縁369~知恩院の七不思議ってご存じですか?~

知恩院全景1.jpg
知恩院全景2.jpg
毎月25日は法然上人の祥月命日なので、先月25日に浄土宗総本山の華頂山知恩院にお詣りし、一月遅れですが、そのことを書こうと思います。月命日にお詣りするなんて、えらい信心深いと思われるかも知れませんが、実は知恩院の七不思議と言われているものを見てみたかったからなのです。では、その七不思議を見た順にご案内しましょう。

知恩院境内案内図1.jpg
先ず、案内図の右下、円山公園側から入り直進し、黒門への登り口の路上にある<瓜生石>へ。
瓜生石.jpg
《七不思議7 瓜生石 -はげみー》
黒門への登り口の路上にある大きな石は、知恩院が建立される前からあると言われ、周囲に石柵をめぐらしてあります。この石には誰も植えた覚えがないのに瓜の蔓が伸び、花が咲いて瓜が青々と実ったという説と、八坂神社の牛頭天王が瓜生山に降臨し、後再びこの石に来現し一夜の内に瓜が生え実ったという説が伝えられています。また石を掘ると、二条城まで続く抜け道がある、隕石が落ちた場所である等、様々な話が言い伝えられている不思議な石です。

この解説は知恩院のHPからシェアさせて頂きました。誰も植えないのに瓜がはえて、茄子が実ったら、もっと不思議やのに・・・なんてしょーもないことを思いつつ、山門前からシャトルバスで御影堂まで乗りました。ホンマは歩いた方がえゝのにね。

工事中御影堂.jpg
御影堂1.jpg
御影堂は平成大修理中で、見ることが出来ず、残念無念、ラムネンサイダーなんて子供の頃言うてたのを思い出しました。閑話休題で、七不思議のひとつ、御影堂の軒裏にある忘れ傘も見ることはあたわずでした。

御影堂忘れ傘.jpg
《七不思議3 忘れ傘 ―知恩・報恩ー》
御影堂正面の軒裏には、骨ばかりとなった傘がみえます。当時の名工、左甚五郎が魔除けのために置いていったという説と、知恩院第32世の雄誉霊巌上人が御影堂を建立するとき、このあたりに住んでいた白狐が、自分の棲居がなくなるので霊巌上人に新しい棲居をつくってほしいと依頼し、それが出来たお礼にこの傘を置いて知恩院を守ることを約束したという説とが伝えられています。いずれにしても傘は雨が降るときにさすもので、水と関係があるので火災から守るものとして今日も信じられています。

修理中の御影堂を後にし、右手の阿弥陀堂(写真下)の外観を眺めつつ直進し、武家門をくぐり法然上人御堂(写真下の下)に。

阿弥陀堂1.jpg
法然上人御堂1.jpg
そして、法然上人御堂をつつと通り抜け、方丈庭園へ。庭園の景観を眺めるのもそこそこに、一目散に七不思議の展示へ急いだのであります。

方丈庭園1.jpg
方丈庭園図1.jpg
七不思議の展示案内板.jpg
案内にざっと目を通し、鶯張りの廊下へ。

鶯張り廊下1.jpg
鶯張り廊下2.jpg
鶯張り廊下裏側.jpg
           上の写真は鶯張り廊下の裏側

《七不思議1 鴬張りの廊下 -仏の誓いー》
御影堂から集会堂、大方丈、小方丈に至る廊下は、全長550メートルもの長さがあります。歩くと鶯の鳴き声に似た音が出て、静かに歩こうとするほど、音が出るので「忍び返し」ともいわれ、曲者の侵入を知るための警報装置の役割を担っているとされています。また鶯の鳴き声が「法(ホー)聞けよ(ケキョ)」とも聞こえることから、不思議な仏様の法を聞く思いがするともいわれています。

成る程、忍び足で歩いても音がするのです。知恩院さんのHPには、<鶯の鳴き声が「法(ホー)聞けよ(ケキョ)」とも聞こえることから、不思議な仏様の法を聞く思いがするともいわれています。>と書かれています。しかし、この廊下を歩いた時にする音が、「ホー、ケキョ」と聞こえるのなら、不思議な仏様の法(のり)を聴いたとも言えるのですが、ワタシには、足音は鶯の鳴き声のようには聞こえませんでした・・・。

抜け雀1.jpg

《七不思議4 抜け雀 ―心をみがくー》
大方丈の菊の間の襖絵は狩野信政が描いたものです。紅白の菊の上に数羽の雀が描かれていたのですが、あまり上手に描かれたので雀が生命を受けて飛び去ったといわれています。現存する大方丈の襖絵には飛び去った跡しか残っていませんが、狩野信政の絵の巧みさをあらわした話といえるでしょう。

雀の飛び去った跡しか残っていないと書かれていますが、ワタシにはその跡が何処なのか、よく分かりませんでした・・・

真向きの猫1.jpg

《七不思議5 三方正面真向の猫 -親のこころー》
方丈の廊下にある杉戸に描かれた狩野信政筆の猫の絵で、どちらから見ても見る人の方を正面からにらんでいるのでこの名があります。親猫が子猫を愛む姿が見事に表現されており、親が子を思う心、つまりわたしたちをいつでもどこでも見守って下さっている仏様の慈悲をあらわしています。

ワタシは猫派やのうて犬派なので・・・


大杓子1.jpg


《七不思議6 大杓子 -仏のすくいー》
大方丈入口の廊下の梁に置かれている大きな杓子です。大きさは長さ2.5メートル、重さ約30キログラム。このような大杓子はあまりないところから、非常に珍しいものとしてこんにちでも拝観の方が見上げます。
伝説によると三好清海入道が、大坂夏の陣のときに大杓子をもって暴れまわったとか、兵士の御飯を「すくい」振る舞ったということです。
「すくう」すべての人々を救いとるといういわれから知恩院に置かれ、阿弥陀様の慈悲の深さをあらわしています。

こんな大杓子なら、悪人も善人も必ずや救って下さるでしょうね。そう安堵しつつ方丈を出て、勢至堂・千姫のお墓・濡髪大明神・御廟・経蔵・大鐘楼・友禅苑と駆けめぐり、三門へ。

勢至堂1.jpg
千姫の墓.jpg
濡髪大明神2.jpg
御廟案内板.jpg
御廟1.jpg
経蔵1.jpg

大鐘楼1.jpg
方丈庭園1.jpg
山門1.jpg
そして、残る七不思議の一つである、白木の棺を見上げたのであります。

白木の棺1.jpg
《七不思議2白木の棺 -不惜身命ー》
三門楼上に二つの白木の棺が安置され、中には将軍家より三門造営の命をうけた造営奉行、五味金右衛門夫婦自作の木像が納められています。彼は立派なものを造るとを心に決め、自分達の像を刻み命がけで三門を造りました。やがて、三門が完成しましたが、工事の予算が超過し、夫妻はその責任をとって自刃したと伝えられています。この夫婦の菩提を弔うため白木の棺に納めて現在の場所に置かれ、見る人の涙を誘います。

瓜生石から白木の棺まで・・・というのは『能因も 草鞋胼胝には 気が付かず』であります! え、何のこっちゃ!? お分かり頂けませんか??? ほな、ぼちぼち説明させて貰いますわ。

1能因法師.jpg能因とは、納因法師のことで、貴族や武士、僧侶の間で和歌が流行った平安時代の中期の有名な歌人で、百人一首の「あらしふく 三室の山の もみぢばは 龍田の川の 錦なりけり」と「都をば、霞とともに 立ちしかど 秋風ぞ吹く 白河の関」が代表作でしょう。

この「都をば・・・」の歌を作った逸話ですが、彼は春に奥州に旅に行くと言って姿を消し、人里離れた山奥に隠遁し、太陽で肌を焼き晩秋に姿をあらわしたのです。そしてこの歌を人々に見せたとか。日焼けした肌であたかも長い旅から帰ってきたように装ったのです。
多分、能因は都でこの歌を思いつき、気に入ったのか、その為に一芝居打つたのですが、でも何ヶ月に及ぶ長い旅をすれば、日焼けに加えて草鞋だこが出来ることには気付かなかった・・・というのが、この川柳のイミするところなのです。
つまり、ワタシも又知恩院には詣でずに、このブログを書いたのであります。いゃあ、行くつもりだったのですが、御影堂の落慶法要が今春だと知り、ほな、春になってから行った方がええやんと思った次第なのです。それで能因法師の挿話を思い出し、一寸ふざけて書いてみたわけで、エライすんませんでした。
ではでは。

袖振れ合うも多生の縁368~与謝蕪村の句「菜の花や 月は東に 日は西に」と「菜の花の沖縄日記」のカンケーは?~

菜の花や1.jpg
菜の花の季節にはまだ早いのですが、春よこい、早く来いの心境なのでしょうか、ワタシのアタマに「菜の花や 月は東に 日は西に」という句が浮かんで来ました。いや、前回謡曲「羽衣」で満月のことを書いたから・・・というのもこの句を呼び起こした原因のひとつなのでしょうか。という訳で、今回のブログは「菜の花」2題です。先ず『菜の花 月は東に 日は西にの句ですが、この句は江戸時代の画家でもあり俳人でもある与謝蕪村によって詠まれました。
与謝蕪村1.jpg
安永3年(1774年)、蕪村が神戸市灘区にある摩耶山を訪れた時の句です。西の空に夕日が沈む頃、空は茜色に染まり、摩耶山から見下ろすと一面に黄色い菜の花、そして東の空を見やれば月がぽっかりとおぼろに浮かんでいる・・・こんな景色ほワタシはまだ見たことがないのですが、菜の花が咲いている春、東に月、西に夕日、月と太陽が共に見える状況は、一体いつ頃でしょうか。又、この月はどんなお月様なのでしょうか?
tenki.jpによりますと・・・

この句は、安永3年(1774年)3月23日に詠まれたといわれています。当時は旧暦でしたから、今の暦で考えると5月3日になります。しかし月の位置を詳しく調べてみると、この日には実際に、東に満月、西に夕日が見えてはいませんでした。菜の花が咲いている時期で、東に満月、西に夕日が見えるのは、旧暦の3月10日~15日くらい、今の暦でいくと、4月20日~4月25日となります。つまり、蕪村は実際に旧暦の3月23日に、東に満月、西に夕日を目にしてこの俳句を詠んだのではなく、その10日くらい前に見た光景を思い出しながら、3月23日にこの句を詠んだのではないかといわれています。(「日刊☆こよみのページ」2009/04/09号)

それから、この月についての説明もありました。それもシェアさせて頂きますと・・・

太陽が西に沈む夕暮れ時に、月が東に見えるということは、その月は満月です。つまり、地球を挟んで月と太陽が、ほぼ一直線に並んでいるということです。これは菜の花が咲く春だけでなく、雪が積もる冬でも、紅葉がきれいな秋でも言えることです。ただ、この3つの星がピッタリ一直線に重なってしまうと、月食になってしまいます。反対に、夕暮れ時に月が西に見えれば、それは三日月です。月も太陽も西の方角にあると、月の一部にしか太陽の光が当たらないので満月にはなりません。つまり、この句の月は満月ということになります。
菜の花やの月.jpg
ところでワタシは生まれも育ちも葛飾柴又・・・じゃなく神戸なんですが、摩耶山の麓に菜の花畑なんてありません。昔はあったんやろか? そう思い調べてみますと、摩耶山がある神戸市灘区では、昔は菜種油を生産するために菜の花が栽培されていたそうです。当時のこの地は一面の菜の花畑が美しかったとか。へぇ、そら知りませんでした。
さて、お次は「菜の花の沖縄日記」ですが、沖縄でも菜種油を栽培していて、この日記はその原料である菜の花の栽培記録・・・というのは真っ赤な嘘でありまして、菜の花というのはある女の子の名前なのです。下の写真は著書ですが、著者の坂本菜の花という名前は芸名ではなく本名だそうです。
菜の花さんと著書.jpg
菜の花の沖縄日記2.jpg
この本についてのあらましは、上の写真の帯を読めば、ほぼお分かり頂けますが、出版社ヘウレーカのHPによりますと・・・
ヘウレーカのマーク.png
「菜の花の沖縄日記」について書く前に、出版社の「ヘウレーカ」という社名をワタシは初めて目にしましたので、調べてみますと、同社の操業ご挨拶に・・・

2018年に創業したばかりの出版社です。社名のヘウレーカとは、古代ギリシアの科学者、アルキメデスが「アルキメデスの原理」を発見した際に叫んだことばといわれています。日本語にすると「あ、そうか」「わかったぞ!」という意味です。読書を通じて、そのような体験をしてもらいたい、という思いをこめてこの名前をつけました。「あ、そうか」の前には問いがあります。一人ひとりがそれぞれの問いについて考え、それをだれかと自由に共有できる社会、一人ひとりの問いが大事にされる社会。そんな社会であるために、小社は、さまざまないと発見、人々の対話を生みだすきっかけとなるような本をていねいにつくっていきたいと考えています。

と書かれていました。「ヘウレーカ」ってギリシャ語だったんですね。この創業趣旨はまさにワタシにとって「ヘウレーカ!」です。そして「菜の花の沖縄日記」は、様々な問いと発見をもたらしてくれると思いますので、同著についてヘウレーカ社のHPをシェアさせて頂きます。

高校生になったら沖縄で暮らしてみたい。
そう考えた少女、坂本菜の花は、15歳で故郷・石川県を離れ、ひとり沖縄にやってきました。
高校は無認可学校「珊瑚舎スコーレ」。
クラスメートがお互いをサポートしあい、ともに成長する場が学校、教員はその手助けをする存在。そんな教育方針を掲げる珊瑚舎で、彼女はさまざまな人に出会い、経験を積み重ねていきます。

ユニークな授業、併設する夜間中学に通うおじいさん、おばあさんとの交流、街で出会った人との何気ない会話。そんな日常を楽しみながら、しかし一方で、基地のある島、地上戦のあった島ゆえの現実にも真正面から向き合い、自分には何ができるのかを深く考えます。その貴重な記録が本書です。

本書のもとになっているのは、北陸中日新聞で2015年4月~2018年3月まで31回にわたって連載された「菜の花の沖縄日記」。それに卒業後の文章3本と、珊瑚舎スコーレの星野校長、遠藤事務局長との座談会を加えて1冊にまとめました。

「菜の花の沖縄日記」は連載時から静かな反響をよんでいましたが、あるとき、沖縄テレビのディレクターの目に留まります。沖縄の基地問題をこれまでとは異なる方法で伝えたいと考えていたディレクターは、彼女を主人公にドキュメンタリー番組「菜の花の沖縄日記」を制作。その番組は「地方の時代映像祭2018」のグランプリに輝き、全国でも放送され、話題となりました(映画化され、2020年2月に沖縄で、4月には東京で、その後順次、全国公開の予定です)。
それと同時に、この原作である北陸中日新聞の「菜の花の沖縄日記」にも注目が集まり、書籍化を待ち望む声が多数あがりました。

日記に出てくる沖縄の歴史や言葉、時事的な問題については注もつけました。
沖縄にはじめてふれる人にとってもわかりやすい内容で、中学生、高校生、菜の花さんと同世代の若い人たちにもぜひ読んでほしい一冊です。

まえがき

Ⅰ 沖縄日記

目をひらいて、耳を澄まして

2015年4月~2016年3月
おじい、なぜ明るいの?
三線、もっと弾きたい!
一年の振り返りの日
悔しい、でも楽しい。ハーリーに燃えた6月
「がんまり」で生きていることを再確認
島を守る小さな叫び
辺野古きっと希望ある
戦争は、人を守らない
まだ見つかっていない家族の遺骨
海を越えて見えること
違う空気を吸って元気になる
昼の生徒と夜の生徒で作り上げた舞台
自分の核をつくりたい

2016年4月~2017年3月
アンテナを張って自分の場所で生きよう
なぜ、繰り返されるの?
お供えが並ばなくなったら……
必要とされる働き手になりたい
白装束を着て、神人になった夜
私の軸ってなんだろう?
月を見上げて生きよう
また、どこかで会おうね
あの世のお正月を体験
一緒につくることのむずかしさ
私と沖縄がつながった

2017年4月~2018年3月
記憶を風化させてはいけない
初めて知ったハーリーの醍醐味
どうすれば自分ごとにできる?
心地いい金細工の音、いつまでも
どう自立するか考える
どんな社会を望むの?
石垣のいま、耳傾ける旅へ
事故のたびに浮かびあがる現実
なぜ明るいのか、そのわけ

Ⅱ  沖縄を離れてからも

追悼 翁長雄志さん
辺野古で涙がとまらなくなった
あなたもわたしも無力じゃない

Ⅲ 珊瑚舎スコーレゆんたく  星野人史×遠藤知子×坂本菜の花
学校は一つの文化。それを体験することによって
人間が解放されていく。そういう学校にしなくちゃいけない

著者について
坂本菜の花(さかもと・なのはな)。1999年、石川県珠洲市生まれ。中学卒業後、沖縄の無認可学校「珊瑚舎スコーレ」に進学。2018年3月卒業。現在は実家の宿を手伝う。ときどき家出してあちこち訪ね歩く。好きなことは畑作業とつまみ食い。

これをお読み頂ければ、大体どんな本かお分かり頂けると思いますが、目次項目を赤字にした、<おじい、なぜ明るいの?><なぜ明るいのか、そのわけ>についてだけ、書き添えてみます。
坂本菜の花さんは、沖縄に住むようになり、先ずこう思ったそうです。
多くの人たちは、米軍基地のあることを必死に反対しているのに、全く聞き入れられないし、米軍関係の人間による犯罪など嫌なニュースが多いのにもかかわらず、出逢ったおじい達はよく冗談を言い、笑わせてくれるのです。どうしてこんなに明るくいられるんだろう? このことが不思議です。なぜだかわかりません。
そして3年後、菜の花さんはこう結論づけておられます。なせ明るいか。それは明るくないとやっていけないくらい暗いものを知っているから、だと思います。粘り強さには明るさと楽しさがくっついているんだと思います。
坂本菜の花さん2.jpg
19歳の菜の花さんが、このように感じた沖縄の暗さと明るさを、77歳のワタシもじっくり考えてもみようと思います。
学校で菜の花さんは下級生から菜あ姉(なあねえ)と呼ばれているそうです。

なあなあ(呼びかけ)なあねえ(菜あ姉)、ねえねえ(呼びかけ)なあねえ(菜あ姉)、なあなあ(適当)やのうて、ヤマトンチューのおじいもよーんなぐわぁ(ゆっくり)考えてみるさあ。にふぇーでーびる(ありがとう)。

袖振れ合うも多生の縁367~今宵は当年(とうのとし)初つの満月なれば、謡曲「羽衣」について蘊蓄をば傾けん~

満月1.jpg
今夜は今年初めての満月ですね。満月でワタシがふと思い出したのはお団子、いえ、謡曲の「羽衣」です。「羽衣」のあらすじは・・・

春のある日、漁夫白龍は三保浦で一枚の美しい衣を拾う。そこへ現れた持ち主の天女が衣を返してくれと言うが、天人の羽衣と知った白龍はこれを惜しみ返すのを渋る。天女は衣が無くては天界へ帰ることが出来ず、月の都を懐かしみ涙する。その姿に同情した白龍は、名高い“天人の舞楽”を舞うてくれるならと衣を返す。天女は羽衣を身にまとい、富士山を背に三保浦で天人の舞を舞い、円く丸く満ち翳ることのない望月を舞う天女は、人々の幸せを叶えようと数々の宝を降らせ、人と大地を祝福し天に帰り往くのでしした。

漁師白竜.jpg
羽衣の天女1.jpg
羽衣1.jpg
天女の舞1.jpg
処で、お能では、漁夫が天女に返している羽衣は上の3葉目の写真で分かるように、練色(ねりいろ。漂白する前の絹糸の色)のようですが、謡曲を読んでいるとその羽衣は黒衣であることが分かったのです。え、黒い羽衣!?
皆さん、一寸信じられないでしょうから、その部分の詞章を抜き書きしてみます。冒頭、ワキの漁夫白龍の名乗りは・・・
『これは三保の松原に。白龍と申す漁夫にて候。萬里乃好山に雲乍ちに起り。一樓の明月に・・・』
この頃は名月、つまり満月だったのですね。そして、その後シテの天女が現れ、漁夫に羽衣を返して欲しいと懇願するシーンなどあって・・・
地謡『白衣黒衣の天人の。数を三五にわかつて。一月夜々の天乙女。奉仕を定め役をなす。』(白衣と黒衣の天女がそれぞれ3×5=15人ずつ住み、交代で舞うことで月を満ち欠けさせている)
シテ『我も数ある天少女』(私もこの三十人の天人の一人です)
このように記されています。つまり、この天女は黒組で非番だったから、美保の松原に降りて来て、脱いだ黒衣の羽衣を漁夫に取られたのです。でも、白衣の羽衣を着た15人の天女が舞っているのが満月で、白衣14人黒衣1人、白衣13人黒衣2人、白衣12人黒衣3人・・・と順次交代していくにつれ月が欠けていくなんて、なんだかロマンチックですよね。
月の変化.jpg
下の写真のような新月になると、黒衣の天女達15人が舞っているという訳です。
新月1.jpg
新月2.jpg
この謡曲「羽衣」が出来たのは、多分鎌倉時代の末でしょうが、その時代に月の満ち欠けが28日でなく30日とされてたなんて、結構暦は進んでいたのですね。
満月5.jpg
満月4.jpg
満月3.jpg
さあ、今宵月をとっくりと眺め、白衣を纏うた天女たちが舞う姿を、眼(まなこ)で、いえ、心でイメージしてみましょう。ではでは。

袖振れ合うも多生の縁366~ハピバースデー、サーロー節子さん。そして夫君のジム・サーローさんは、私の心に残る先生です。~

サーロー節子さん1.jpg
昨年最後のブログに除夜の鐘を取り上げ、小谷一夫さんの『おんおんと 被爆地渡る 除夜の鐘』と言う句を特筆させて頂きましたのは、昨秋サーロー節子さん(写真上)の著書『光に向かって這っていけ ~核なき世界を追い求めて~』を読んでいたからです。
サーローさん著書.jpg
サーロー節子(Setsuko Thurlow)さんは、1932年1月3日 広島県広島市生まれの被爆者で、国際NGO「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN アイキャン)を中心に反核運動に没頭されているのです。そして、そのICANが2017年のノーベル平和賞を受賞したのです!
ICANノーベル平和賞受賞1.jpg
       ノーベル平和賞を授与され、笑顔のサーローさん。
       右はICAN事務局長のベアトリス・フィンさん。

ノーベル賞受賞式1.jpg
ICANは核兵器を禁止し廃絶するために活動する世界のNGO連合体で、スイスのジュネーブに国際事務局があり、2017年10月現在、101カ国から468団体が参加していて、その活動が大きく評価され、2017年のノーベル平和賞を受賞し、授賞式がノルウェーのオスロ市庁舎であり、メダルと証書が贈られました。ICANのベアトリス・フィン事務局長とカナダ在住のサーロー節子さんが登壇し、核廃絶の実現を「あきらめるな」と、各国に改めて協力を呼びかけたのです。

節子さんと母.jpg
節子さんは13歳の時、被爆し瓦礫の中に閉じ込められました。暗闇の中で、「あきらめるな。遠くに光が見えているだろう。瓦礫を押し続けろ。光に向かってはって行きなさい」と同じく閉じこめられた軍人さんが声をかけてくれたので、遠くかすかに見えている光をめざし、諦めることなく這い続け倒れた建物の下からはい出ることが出来、一命を取り留めたのです。
(この忘れる事の出来ない体験を、著書の題名にされているのです)

このようにして節子さんは命拾いされましたが、しかし節子さんの4歳だった甥御さんは、無残にも誰なのか判別できない、溶けた肉の塊に変わってしまったそうです。
「毎日、毎秒、核兵器は、私たちの愛するすべての人を危機にさらしている。この異常さをこれ以上、許してはならない!」
「核兵器は必要悪ではなく、絶対悪だ!」
「私たちの証言を聞き、私たちの警告を心に留めなさい!」
と呼びかけ、広島と長崎に落とされた原爆を正義の戦争を終わらせたよい爆弾だったと信じる人々や核軍備の開発競争をしている国々を強く非難し、講演の最後に、被爆直後に聞いた「あきらめるな」という言葉を何度も何度も繰り返し、世界の人々に行動を求めたのです。
そんな節子さんの必死の願いは多くの国の多くの人々の琴線に触れ、心を、魂を揺さぶりましたが、哀しいかな日本国政府だけでなく、日本の保守政治家たちを動かすことが出来ませんでした。この哀しい有様については、又いつか触れたいと思います。
サーローさん家族1.jpg
さて、『光に向かって這っていけ』を手にし、著者がサーローという苗字であるのを知り、もしやこの著者のハズバントは、私が袖振れ合ったあの方では・・・と思ったのです。あの方とはサーロー節子さんの夫君ジム・サーローさんのことなのですが、同著を読み進めると、節子さんの夫君であるジムさんは、カナダの宣教師で教団から日本の関西学院大学に派遣されたことが書かれていました。やはりそうなんだ! 60年ほど前のことですが、私は関西学院大学生で、1回生の頃、ジム・サーロー先生さんに教えを受けていたのです。サーロー先生はチャペルの講話や英会話の授業を担当なさっておられました。大学事務局からのアンケートで、心に残った授業はとの項目があり、私はサーロー講師と書いたのですが、私だけでなく何人かの友人も、サーロー講師と書いたと言っていたのを、今でも覚えています。多分、チャペルでの講話が私たち学生の心をとらえたのでしょう。残念ながらどんな話をされたのかは忘れてしまっているのですが・・・。
洋服に下駄.jpg
突然、洋服に下駄て何やねん!?と思われるでしょうが、サーロー先生は日本の不思議のひとつとして、洋服を着ているのにクロップクロップ下駄(下駄でカラコロ)がわからない・・・と仰っていました。確かに私も学生の頃、シャツを着てスボン(今はパンツと言うのですね)を履き、下駄を突っかけて電車に乗り通学していました。こんな些細なことを覚えているのに、チャペルの講話を忘れるなんて・・・でも、私にはサーロー先生との触れ合いで、忘れられないと言うか、ゴメンナサイ、スミマセン・・・と未だに忘れかねていることがあるのです。それは、先生の英会話の授業に余り出席しなかったのです。前期は皆勤でしたが、夏休み前(当事は7・8月が夏期休暇)に芝居の世界にのめり込み、芸術学部のある大学に転入しようかと思う程で、経済学部の勉強をしなければならない時間がもったいないと焦っていました。ですから後期になってからはずっと欠席続きで、試験を受けるに必要な出席回数を得る為、期末の頃出席したら、先生にこう言われたのです。
「ミスターオハラ、ユー、シケンOKデモ、アブセント、アブセント、ダカラ点、アゲラレナイ」
「アイムソリー ストマックエイク ソウ アブセント」
私は思わず、そう答えてしまったのです。すると先生は、「アイシー」とつぶやき、出席簿の私の欠席印を全部消して下さったのです。ストマックエイク、胃痛は嘘ではなく、ある夜親父の晩酌につきあい小さなお猪口で4、5杯、日本酒を飲んだだけなのに血を少し吐いたのです。軽い胃潰瘍でした。
でも、欠席続きの本当の理由ではないのです。それを先生は信じて下さった・・・申し訳ないとの思いは今もずっと続いていますが、先生は2011年にお亡くなりになってしまったそうで、嗚呼、いかんともしがたし・・・です。
ですから、唯々、先生のご冥福をお祈りするばかりです。合掌。

合掌.jpg