袖振れ合うも多生の縁316~山岳写真家でもあるポーマンさん、熊に遭遇、あわや!?~

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3回にわたってご紹介させて頂いているチェリストにして宣教師のベアンテ・ポーマンさんは山岳写真家でもあられ、下の写真はポーマンさんの山岳写真です。
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さて、昨年のクリスマス・イブ・コンサートで、苗場山の撮影時、下山途中に熊と遭遇した話をされていました。
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苗場ってスキー場で知られていますが、ポーマンさんの登られたのはスキー場よりもっと上で、「熊に注意!」の警告板が立てられてるんですね。
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ほら、少しピントが甘いですが、苗場の熊が撮影されていますよ。
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ポーマンさんが撮影を終え、下山途中水場に立ち寄り一服している時の話ですが、ふと何気なく振り返ると熊サンが水場目指してスタコラサッサと降りてくるではありませんか!? むむ、むむむ、熊除けの鈴も持ってないしどうすれば・・・こそこそーっと逃げ隠れる所はないか・・・と見渡しても繁みも木立も何もない・・・熊はだんだん迫ってくる・・・やはり逃げよう。水場を離れるしかない。そう思ったのですが、全く予期しないことをやってしまったとか!?そのポーマンさんが取った行動というのは敢然と熊に立ち向かい、大声で喚き倒したのです。熊はぎょっとした面持ちで立ち止まり、ポーマンさんをギロッと凝視し、こいつ何者や!?何わめいてるんや!?ワシを誰やと思るんや!? と熊サンが思ったかどうか分かりませんが、ポーマンさんは再び前にも増して有らん限りの大声で怒鳴るように暫し喋りまくったとか。すると熊サン、お前の脅しなんかに負けへんぞ!と猛攻撃をかけてくるかと思いきや、すたこらすたこらすたこらさっさと水場を避けて駆け下りたそうです。やれやれ助かったと、安堵のため息をついた時、自分の知らない言葉を喋っていたと気づいたのです。「一体私は何語を喋ったのか・・・スゥエーデン語じゃないし、ドイツ語でもフィンランド語でもない・・・英語でもないし日本語でもない・・・まして熊語ではない。そう、そうか、私は神様の言葉を喋っていたのだ!」とポーマンさんはユーモラス且つ真面目に話されたのです。
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皆さんは、熊サンを退散させたのは神様の言葉と思われますか? 私は神様の言葉に違いないと思うのですが・・・真実は神のみぞ知るということですね。
ではでは。

袖振れ合うも多生の縁315~ポーマンさん、二足の草鞋(?)を神様に授かる!?~

今日のブログは宣教師にしてチェリストのベアンテ・ポーマンの著書、「神の奏でるメロディ」から、ポーマンさんが来日した頃のお話です。
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ポーマンさんはチェリストとして生きていくより、イエス・キリストのための証しと奉仕に生きたいと考え、これからは音楽を止めて宣教師になろうと決心され来日されたのです。彼の表現によれば、<音楽を神様に捧げた>のです。ポーマンさんは奥様が日本人だから・・・と観光ビザで入国し、ビザ変更申請すれば良いと簡単に考えていたのです。
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でもそう簡単ではなく、行政書士 i タウン事務所さんのHPによると、

日本の在留資格(ビザ)制度についてのルールを定めている法律に「出入国管理及び難民認定法」いわゆる「入管法」というものがありまして、その第20条にこういうことが書かれております。
第20条(在留資格の変更)
1.在留資格(つまりビザ)を有する外国人は、その者の有する在留資格(ビザ)の変更を受けることができる。
2.在留資格(ビザ)の変更を受けようとする外国人は、法務省令で定める手続きにより、法務大臣に対し、在留資格の変更の申請をしなければならない。
☆重要
3.在留資格変更の申請があった場合に法務大臣は、外国人が提出した文書により、在留資格(ビザ)の変更を適当と認めるに足る相当の理由がある時に限り、これを許可することができる。但し、短期滞在の在留資格(つまり観光ビザ)を持って在留する者の申請については、やむを得ない特別な事情に基づくものでなければ、許可しないものとする。
つまり、「短期滞在」いわゆる観光ビザから他の在留資格、この場合には配偶者ビザ(正式名:日本人の配偶者等)へのビザ・チェンジは原則としてできません、ということが書かれているのです。 もともと、在留資格変更許可申請(ビザ変更申請)とは、観光ビザ(正式名・短期滞在)以外のビザ、例えば就労ビザや留学ビザなどから他の在留資格(ビザ)に変更するために設けられている申請なのです。

ポーマンさんは神戸YMCAで日本語を学んでいると言っても在留資格変更は難しく、そこでオーケストラに就職すればワーキングビザで日本に滞在できるのでは・・・と考え、東京交響楽団のチェリスト(トゥッティ)募集に応募したのです。トゥッティ」(tutti)とはイタリア語で、英語だと「all」とか「together」に相当し、「全部」という意味ですが、この場合ソロを弾くことのないチェリストということです。
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さて、オーディションには何人かの応募者がいましたが、ポーマンさんが課題曲と自由曲を演奏し終わると、オーケストラ曲のソロがリクエストされ、それも無事終了し結果発表となりました。そして東響の団長に「あなたをトゥッティとして入団させたくない」と冷たく言われたのです。あゝ、ダメか・・・とがっくりしかけたところ団長は微笑みこう言葉を続けたのです。「首席チェリストとして入団して貰いたいのですが、いいですか?」「ブラボー!」かくしてポーマンさんは東京交響楽団の首席チェリストになり、ワーキングビザを得て日本での生活が始まったのです。
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東響の演奏活動は年に170回から180回あり、トゥッティは110から120回演奏しなければならないのですが、首席チェリストなら半分くらいで良く、伝道活動も十分に出来るのです。そう、宣教師と音楽家の二足の草鞋を神様が与えて下さったのです!
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処で、<二足の草鞋>という言葉は私が勝手に用いたのであって、ポーマンさんはこの意味をご存じかどうか?因みに<二足の草鞋>とは江戸時代、博打打ちが十手を預かり、同じ博徒を取り締まる捕吏を兼ねていたことから生まれた諺で、一人の人間が二足の草鞋を同時に履けないように同じ人が普通は両立しない仕事を一人ですることを言うのですが、ポーマンさんの場合、伝道活動と音楽活動は立派に両立しますから、私の言葉使いは大いに誤りであります。という訳で訂正させて頂き、お詫び申しあげます。嘗て物書きやったのにホンマに鈍なことですわ。ま、敢えて諺的な言葉を用いるなら、「全(すべ)ての道(みち)はローマに通(つう)ず」でしょうか。
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この諺は、<どのような経路を通っても、真理は必ず行き着くものである>との意味で、ポーマンさんの神への愛は宣教師としての伝道活動もチェリストとしての音楽活動もすべて神の許に届き、神様はボーマンさんに愛を、慈しみを返して下さっているのでしょう。その顕れであるポーマンさん奏でるチェロのメロディが、私の胸を心を、魂を揺さぶったのです!
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3回にわたりポーマンさんのことを書いてきましたが、次回も又々そうなんですよ。もうえゝわと言わないでご覧下さいね。ではでは。

袖振れ合うも多生の縁314~神の奏でるメロディを弾くチェリスト、ベアンテ・ポーマンさん!~

あけましておめでとうございます。お正月は如何でしたでしょうか。私は小林一茶の<めでたさも 中くらいなり おらが春>か、一休の狂歌<門松は 冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし>状態で相変わらずでありますが、本年もよろしくお願い申し上げます。
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さて、今年最初のブログは昨年末書きましたように、神の慈しみを受け神のメロディを奏でるチェリスト ベアンテ・ポーマンさんについてですが、前回のブログをコピペしますと・・・
ポーマンさんの奏でる音色は、深く々々とてつもなく優しく々々、まろやかで暖かく安らかで、神への愛を奏でておられるのか、神からの愛、神様の慈しみを受け奏でておられるのかと私には思えてしまうのです。そんな演奏に身も心も魂も包まれて至福のひとときでした!
この感想はコンサート直後の私の正直な想いで、当然「神の奏でるメロディ」なる著書も存じませんでした。そして帰宅してからPCでポーマンさんのことを検索し、下記写真の著書があることを知り、至急アマゾンで取り寄せたのです。神様に導かれたご自身の半生を淡々と綴られた薄い小冊子なのですぐ読み終えましたが、何とポーマンさんは<自分の力で演奏しているのではない>と書いておられるのです!
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前回のブログにポーマンさんのプロフィールをWikipediaからコピペ致しましたが、著書に基づき神様に導かれた人生模様を概略させて頂きますと・・・
1951年、スウェーデンのストックホルムから250キロほど北のファールン市に生まれ、幸いにも両親がクリスチャンで、生まれた時から教会に行っていたけれど、本当の信仰が芽生えたのは10歳だったとか。
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ある青少年キャンプでクリスチャンの集会リーダーに、「救われたい人は前に出なさい」という招きがあり、<イエス・キリストを信じて救われたい>という強い内的求めが矢庭に湧き上がり、ためらわず前に進み出た途端、心が軽くなったのを今でも覚えておられるとか。そしてその時から信仰は次第に強く深くはぐくまれ、揺るぎなく確固たる信念に至ったと確信したので、12歳の時洗礼を受けられたのです。処でボーマンさんが最初に習った楽器はリコーダーでしたが、ある先生が青少年オーケストラのチェロ演奏者を探しにリコーダーのクラスに来、チェロを弾いたとのないボーマン君を何故かチェリストに指名したのです。それが12歳の時でした。この12歳の二つの出来事は、ポーマンさんの人生を決める神様の計らいだったのです。下の写真はポーマン少年ではありませんが、こんな雰囲気の子供だったのでしょうか。
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かくしてチェロを学び始めたのですが、ストックホルムからスゥエーデンNO1のチェロ奏者で王立オペラオペラ劇場の首席チェリストであり且つ王立音楽大学教授であるグスタフ・グレンダールさんという凄い先生が教えに来られ、しかもボーマンさんの両親に「息子さんをストックホルムに送って私に教えさせて欲しい」と頼んで下さったのです!かくしてポーマン少年は勇躍ストックホルム王立音楽大学(下の写真は大学の外観とホール)に進学し、恵まれた環境でめきめき腕をあげ1971年に最優秀賞を授与され卒業したのです。
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そして暫しの間、ヨーテボリ国立歌劇場の首席チェロ奏者を勤めたのものの、当時師事していたフランスのポール・トゥルトゥリエ先生がドイツ国立フォルクヴァンク音楽大学で教鞭をとられることになったので、迷ったものの歌劇場の首席チェリストを止め、ポール先生を追って同大学のマスタークラス、大学院に入学したのです。この決断も神様の計らいなのでしょう、前回のブログに書いたように、神様はボールさんと生涯の伴侶となるべきルリ子さんを引き逢わされたのです。
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ルリ子さんとの巡り逢いの他に神様はもうひとつの計らいをなさいました。
それは師事していたトゥルトゥリエ教授がフランスに帰国されることになり、教授の一番弟子アルト・ノラスさんに引き合わされ、ノラス先生について学ぶべくフィンラント唯一の音楽大学、シベリウス・アカデミーの大学院(写真下)で学ぶことになったのです。
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このフィンランドに住むようになった事が大きなターニングポイントになりました。それはこの頃フィンランドのキリスト教界で大きな変革が起こったのです。それは<リバイバル>と言われ、人々の心に眠っていた信仰が覚醒され、人々の生き方を根底から変える大きなムーブメントが津波の如く全土に広がりました。この頃迄ポーマンさんはそれ程熱心な信者ではありませんでしたが、<リバイバル>に深く啓発され、クリスチャンとしての活動を音楽より優先するようになったのです。
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        (上の写真は<リバイバル>の中核、トゥルク大聖堂)

かくしてポーマンさんは信仰第一の生活を送るようになり、教会での奉仕や聖書学校での学びに没頭し、その余暇として毎日1時間くらいしかチェロの稽古はしていなかったとか。そんな音楽そっち除けに近い状態でシベリウス・アカデミー・マスタークラスの卒業試験を迎えなければなりませんでしたから多分落第・・・だろうと観念していたのですが、何と何と25点満点の24点をゲットしたのです!完璧な演奏はあり得ないから24点というのは最高点なのです。指導教授のノラス先生は試験後、「今日の演奏は今迄の君の演奏の中で一番うまかった。あのような演奏は聴いたことがない。」と絶賛して下さり、この卒業試験の奇跡でポーマンさんは確信したのです!
「あの演奏は自分の力ではない!」
この時からポーマンさんは、先ず神の国を求めること、そうすれば他のものは神様がそれに添えて与えて下さると心底より信じて行動するようになりました。このようにして1979年にフィンランドのシベリウス・アカデミー・ マスタークラスを卒業したポーマンさんは、神様の為に働きたいと思い奥様の故国日本での伝道を決意して来日されたのです。

とここまで書いてきましたが、大分長くなりましたから、来日後東京交響楽団入団での神様の計らいは次回に致します。ではでは。

袖振れ合うも多生の縁313~生まれて初めてXマスイブに教会へ行きました。~

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今年最後のブログです。本年もおつきあい下さり本当に有り難うございました。
さて、ご覧の写真は宝塚栄光教会ですが、私はこの歳になってクリスチャンになった訳ではないのにXマスイブに教会へ行ったのです。何故かというと拙宅の郵便受けにチェロコンサートの案内が入っていたからです。しかもチェリストが何とベアンテ・ポーマンさん!
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ベアンテ・ボーマンさん(1951年 - )はスウェーデン生まれのチェリストにして宣教師、神学校教師、神学博士であり、且つ登山写真家で、東京交響楽団首席チェリストを31年も勤められた方なのです。Wikipediaによれば、スウェーデンのファールン市生まれで、キリストを信じたのは10歳、そして12歳で洗礼を受け、その歳にチェロを始め16歳でストックホルム王立音楽大学に入学、卒業後に奨学金を得てドイツのフォルクヴァング音楽大学に学び、同大学在学時に同じく留学されていたピアノのルリ子さんと運命的に出会い挙式、ルリ子夫人は今なおポーマンさんのピアノ伴奏をなさっておられ、まさに二人三脚おしどり夫婦なのです
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ルリ子さんとの出逢いがなければポーマンさんが来日されることもなかったでしょうね。ポーマンさんは1971年にストックホルム王立音楽大学を卒業されたのですが、最優秀賞を授与され将来を嘱望されての旅立ちで、ヨーテボリ国立歌劇場の首席チェロ奏者などを経て、1980年に東京交響楽団の首席チェロ奏者として入団、31年間の長きにわたり楽団の牽引者として数々の演奏活動をなさり、定年を迎え惜しまれつつ退団、現在はチャペルコンサートやチャリティコンサートなどに活動の場をうつしておられるのです。宝塚栄光教会でのXマスイブコンサートも18年連続とか。私は初めてですが栄光教会の信者さん達は、アドベントキャンドルに灯を点し、この日を待ち望んでおられたそうです。
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アドベントは「到来」を意味するラテン語Adventus(=アドベントゥス)から来ていてキリスト到来のことで、アドベントキャンドルとはクリスマスイブ直前の日曜日を基準にしてその4週間前から、毎週日曜日に1本ずつキャンドルに火をつけ、クリスマス当日までの準備期間を大切にして待ちわびる準備期間を充実したものにしようという慣習なのです。ポーマンファンの教会員の方々は、毎週ローソクに灯を点しコンサートを待ちわびられたことでしょう。そして、アドベントキャンドルに迎えられるようにポーマンさんが登場され演奏が始まりました。。
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演奏曲数は10数曲、トークを交えて2時間、十二分に堪能させて頂きました!教会でのコンサートですから、「アヴェマリア」など神を称える曲がふんだんに奏でられ、クリスチャンじゃない私も暫し天上にたゆとう心持ちでした。
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でもしかし、私の心を一番揺さぶったのは。「無伴奏チェロ組曲」です。「無伴奏チェロ組曲」といえば、バッハのがよく知られていますが、ポーマンさんが演奏されたのはレーガーの「無伴奏チェロ組曲」でした。
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マックス・レーガー(1873~1916)は、史上最も不健康な作曲家の名を欲しいままにしている豪傑で、強い葉巻を日に20本以上、酒は浴びるほどに飲み、食事は脂っこいものをたらふく、おまけに気は短くてかんしゃく持ちで写真でお分かりのように肥満体。その為か心筋梗塞となり43歳でお亡くなりになりました。この人の音楽がまた重厚で長大、錯綜する対位法、執拗な変奏、やたら分厚い和声などを駆使し、「音楽形式と自身の体格がドイツ最大の音楽家」と言われたそうです。そんなレーガーはバッハを尊敬していたのか、「バッハへ帰れ」をモットーとしていただけに組曲第1番の第1曲「前奏曲」は、「これバッハの無伴奏第何番だっけ?」と思ってしまうほどなのです。第2曲アダージョは、ほとんど重音が途切れることのない難曲で、チョー美しい。抒情的であると同時に情熱的、これはまぎれもないロマン派の音楽。そして第3曲(終曲)はなんと「フーガ」。チェロ独奏で4声のフーガ! 聴く方は面白いけど、弾く方は大変でしょうね。と、「いろりばた」掲示板さんがPCに書いておられるのをコピペさせて貰いました。でも、「いろりばた」さんだけでなく、私も第3曲はめちゃ大変と思いますので、大変さの度合いを知り合いのチェリスト植木美帆さんに聞いてみようかな。次なる第2番では第1曲ラルゴの悠然たる情感が素晴らしい。何というロマンティックな歌!作曲者の顔からは想像もできません。
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第3番では7分を超える終曲「アンダンテと変奏」が圧巻。味わい深く、滋味にあふれ、長さを感じさせません。心に沁み入ります。と「いろりばた」さん。
私もほぼ同感でーす。
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ポーマンさんはいつも熱演ですから、上衣を着ての演奏は一曲目だけで、暑くってすぐ脱いでしまうのです。上衣を持ってるゾということを示すために着用してコンサートを始めるのだとか。それは兎も角、ポーマンさんの奏でる音色は、深く々々とてつもなく優しく々々、まろやかで暖かく安らかで、神への愛を奏でておられるのか、神からの愛、神様の慈しみを受け奏でておられるのかと私には思えてしまうのです。そんな演奏に身も心も魂も包まれて至福のひとときでした!
今年のブログはこの辺でおしまいにして、来年はポーマンさんがXマスコンサートで語られた神様への想いや著書「神に奏でるメロディー」についての雑感を記したいと思います。
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ではでは、良いお年を!


袖振れ合うも多生の縁312~今上天皇陛下は象徴天皇を全うなされましたが、昭和天皇は・・・?~

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明日は天皇誕生日で、12月23日の天皇誕生日は今年でおしまいですね。現在、4月29日はみどりの日ですが、昭和の時代は天皇誕生日でした。こんな具合に12月23日は何かの祝日になるのでしょうか。私なら畏れ多いことですが、象徴の日とネーミングしたいです。そんな訳で以前にも書かせて頂きましたが、もう一度陛下が生前退位を表明なされたお言葉を振り返ってみたいと思います。

(前略)私が天皇の位についてから、ほぼ二十八年、この間(かん)私は、我が国における多くの喜びの時、また悲しみの時を、人々と共に過ごして来ました。私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。天皇が象徴であると共に、国民統合の象徴としての役割を果たすためには、天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。こうした意味において、日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じて来ました。皇太子の時代も含め、これまで私が皇后と共に行(おこな)って来たほぼ全国に及ぶ旅は、国内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井(しせい)の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした。(後略)

陛下は<象徴的行為>を<鎮魂>と<慰藉>であるとお考えで、<鎮魂>とは先の大戦で斃れた人々の霊を鎮める為の祈りですから、陛下は死者が息絶えた現場まで足を運び、御霊よ安らかなれと真摯に祈りを捧げられているのです。また、<慰藉>としては災害地を見舞い、床に膝をついて直接被災者と言葉をかわされましたが、歴代天皇で言葉をかわされる際に床に膝をつかれたのは初めてでした。
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陛下がなされた<鎮魂>と<慰藉>を、皇太子時代も含めて抜粋してみますと・・・
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1975年(昭和50年)、沖縄県祖国復帰(沖縄返還)実現後の沖縄国際海洋博覧会に際し、立太子後初めて訪問されただけでなく、琉歌を研究し琉歌8首を発表。
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1987年(昭和62年)、沖縄海邦国体を前に病臥した父・昭和天皇(昭和天皇が在位中の天皇として史上初めて沖縄を訪問する予定だった)の名代として沖縄を訪れ、同年10月24日南部戦跡の平和祈念堂で、
「先の大戦で戦場となった沖縄が、島々の姿をも変える甚大な被害を被り、一般住民を含むあまたの尊い犠牲者を出したことに加え、戦後も長らく多大の苦労を余儀なくされてきたことを思う時、深い悲しみと痛みを覚えます」
との天皇の言葉を代読。

この皇太子が代読された昭和天皇のお言葉に私は違和感を禁じ得ないのです。何故なら太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)2月14日に、天皇の重臣である近衛文麿が昭和天皇に対し奏上した即時戦争終結すべしとの進言、所謂「近衛上奏文」に対し、「もう一度戦果を挙げてからでなければ終結できぬ」と取り上げず、その6ヶ月後太平洋戦争最後の地上戦である沖縄戦となり、沖縄県生活福祉部援護課の1976年3月発表によると、日本側の死者・行方不明者は188,136人で、その内94,000人が民間人だったのです!
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因みに近衛上奏文は・・・
『敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存侯 以下此の前提の下に申述べ侯、敗戦は我国体の瑕瑾たるべきも、英米の輿論は今日までのところ、国体の変更とまでは進み居らず、(勿論一部には過激論あり、又将来いかに変化するやは測知し難し)随て敗戦だけならば、国体上はさまで憂うる要なしと存侯。 国体護持の立前より最も憂うべきは、敗戦よりも、敗戦に伴うて起ることあるべき共産革命に侯。』
口語訳で大略しますと・・・
『敗戦はもはや避けられない。しかし米英の世論は天皇制の廃止にまでは至っていないため、今のうちに米英 と講和するべきである。敗戦によっても国体は維持できるが、それより敗戦の混乱に伴う共産革命を恐れるべきである。』

昭和天皇がこの近衛文麿の上奏を受け入れていたなら、沖縄の悲劇は無かったのです!
それだけでなく、戦後昭和天皇がマッカーサー元帥に宛てた、「米軍による沖縄占領状態を長期間継続させることを依頼する」という所謂沖縄メッセージが厳然と存在しているからです。昭和天皇は1947年9月に<米軍が沖縄や琉球列島その他の島に米軍が占領状態を50年間より更にもっと長期間継続させることを希望する>考えを示し、当時天皇の御用掛であった寺崎英成が占領軍の政治顧問のシーボルトの事務所を訪れて昭和天皇の考えを伝え、マッカーサー元帥にその内容を送ってもらうように依頼し、その文章の記録が残されているのです。しかし、この前年の1946年11月に日本国憲法が公布され、既に象徴天皇が確定し、天皇は政治的な権力を行使できない立場になっていたのですが、にも拘わらず政府を通さず直接アメリカ側に政策要望を出していたのです。
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豊下楢彦氏の「昭和天皇・マッカーサー元帥会見」によれば、この沖縄メッセージだけでなく、昭和天皇はマッカーサー元帥との11回に及ぶ会談や米国のダレス国務長官への文書などで極めて政治的な発言をされているます。例えば、1947年5月6日に行われた第4回目会見での発言は・・・
「日本の安全保障を図るためには、アングロサクソンの代表者である米国が其のイニシアチブを執ることを要するのでありまして、此の為元帥の御支援を期待しております」
この発言には、憲法9条も国連もおよそ期待せず、アメリカの武力によって日本の天皇制を守ってほしいとする昭和天皇の本音が露骨に現れていると豊下氏は論じておられます。

また、1950年の天皇のダレス宛の文書メッセージでは、公職追放の緩和についても強く主張しています。
「(追放の緩和によって)多くの有能で先見の明と立派な志を持った人々が、国民全般の利益のために自由に働くことができるようになるであろう。現在は沈黙しているが、もし公に意見表明がなされるならば、大衆の心に極めて深い影響を及ぼすであろう多くの人々がいる。仮にこれらの人々が、彼らの考え方を公に表明できる立場にいたならば、基地問題をめぐる最近のあやまった論争も、日本の側からの自発的なオファによってさけることができたであろう」

ここで「最近のあやまった論争」というのは、「わたしは軍事基地は貸したくないと考えております」といった吉田茂首相の議会発言などをさしているものと豊下氏は推測しています。天皇は吉田の姿勢に強い不満を感じ、アメリカによる日本の保護を得るためには、日本の側から積極的に基地のオファをするくらいでないといけないと考えていたので、このような発言が出て来たと言うのです。実際この発言を踏まえ、天皇の側近たちを介在させた影の交渉ルートが出来上がり、吉田による公式なルートと天皇による非公式なルートとが併存する二重外交の構図が出現した。これが一国の政治にとって非常に由々しい事態であることはいうまでもないでしょう。国体護持と冷戦時代の共産化を防ぐ為の行為で、昭和天皇は超法規的措置とお考えだったかも知れませんが、これって紛れもなく矢張り憲法違反ですよね。しかし、そんな昭和天皇を反面教師としたからこそ、平成天皇は見事なまでの象徴天皇であらせられたのでしようか。
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話を平成天皇陛下の<慰藉>に戻しますと・・・
1991年雲仙普賢岳噴火被災地のお見舞い。
2008年(平成20年)9月8日新潟県行幸の折、被害の大きかった被災当時の山古志村(現・長岡市山古志)を視察なされた後、山古志の被災者と懇談され、励ましのお言葉を。中越地震発生4日後に救出された男児(当時2歳)が無事に成長していることを知り、その成長を喜こばれた由。
2011年(平成23年)3月11日発生の東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)については異例のビデオメッセージを送られたほか、各地の避難所を皇后と共に歴訪。この他枚挙に暇がありません。

そして<鎮魂>ですが、終戦70年にあたっては・・・
平成26年6月26日~6月27日 天皇皇后両陛下 沖縄県行幸啓
平成26年10月11日~10月12日 天皇皇后両陛下 長崎県行幸啓
平成27年4月8日~4月9日 天皇皇后両陛下 パラオご訪問(西太平洋戦没者の碑等)
平成27年4月16日 天皇皇后両陛下 高尾みころも霊堂行幸啓
平成27年5月26日 天皇皇后両陛下 東京都慰霊堂行幸啓
平成27年6月10日 天皇皇后両陛下 神奈川県行幸啓(戦没船員の碑)
平成27年6月17日 天皇皇后両陛下 宮城県行幸啓(蔵王町北原尾地区開拓地)
平成27年7月20日 天皇皇后両陛下 栃木県行幸啓(那須町千振開拓地)
平成27年8月11日 天皇皇后両陛下 広島市被爆70周年記念事業 広島交響楽団 平和の夕べコンサートご鑑賞
平成27年8月22日 天皇皇后両陛下 長野県行幸啓(軽井沢町大日向開拓地)
平成28年1月26日~1月30日 天皇皇后両陛下 フィリピンご訪問(比島戦没者慰霊碑等)
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終戦60年にあたっては・・・
平成17年6月27日~6月28日 天皇皇后両陛下 サイパン島ご訪問(中部太平洋戦没者の碑等)
平成17年7月4日 天皇皇后両陛下 終戦60周年記念行事「戦没殉職船員遺族の集い」
平成17年8月29日~8月30日 天皇皇后両陛下 長野県行幸啓(南牧村野辺山地区開拓地)
平成17年9月2日 天皇皇后両陛下 栃木県行幸啓(那須町千振開拓地)
平成17年10月11日 天皇皇后両陛下 神奈川県行幸啓(戦没船員の碑)
平成17年12月13日 天皇皇后両陛下 日本遺族会婦人部「新たなる出発の集い」
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終戦50年にあたっては・・・
平成6年2月12日 天皇皇后両陛下 硫黄島行幸啓(天山慰霊碑,鎮魂の丘)
平成7年7月26日~7月27日 天皇皇后両陛下 長崎県・広島県行幸啓
平成7年8月2日 天皇皇后両陛下 沖縄県行幸啓
平成7年8月3日 天皇皇后両陛下 東京都慰霊堂行幸啓
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とこれ又枚挙に暇がなく、長の歳月にわたり象徴天皇としてのお務め、言葉のつくしようもございません。

さて、最後に余談ですが、陛下らしいエピソードを見つけましたので、それを書かせて頂きます。
今上天皇陛下は、昭和天皇崩御にあたり相続税4億2800万円を納められておられますし、また皇居のある千代田区には住民税を納められているのです。

袖振れ合うも多生の縁311~BS日テレの「恋するクラシック」って結構面白いですよ。~

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写真のご両人、小倉智昭(おぐらともあき)さんと佐田詠夢(さだえむ)さんがMCを務める新番組「恋するクラシック」がBS日テレでスタートして早9か月になろうとしています。ワタシは春から見ていたのではなく、この秋から「ららら♪クラシック」や「題名のない音楽会」などと共に見始めたのですが、この「Love Classical Msic 恋するクラシック」が「ららら・・・」や「題名のない・・・」よりバラエティっぽいです。というのはこの番組のコンセプトは、敷居の高いイメージを持たれがちなクラシック音楽を親しみやすく届けることだそうで、クラシック界を代表するような演奏家を招いての<マエストロさんいらっしゃい>、将来有望とされる音楽家の卵たち(音大生たち)によるぶっちゃけトーク<蜂蜜とのだめ茶論(サロン)>、今巷で噂もちきりのYou Tuber Pianist 横内愛弓さんが名曲の謎を解きあかす<えにぐまPorori>、ピアノ芸人まとばゆうさんの偉人小咄<アイネクライネ まとばムジーク>など、クラシックをネタに一寸ひねったコーナが満載です。そんなお笑いっぽい味つけだけでなく、本物の演奏もムロンあるので、ワタシは結構面白く見ておるのであります、ハイ。
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ところで小倉智昭さんは、誰もがご存じのハードイメージな司会者ですが、佐田詠夢さんて一体誰なのかご存じですか?
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「佐田」を「さだ」と書くと分かるかも・・・
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そう、さだまさしさんのお嬢さんなのです。詠夢さんはこの番組の司会を担当するにあたり、下記のようにコメントされています。

小さいころからクラシックピアノを演奏してきました。今までコンサートにお越しいただいたお客さまにもクラシックを難しいと感じている方が多くいらっしゃいます。そのような方たちのために、自分のコンサートではトークで解説をしてから演奏に入るなどの工夫をしています。クラシックしか聴いてこないで育ちましたので、父(さだまさし)の曲は普段聴いてません(笑)。コンサートでは鑑賞する機会はありましたが、LP(CD)などでは鑑賞したことがありません。父はどちらかというと“はなし家”っぽいですけどね(笑)。家でもずっと話しています(笑)。家で父は、音楽や仕事の話は一切しません。ピアノを演奏していても、私に対して意見は一切口にしませんでした。時折リズムの解釈を「こう考えてみたら?」という程度でした。
今までテレビ出演の経験があまりないので、番組においてもコンサートのお客さまと同様に、クラシックにたくさんの楽しいエピソードがあることを知っていただけたら幸いです。


それから小倉さんは、

クラシックとの出会いは小学校5年生のときです。音声もモノラルの時代でした。学校の視聴覚教室でラヴェル「ボレロ」を先生に聞かせていただいたのがきっかけです。あの次第に音が膨れ上がっていく構成に感銘を受けてすぐレコードを買いに行き、「ラヴェルのボレロをください」とお願いしたら、お店の方が「(種類が)たくさんありますよ」とおっしゃって驚いたのです。オーケストラ別に紹介されて、視聴してから1枚選んで買いました。ある曲に対していろいろな演奏家たちが解釈、演奏をしているたくさんの音源があることを知り、「同じ曲でもニュアンスが違う」という、クラシックのおもしろさを感じました。
佐田さんとは初対面ですが、お父さま(さだまさし)とは親交が深く、本番組の件でメールで何度か連絡をとりました。「娘(詠夢)にテレビのMCが務まるのか?」と心配されてましたね。自分は演奏家ではないので「プロのお嬢さまを頼りにしております」とお伝えしたら、さださんは「あまり当てにしないでください」と(笑)。トークに演奏にと、大活躍される佐田さんを、皆さま応援よろしくお願いします。


とコメントされています。

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私はこの番組を見るまで、佐田詠夢さんは知らなかったのですが、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のコンサートマターだったバイオリニト、ウェルナー・ヒンクさんと共演されたこともあるとか。その時、ヒンクさんとお知り合いだった皇后陛下の御来臨を賜ったそうです。
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そんなステキなピアニスト佐田詠夢さんを、これから注目したいと思っています。因みに、「恋するクラシック」は毎週月曜夜9:00-10:00 BS日テレにて放送中でーす。

袖触れ合うも多生の縁310~Eテレの「ららら♪クラシック」って結構面白いですよ。PARTⅡ~

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前回の<ららら♪クラシック>で「ダニーボーイ」を取り上げましたが、今回は「動物の謝肉祭」です。
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<ららら♪クラシック>のHPによれば、白鳥や象などかわいい動物が次々と出てくるとても楽しい曲というイメージが持たれるカミーユ・サン=サーンスの組曲「動物の謝肉祭」ですが、実は曲のあちこちには強烈な皮肉が仕込まれているとか。「謝肉祭」とは「カーニバル」のことで、仮面をかぶり身分を隠して日頃は言えない不平不満をぶちまけるお祭りで、世間から皮肉屋と言われていたサン・サーンスにぴったしなのです。
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多くの作曲家に影響を与え、交響曲やオペラなど数多くの傑作を残したサン・サーンスですが、当時の音楽業界からは評価されていませんでした。それはいつも一言多い、皮肉屋という性格の為でした。そんなサン=サーンンスがこの曲にどんな皮肉を込めたのか、ゲストの宮川彬良さんが語ってくれました。
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宮川さんが注目するのは終盤の「ピアニスト」、「化石」、「白鳥」の3曲ですが、まず全体についてをWikipediaから要約コピペしてみましょう。

第1曲「序奏と獅子王の行進曲」 ピアノの耳をつんざくような反復奏に始まる。ついで、勇壮な「行進」が弦楽器のユニゾンで奏される。

第2曲「雌鶏と雄鶏」 ピアノと弦楽器が鶏の鳴き声を模倣しあう。

第3曲「騾馬」 アジアロバであろうと言われる。ピアノの上り下りする強奏の音階。

第4曲「亀」 弦楽器がのそのそとユニゾンでオッフェンバックの『天国と地獄』の旋律をわざとゆっくり奏する。

第5曲「象」 コントラバスがもそもそと、軽やかに(?)ワルツを奏する。

第6曲「カンガルー」 装飾の付いた和音が上下して飛び回るカンガルーを描写する。

第7曲「水族館」 グラスハーモニカの入った幻想的なメロディーに、ピアノ伴奏が添えられている。

第8曲「耳の長い登場人物」 おそらく驢馬、アジアロバでない驢馬、のどかな驢馬の鳴き声をヴァイオリンが模倣する。

第9曲「森の奥のカッコウ」 クラリネットがカッコウの鳴き声を模倣する。

第10曲「大きな鳥籠」 弦楽器が反復奏する伴奏の上を、フルートが軽やかに飛び回る。

第11曲「ピアニスト」 わざとへたくそにピアノの練習曲を弾く。最後は明確な区切りもなく、そのまま次の曲へ入る。

第12曲「化石」 自作の『死の舞踏』の「骸骨の踊り」の旋律、ロッシーニの『セビリアの理髪師』の「ロジーナのアリア」、その他「大事なタバコ」「きらきら星」「月の光に」、「シリアへ行く」などのフランス民謡が組み合わされる。

第13曲「白鳥」 チェロ独奏曲として有名な曲。バレエ「瀕死の白鳥」はミハイル・フォーキンがこの曲に振付を施した作品である。

第14曲「終曲」 カーテンコール。再度オッフェンバックの『天国と地獄』のフィナーレの旋律(ただし、今回は大幅に変奏されているので事実上ほぼオリジナルメロディになっている)に乗せて、今までの各曲の中の旋律が登場する。

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さて、宮川さんの解説によると第11曲「ピアニスト」は練習曲のオンパレードで、決まり切ったルーティンワークなんぞをやっていると心も体も硬化して化石になる・・・と皮肉を込めているのだとか。そのサイクルが次第に早くなり唐突に終わると、次の第12曲「化石」へつながります。まるで想像力を使わない世界は化石同然だと言っているようで、サン=サーンにとっては民謡も化石なのでしょう。そしてその後に続くのが、かの美しいメロディーを持つ第13曲「白鳥」です。すべてを通り抜けた先に芸術、そして美が残ったということがこの曲には込められている由。まさにこの3曲は人間に対する最大の皮肉の結集とも言えるのでしょう。

処で、今迄何度かご紹介した同窓生土屋和之兄が主催する土屋ミュージッククラブのレギュラー出演者であるチェリスト植木美帆さんの、聴く人の心に響き魂と共鳴しあう優美な演奏で、私はこの「白鳥」をよく聴いているのですが、サン=サーンスが「ピアニスト」「化石」「白鳥」に籠めた意味を知った今、彼女の演奏する「白鳥」のエレガントな旋律は、身も心も干からび死に果てた化石から甦る命のきらめきのように思えてなりません。
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ワタシが命のきらめき、ときめきを感じるこの曲で、湖に浮かぶ一羽の傷ついた白鳥が生きようと必死にもがき、やがて息絶えるさまを描いた「瀕死の白鳥」は、ミハイル・フォーキンが1907年にアンナ・パブロワの為に振り付けたもので、パブロワの代表的舞踊、至高の芸術と評価されています。
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私はアンナ・パプロワの「瀕死の白鳥」は見ていませんが、この曲で白鳥が死に至るのは如何なものか・・・と若干違和感を感じたので、死に絶えんとする白鳥に春風が吹き寄せ命が甦るというハピーエンドの日本舞踊を創作したことがありました。余談ですが、この舞踊は宝塚歌劇団の某著名演出家先生のお目にとまり、映画スターK・Sさんの公演で演じられたことがあったように記憶しております・・・。ではでは。








袖触れ合うも多生の縁309~Eテレの「ららら♪クラシック」って結構面白いですよ。~

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ご覧の写真はEテレ毎週金曜午後9時30分にOAされている「ららら♪クラシック」なる音楽パラエテイ司会者の高橋克典さんと牛田茉友(うしだまゆ)アナですが、私は最近のこの番組だけでなく、クラシック音楽にはまっています。長い間ミュージカルの作・演出をやっていましたので、主としてジャズやポピュラー音楽などにある程度は携わってきましたが、数年前から仕事でなく邦楽に親しみ、そして今クラシック音楽で心癒されています。処で高橋克典さんの本業は俳優さんですが、トランペットを吹くなど結構音楽に造詣深いとか。彼は40歳頃からクラシック音楽に親しみだしたそうです。また牛田アナは大阪の池田市出身で学生時代は才色兼備のミスキャンパスだったとか。
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このご両人が写真のようにバイオリンとチェロを弾かれるかどうかはわかりませんが、それはさておき、先日「ダニーボーイ」を取り上げていました。
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このメンバーは、歌:浜田真理子さん アイリッシュ・フルート&ティン・ホイッスル:豊田耕三さん フィドル:マイキー・オシェイさん ギター:中村大史さんですが、なんとも素晴らしいのです。どないええかと言うと、物書きのワタシはお手上げで例えようもなく哀切極まりなく、それでいて懐かしくほのぼのさせてくれるのです。どうしてこんなにワタシの胸に響くのか・・・それは浜田さんのボーカルや豊田さんたちの演奏、アイルランドの街角で採譜された19世紀ごろの演奏をイメージして、アイルランドに昔から伝わる朗々とした語り口のフィドルを加えた演奏によるところが大と思うのです。しかしながら、もうひとつの大きなファクターはこの曲のバックボーンが、この曲を生み出した風土と歴史がそうさせているのではないでしょうか。
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アイルランドにはケルト人の子孫が数多くんでいたものの、イギリス最初の植民地となり、12世紀から800年にわたり宗教と言語(ケルト語)が厳しく弾圧され、差別と抑圧に苦しんだのです。そして19世紀初頭にこの曲の原曲となった民謡の他、幾つもの民謡が生まれましたが、それは支配するイギリス人には唯の愛の歌でした。でもしかしアイルランド人には植民地でなかった故国への篤い熱い思いが籠められていたのです。このアイルランド民謡がアメリカに広まったのは、19世紀アイルランドを襲った大規模な飢饉に伴い海外に移住せざるを得なかった人々、特にアメリカに渡りアメリカ各地で身を寄せ合うようにして暮らした多くのアイルランド移民たちが祖国を思い出す曲としてひきつけられたからなのです。
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更に20世紀になり第一次世界大戦が勃発し、多くの若者たちが戦場に送られました。そんな1913年、イギリスの法律家フレデリック・ウェザリーのもとにアメリカにいる義妹から一枚の楽譜が送られてきたので、フレデリックは、戦場に赴く息子を見送る母(父)の悲しみと愛のことばをメロディに託したのです。
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ダニ-・ボーイの原曲民謡が楽譜に起こされたのは1855年とのことですが、いつからクラシックの曲として演奏されるようになったかは定かではないものの、アイルランド出身の作曲家チャールズ・スタンフォードが故郷に思いをはせた「アイルランド狂詩曲」が代表曲と言われています。その「第1番」の中で「ダニー・ボーイ」を引用したことが、イギリスのクラシック世界で認知されるきっかけになったと言われています。
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そして、大切な人との「別れ」を思い起こさせるこの曲の歌詞は、第1次世界が勃発すると、離れ離れになってしまう家族や親族を持つ多くの人々の心に強く響きました。かくして「ダニー・ボーイ」はアイルランド移民の「心の歌」を超えて、世界に広がっていったのです。
そして現在の日本に立ち返りますが、2014年に集団的自衛権が閣議決定され、戦争のできる国に歩を早めています。そんな状況にあって、作詞家のなかにし礼さんが、ダニー・ボーイに下記のような歌詞をつけておられます。
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(一)
おお ダニーボーイ
いとしきわが子よ
いずこに今日は眠る
戦に疲れた体を
休めるすべはあるか
お前に心を痛めて
眠れぬ夜を過ごす
老いたるこの母の胸に

おお ダニーボーイ
おお ダニーボーイ帰れよ

(二)
おお ダニーボーイ
いとしきわが子よ
たよりもすでに途絶え
はるかなその地のはてにも
花咲く春はくるか
祖国に命をあずけた
おまえの無事を祈る
老いたるこの母の胸に

おお ダニーボーイ
おお ダニーボーイ帰れよ

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「らららクラシック」では、ダニー・ボーイを反戦歌として言及していませんでしたが、この曲の美しい旋律が戦争の哀しみに侵されないよう、切に願いたいものです。








袖触れ合うも多生の縁308~久しぶりにロダンのモデルとなった女優ハナコに再会しました!? PartⅢ

私は、鴎外の小説「花子」でロダンのモデルとなり、欧米で大活躍された女優ハナコさんに出逢った20代半ば頃から、ハナコを主人公にしたミュージカルを無性にやりたくて、ハナコストーカーまがい(?)となり、調べまくる内に読売新聞の記事で、ハナコのお孫さんであられる岐阜女子大教授澤田助太郎先生が『プチト・アナコ ~小さいハナコ~』というハナコの伝記を出版されているのを知ったのです。そこですぐさま読売新聞大阪本社に押しかけ、その記事の発信元である中部本社を通じて澤田先生のご住所を教えて頂き、取るものも取りあえず、お逢いしてお話を伺いたい旨のお手紙をさ差し上げたのです。
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先生からすぐお返事を頂戴し、「お逢いする前にこの本を先ずお読み下さい」と、ハナコの一生を綴った「プチト・アナコ」なるご著書を頂戴したのです。
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(上の写真は岐阜の「ロダンと花子の会」でお話しされている澤田先生と著書)そして、この本の脚色・上演の許可も頂き、何かに追われるように第一稿を書き上げました。ワープロもPCも無い頃で、私製原稿用紙の枡目をしこしこ埋め続けた結果腱鞘炎となり、今も右手中指にへこんだ痕跡が残っているのです。その原稿は現在書斎の押し入れに眠っていますが、紙は日焼けして薄茶色になっています。このホンの上演を楽しみに、あちこちに企画を持ち込んだのですが、未だに実現に至ってはいません・・・。
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処で私は、映画スターにしてミュージカル俳優でもあられる宝田明さんと、「阿含の星まつり」のTV中継番組でご一緒したことがあり、本番待ちの間、二人で熱っぽく話込んだことがあるのです。
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ロダンを宝田明さん、ハナコを小川知子さんでストレートプレーが上演されたのを知っていたので、ロダンとハナコのミュージカルを企画している事を切り出し、「ミュージカルをやる時は是非声を掛けてくれ」と仰って頂いたのですが、あれから20年数年になるでしょうか。宝田さんは84歳、私は76歳になってしまいました。宝田さんは今なおお元気で、毎年『葉っぱのフレディ』というミュージカルをやられていますが・・・
さて、少し余談になりますが、阪神淡路大震災の折、澤田先生ご夫妻(下の写真)からお見舞い金を送って頂いたのです。度重なる手紙や賀状のやりとりはあったものの、お会いしたことはなかったのに、私の住所は当時神戸市の東灘だったので心配され送って下さったのです。びっくりするやら嬉しいやら、先生ご夫妻のお人柄が偲ばれるしみじみとした懐かしい思い出です。その節は本当に本当に有り難う御座いました!あれから23年、現在先生は92歳で、大野さんの「マダム・ハナコ」によれば、今尚ご健在の由、いついつまでもお元気であられますよう!
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拙作のミュージカル・ハナコが上演できるか否か、それは神のみぞ知る・・・でしょうね。もし上演に至るとしたら、何か必然性があるのでしょうし、上演できないのなら、する必要がないのでしょう。今はそんな淡々とした心境ですが、でも何処か楽しみにしているところがある私なのです。
因みに下の写真は、澤田先生の「プチト・アナコ」の改訂版です。
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袖触れ合うも多生の縁307~久しぶりにロダンのモデルとなった女優ハナコに再会しました!? PartⅡ

前回のブログにも書いたように、ドキュメンタリー作家大野芳さんは、著書の「マダム・ハナコ」の19Pで、以下のように書いておられます。
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明治の半ばにドイツに留学した鴎外と花子との接点はまったくない。しかし外国の新聞や雑誌を取り寄せて購読していた鴎外は、花子がロダンのモデルになっていることを知っていたのだ。そしてグラビア写真でみた「子守りあがり位にしか値踏みできない」花子を、臆せず裸になる゛はすっぱ"な女として描いた。これが当時の、エリート知識人の認識だったのであろう。
当時の知識人のハナコに対する認識は、多分芸者あがりと思う素性の知れない女が人気女優だなんて、片腹痛い!とエリート意識ふんぷんで、ハナコを下に見下していたのでしょう。そんな知識人のひとりが、演劇人の先達とも言える小山内薫です。
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小山内薫は、洋行帰りの歌舞伎俳優二代目市川左団次と組んで自由劇場を結成し、ロシア現代劇の代表作とも言うべきゴーリキーの「どん底」を翻案し「夜の宿」と改題して公演するなど、ロシアや西洋演劇を模索していたのです。
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そんな小山内薫が手本とするモスクワ芸術座を視察した歳に、モス芸の演出家にして芸術監督であり、俳優であり座長であるコンスタンチン・スタニスラフスキーに大晦日のホームパーティに招かれ、スタニスラフスキーに「花子はどうかね?」と尋ねられた時のことを、「北欧旅日記」に書いています。(大野さんの「マダム・ハナコ」24P)
(私はもう居ても立ってもいられません。私は日本中の恥を一人で背負って立ったような気がしました。私は真っ赤になりました。「そんな人の名は日本で聞いた事もありません。」私は冷汗をかきながら、やっとこれだけ言いました)
小山内薫さん、あなたは鴎外の書いた「花子」の登場人物、医学生久保田なのですか!?
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小山内薫の父親は軍医時代の鴎外の大先輩だったから、小山内は鴎外に可愛がられており、鴎外の影響で詩や小説を書くようになり、舞台演出を始めたとか。ですから彼は鴎外の「花子」を読んでいたのでしょう。しかし鴎外が自らを仮託したのは医学生久保田でなく、ロダンであると読み取って欲しかったですね。処で、小山内薫が信奉していたスタニスラフスキー(写真下)ですが、50数年前数ある演劇ジャンルの内、新劇で演劇生活をスタートさせた私もスゴイ人と思っており、スタニスラフスキーの「俳優修業」を夢中になって貪り読んだものでした。
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画像画像当時出版されていた本のタイトルは、「俳優の仕事」ではなく「俳優修業」で、確か全5冊だったと筈です。ま、それはさておき、女優としてのハナコさんは、小山内評のように見るに堪えない拙劣な演技だったのでしょうか?ハナコ、こと太田ひさは生涯に一度の恋に破れて、デンマーク人興行師ゼー・ウィルガード率いる旅一座に加わり欧州に旅立つ。明治35年のことである。それから大正10年迄、約20年間一大センセーションを巻き起こし続けたのです。当初は一座のペエペエでしたが、ロイ・フラー女史の目に留まり、大いなる道が拓けたのである。
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この写真がロイ・フラーで、別になんと言うこともないフツーの女性のように見えますが、彼女は一世を風靡したコンテンポラリー・ダンサー(現代舞踊家)だったのです。彼女は時代が何を求めているかを肌感覚でわかる多才な人だったようで、御覧のように白い絹のドレスの両袖に付けた棒を縦横無尽に振り回し蝶々のように舞い、赤や青、更に黄色や緑の照明を当て幻想的な雰囲気を醸し出す舞踏で衆目を釘付けにしていたのです。それ迄、舞踏の舞台は薄暗いのが定番だったそうですから、舞踏に革命をもたらしたと絶賛を博した由。
御覧の写真がカラーでないのが残念です。
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そして彼女は現役引退後、プロデューサーというか、興行師となり辣腕をふるっていたのですが、ハナコの舞台を見、直感でこの人を主役にすれば売れると睨んだのです!
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この3葉の写真ではハナコがどのような女優であつたのか分かりかねますが、悲劇も喜劇も、シリアスなものもコミカルなものも、どちらもこなせたそうです。イタリアの季刊誌「東洋の緞帳」にロイ・フラーの回想として、次のように書かれています。

この一座の大役はすべて男優が独占していたのである。にもかかわらず、私の眼にとまったのは彼女ただひとりであった。(ハナコが)演じていたのはほんの端役であったが、こまねずみのように駆け回りながら愛嬌をふりまく、その仕方は、インテリジェンスに満ち、かと思うと、突然表情を変えて、恐怖に全身を硬直させる迫真の演技もやってのけた。しかも容姿は端麗で愛らしい顔立ちをしており、ちょっと日本人離れをしていた。
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又、フラーは自身の「回想録」で、次のようにも評しています。

<恐れおののく子供にも似た、細やかな、微かな仕草や、あるいは傷ついた子鳥のような叫び、ため息などと共に、彼女はくづれ折れ、その小柄な身体は、刺繍を施した豪華な和服の中に、ほとんど埋まってしまうのだった>
更に、フラーはこう表現している。
<身体は石のように動かぬまま、眼の輝きのみが強烈な生命力を伝えたかと思うと、すすり泣きが全身をゆさぶり、突然絶叫すると、一拍おいてもう一度絶叫、その声は長く響いて最後にはため息となり、ひとみも大きく見開いて、近づく死を見つめながら、がっくりとのけぞる。何とももの凄い演技であった>

このようなハナコの顔を彫刻として創造したのが、ロダンの<死の首>と言われる作品です。
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この他、ロダンはハナコをモデルにし<ハナコのマスク>等を創作しています。
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小山内薫など当時の日本人知識者がハナコを取るに足らない芸者あがりと見下したのに反して、ロイ・フラーもロダンも賞賛しています。ロダンはハナコに、「日本ノ宝石」と題したこんな詩を贈っています。

キミは、ハナコの芝居を見るとき、ひとことの日本語もいらない
そこにキミは、すべてを演じきる天才と輝ける明晰さと生気とを発見するだろう
このような生き生きとした魂、優美な道化をみたことがあるだろうか?
彼女は小さい、しかし偉大だ!
もし疑うなら、ボクとアンバサダーズ劇場にきてみるがいい
もしボクが、大げさだとおもうなら


東洋女性をモデルに!と渇望したロダンやハナコで興行を打ち一儲けしようとしたロイ・フラーなど幾ばくかの利害絡みがありそうな人物だけでなく、多くの人達がハナコの演技を的確に評価しているのです。
一例をあげますと、大野芳さんの「マダム・ハナコ」の159Pには、スタニスラフスキーと双璧をなす演出家であり、辛口の演劇評論家であるH・エヴレィノフの「ラブコール」と題した評論が紹介されています。
この評論「ラブコール」は、昭和62年に発表された『共同研究 日本とロシア』(安井亮平編)に収録されている坂内徳明さん(ばんないとくあき 一橋大学副学長 社会学博士)と亀井郁夫(かめいいくお 前東京外国語大学学長 ロシア文化・ロシア文学博士)の論文「ロシアの花子」紹介されているのです。一寸長いのですが、引用させて頂く前に、ハナコ贔屓の私としては、この埋もれていたエヴレィノフの評論を見つけ出して下さった坂内先生(写真下右)と亀山先生(写真下左)に感謝と敬意を表し、画像を謹んで掲載させて頂きます。画像画像













さて、その「ラヴレター」と題しての濃厚な評論は・・・

<ぼくはきみの芸術に魅了されてしまった、やさしい魅力あふれる花子よ! きみは美人でもなければ、もはや若くもないが、そんなことくそくらえさ。舞台の上で美と若さとを体現してみせるきみのなんと美しく、若々しいこと! 小柄で、滑稽で、胸に迫る花子よ! ぼくは呼びかけるつもりだ、わが老廃せる舞台の女優たちがこぞってきみに見惚れ、きみから学ぶようにと。なぜなら、きみは”小賢しき”作者やら高価な衣装やら細々した舞台装置をあてにするでもなく、かくも新鮮で、かくも真に舞台的で、かくも魅力的に美しいおのれの芸のみを頼りとしているのだから。ああ、わが国の女優たちのせりふ術ときたら、きみの芸に比べなんと荒削りなものか。それにミミック(道化)や身のこなし方! きみを見てぼくは、スカラムーシ(道化役)の意味とその天才的なる十五分間のポーズがついに会得できたというわけだ!おかしな話だ。菊や蓮の花に飾られた、きみの才能に劣らず魅惑的なきみの国の言葉も知らぬぼくが、きみの役柄を理解したというのだから!>

如何でしょうか、これ程の賛辞を受けた女優さんの演技を生で見てみたいと思いませんか!? でも、それは最早叶わぬ夢、憧れなのです。生で見たと言えば、モスクワ芸術座の俳優さんたちは、スタニスラフスキーが花子を招聘し、ハナコは色々な演技を披露しているのです。女が懐剣で自害するシーン、様々な笑い、憤怒の型、愁嘆場の表情、それぞれの情景を演ずる娘や老婦人等々・・・。演じ終えるや否や、「ブラボオ!!!」と祝福の声がとめどなく繰り返され、チエホフ夫人が率先して立ち上がり、スタンダップオベイションを、皆に先んじて拍手の口火を切られたそうです。
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上の写真はチエホフ記念モスクワ芸術座で、下は劇作家チェーホフを囲んで『かもめ』の内容を聞いているモスクワ芸術座の団員たちです。中央で本を広げているのがチエホフ、その右後がスタニスラフスキーです。ハナコはこんな人達に演技の模範をお見せしたのでしょう。
そんな花子さんの存在が、嬉しくなる私なのです。

袖触れ合うも多生の縁306~久しぶりにロダンのモデルとなった女優ハナコに再会しました!?

久しぶりにハナコと再会したと言っても、ご本人ではなく、女優ハナコさんについて書いた本となのです。当然や、ハナコさんは明治元年4月15日に生まれ、昭和20年4月2日に77歳でお亡くなりになっておられるのですから。
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上の写真は女優ハナコのブロマイドと晩年のお姿ですが、私が久々に袖触れ合ったのは、大野芳(おおのかおる)さんというノンフィクション作家の「マダム・ハナコ」(写真下)なる著書なのです。
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処で、私が最初にハナコと出逢ったのは、森鴎外が明治43年に書いた短編小説「花子」(写真下)です。
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この小説では医学生の久保田が通訳としてハナコに付き添うという設定で展開されていますが、半ばから引用させて頂きますと・・・

久保田は花子を紹介した。ロダンは花子の小さい、締まつた体を、不恰好に結つた高島田の巓から、白足袋に千代田草履を穿いた足の尖まで、一目に領略するやうな見方をして、小さい巌畳な手を握つた。
久保田の心は一種の羞恥を覚えることを禁じ得なかつた。日本の女としてロダンに紹介するには、も少し立派な女が欲しかつたと思つたのである。さう思つたのも無理は無い。花子は別品ではないのである。日本の女優だと云つて、或時忽然ヨオロツパの都会に現れた。そんな女優が日本にゐたかどうだか、日本人には知つたものはない。久保田も勿論知らないのである。しかもそれが別品でない。お三どんのやうだと云つては可哀さうであらう。格列荒い為事をしたことはないと見えて、手足なんぞは荒れてゐない。併し十七の娘盛なのに、小間使としても少し受け取りにくい姿である。一言で評すれば子守あがり位にしか、値踏が出来兼ねるのである。

意外にもロダンの顔には満足の色が見えてゐる。健康で余り安逸を貪つたことの無い花子の、些の脂肪をも貯へてゐない、薄い皮膚の底に、適度の労動によつて好く発育した、緊張力のある筋肉が、額と腮の詰まつた短い顔、あらはに見えてゐる頸、手袋をしない手と腕に躍動してゐるのが、ロダンには気に入つたのである。


この後、ロダンはハナコに衣服を脱ぎモデルになることを要請し、ハナコはあっさりと承諾する。そしてロダンがハナコをエスキス(スケッチ)する間、久保田は場を外し書斎にあったボードレールの本を読んでいたのだが、スケッチし終わったロダンが書斎に顔を出してからのやり取りは、以下のように描かれています。

「ボオドレエルの何を読みましたか。」 「おもちやの形而上学です。」
「人の体も形が形として面白いのではありません。霊の鏡です。形の上に透き徹つて見える内の焔が面白いのです。」
久保田が遠慮げにエスキスを見ると、ロダンは云つた。「粗いから分かりますまい。」
暫くして又云つた。「マドモアセユは実に美しい体を持つてゐます。脂肪は少しもない。筋肉は一つ一つ浮いてゐる。Foxterriers の筋肉のやうです。腱がしつかりしてゐて太いので、関節の大さが手足の大さと同じになつてゐます。足一本でいつまでも立つてゐて、も一つの足を直角に伸ばしてゐられる位、丈夫なのです。丁度地に根を深く卸してゐる木のやうなのですね。肩と腰の濶い地中海のtype とも違ふ。腰ばかり濶くて、肩の狭い北ヨオロツパのチイプとも違ふ。強さの美ですね。」

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このシーンのスケッチは多分この画像のようなものだったのでしょうか。それは兎も角、大野芳さんは「マダム・ハナコ」の19Pで、以下のように書いておられます。

明治の半ばにドイツに留学した鴎外と花子との接点はまったくない。しかし外国の新聞や雑誌を取り寄せて購読していた鴎外は、花子がロダンのモデルになっていることを知っていたのだ。そしてグラビア写真でみた「子守りあがり位にしか値踏みできない」花子を、臆せず裸になる゛はすっぱ゜な女として描いた。これが当時の、エリート知識人の認識だったのであろう。

私も20歳半ばの頃、この小説を読んだ時、そのように思ったのを記憶しています。つまり、医学生久保田を鴎外と見ていたのですね。しかし今読み直してみると、医学生久保田は若かりし頃の自分で有り、小説執筆時48歳(60歳で死去)だった鴎外は、この時既に晩年だと思っていたでしょうから、自分をロダンに託していたのではないか・・・そう思えるのです。
そう捉えると、花子を見下げているのではなく、「人の形は霊の鏡です。」とロダンに言わしめているように、勇躍欧州に飛び立ちセンセーションを巻き起こした女優花子の魂を褒め称えているのではないでしょうか!?
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因みに三島由紀夫は、森鴎外の代表作として「百物語」と「寒山拾得」、そしてこの「花子」を挙げているのですが、鴎外=ロダンの視点に立つと、この短編の見方が一変し、三島由紀夫が賛辞を呈しているのも納得できるよな・・・そんな私なのです。ではでは、次回もこのハナコさんについてもう少し蘊蓄を傾けたいと思います。

袖触れ合うも多生の縁305~とざい、とーざい 東西両本願寺譚にござりまする!

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上の写真は西本願寺と東本願寺ですが、タイトルの「とざい、とーざい」というフレーズは、東西声(とうざいごえ)と言い歌舞伎や人形浄瑠璃の序びらき、口上の前などに用いられる開始の合図です。江戸期、照明のない時代の劇場は舞台に太陽光線を受ける為、通常南に向かって建てられています。ですから(客席側から見て)客席の右端は東、左端は西で、お客様への呼びかけを「とざい、とうざい」と言うようになったとか。口上につきものの「隅から隅まで」とほぼ同じ意味ですね。
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それから余談ですが、ちんどん屋のことを東西屋とも言いますね。抑もチンドン屋(チンドンや)は、チンチンドンドンと鳴るチンドン太鼓という楽器を鳴らし、宣伝文句の口上を面白おかしく言い立てたのですが、道行く人達に呼びかける冒頭に東西声を用いたので、東西屋とも呼ばれるようになったのです。
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又々余談ですが、東西と言えば東西冷戦、東西冷戦など若い人達には昔のことでしょうね。でもしかし、東西冷戦の終わった今も、世界中で紛争は絶えず、この国も戦争の出来る国となり、右肩上がりの経済最優先、バブルよもう一度など甦る筈もない見果てぬ夢を追い求めている内に、歩一歩戦争に向かっているようで気がかりなことです。ま、気を取り直し本願寺について一寸筆を進めてみましょう。私の家の宗旨は浄土真宗本願寺派(西本願寺)ですが、私はどの宗教、どの宗派も侵攻してはいません。しかし、スピリチュアルな宗教的感性人間だと思っております。ま、それは兎も角、本願寺は何故東と西に別れているのか?秀吉と家康が関与しているのですが、ブログ「Taptrip」の解説を要約しますと・・・
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時は文禄元年(1592年)に遡ります。当時の「龍谷山本願寺」(後の西本願寺)11代目住職顕如が亡くなったので、時の将軍豊臣秀吉は顕如の遺言に従い、10年後三男の准如(和睦派)に住職を継がせるよう、臨時住職であった長男の教如(抗戦派)に申し立てます。教如は秀吉の申し立てに納得しましたが、教如を取り巻く抗戦派の面々は黙って居ず、秀吉の怒りを買い追放されてしまいます。そして隠居生活を強いられた教如は嘗てから交友のあった徳川家康に接近し、慶長7年(1602年)、家康から烏丸七条に寺地を寄進され、ここに真宗大谷派本山の「真宗本廟」、所謂東本願寺を建立したのです。かくして浄土真宗の2大総本山が現在のJR京都駅近くに佇み続けているのです。
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処で、両西と東の本願寺はどう違うのでしょうか?両本願寺の宗祖は共に親鸞聖人で、11代目迄は同じ思想で同じ釜の飯を食べていたのですから、言い回しや祭壇の飾りつけ等に微妙な違いはあるものの、宗教的思想にほとんど違いはないのです。
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東西本願寺画像比較を検索してシェアさせて頂きましたが、どこが違うねん、殆ど同じやないか、ようわからんわ・・・というのが皆さんの思いでしょうね。私もそうですが、一番大きな違いは、門徒なら一日に何度も唱える「南無阿弥陀仏」の発音が違うのです。西本願寺では「な"も"あみだぶつ」、東本願寺では「な"む"あみだぶつ」と発音するのが一番大きな違いだとか。私は知らなかったので、ホンマかどうかお西さんに問い合わせてみますわ。 え、<も>と<む>て、そない大した違いやないがな・・・と仰るかも。門徒やないお方はそうでしょうね。私の家の宗旨はお西さんですから、もし確認してそやったら、墓参りした時は「なもあみだぶつ」と唱えることにしますわ。あ、そう言えば私が西本願寺の御影堂に上がらせてもろてる時、お剃刀式が行われてましたが、皆さん「なもあみだぶつ」と唱えてはったような気がしてきましたです、ハイ。
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お剃刀式(帰敬式)とは、阿弥陀如来と親鸞聖人の御前で浄土真宗の門徒としての自覚をあらたにし、お念仏申す日暮を送ることを誓う最も大切な儀式なのです。 この帰敬式を受式され、仏弟子となった方には本願寺住職(ご門主さま)より法名が授与されるとか。若い女の子も結構仰山お剃刀式を受式してはって、仏教は葬式仏教に過ぎないと言われて久しいですが、まだまだ生きているんやなと思いを新たにした次第です。


袖触れ合うも多生の縁304~野球審判の判定ジェスチャーは手話から始まったのです。

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60年前の私は野球少年でしたが、審判の判定ジェスチュアが手話からきているなんて全く知りませんでした。しかし先日、ニュージーランドでは手話が公用語になっていると知り、その関連資料を検索していると、下の図書を見つけたのです。
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このナンシー・チャーニン:文、ジェズ・ツヤ:絵、斉藤洋:訳の学童図書によりますと、大リーグに聴覚障がい者のウィリアム・ホイという選手がいて、彼が審判に「判定が聞こえないから身振りで示して欲しい」と頼んだ事から審判員のジェスチュアは始まり、更に監督の指示を選手に伝える為、相手に内緒の仕草を使い始めたのがサインなのだそうです。ところで、ウィリアム・エルズワース(ダミー)・ホイ(William Ellsworth "Dummy" Hoy)は1862年5月23日 生まれで 1961年12月15日に亡くなっていますから、享年100歳だったんですね。彼はアメリカ合衆国オハイオ州フックスタウン出身のプロメジャーリーガー(中堅手・右投げ左打ち)で、聴覚障害を抱えながら通算2000安打と600近い盗塁を記録、アメリカンリーグ初年度の優勝メンバーの一人となった結構スゴイ選手なのです。
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Wikipediaによれば、ホイはオハイオ州の農場に生まれ、3歳の時に髄膜炎が元で聴覚障害となり、1872年にオハイオ州の聾学校に進学し、1879年に卒業する際には卒業生の総代をつとめたとか。当時他の聴覚障がい者がそうしたように、彼も靴屋を開き、店の合間に近所の子供達を集め野球をしていたそうですが、1886年頃プロチームから勧誘されたのをきっかけに、ウィスコンシン州のオシュコシュ球団に所属、2年後の1888年にナショナルリーグのワシントン・ナショナルズ(当時)に入団し、メジャーの選手となったのです。ホイに対し審判が一定の動作でボール・ストライクなどの判定を伝えるようにしていたことが、後年ビル・クレムにより、審判員の判定動作が体系化されるに至るきっかけになったのです。
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又、中村和彦さん(写真上)のサッカー狂映画監督のブログによりますと、「サイン・オブ・ザ・タイム」というアメリカのドキュメンタリーを見たが、野球審判員のアウト・セーフ、ストライク・ボール等、今では常識になっているジェスチャーの起源を探る作品だった。そしてその起源に聴覚障害者の野球選手であったダミー・ホイが大きく関わったらしい。観客にとっても審判が声だけでなく、ジェスチャー付きだと遠くからもわかり、ベースボールの隆盛につながったようだ。手話の勉強を始めた時、まるで野球のサインのようだと思ったのをよく覚えている。とコメントされています。因みに手話のアウトは、右手で指文字の”た”を作り、下図のように前方に出すのです。
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それからセーフは、下図のように両の掌を下に向け左右に勢いよく開きます。
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それから阪神タイガースは、両手の指先を折り曲げ、下図のように両手を口元から左右に開きます。(虎のひげを表しているのです。)
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話しが阪神タイガースのことに及ぶと、子供の頃からのタイガースファンである私は、嗚呼!という心境の現在なのです・・・。


袖触れ合うも多生の縁303~ニュージーランドの国鳥キーウイとキゥイフルーツのカンケーは!?

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キーウィはニュージーランド固有の鳥で、ニュージーランドにしか生息していませんし、その憎めない姿から人々に深く愛され、ニュージーランドの国鳥になっているのです。因みに日本の国鳥はトキ?いえ、キジなんです。渡り鳥でない日本固有の鳥はキジとヤマドリだけで、キジは古事記や日本書紀にもキギジとの名前で書かれているとか。キジのことはさておき、ニュージーランド人の愛称は「キーウィ」で、「キーウィ・イングリッシュ」と言えば、「ニュージーランド人の英語」を意味しますし、コインにキーウィの姿が描かれています。
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処で、キーウィという名前は、オスの鳴き声がそのように聞こえることからマオリの人が名づけたもので、そしてニュージーランドを代表する果実であるキウイフルーツが、アメリカへ輸出されるようになった時、見た目が丸く茶色くて鳥のキーウィに似ているという理由から、国鳥「キーウィ」の名前を貰い、1959年にキウイ、キウイフルーツと命名されたのです。
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御覧の写真に見られるように、キーウィには羽がありません。キーウィには敵がほとんどいないので、空を飛び逃げる必要がなくなった為、翼は退化したのです。翼が使えない分、足はとても発達し、同じくらいの大きさの鳥に比べてとても丈夫な足で、ダチョウほど速く走ることができるとか。 このキーウィの羽がなくなった謂われについて、「マオリ族」の間ではこんな伝説が残っているそうです。

ある日、森の王が森の中を歩いていると、木々がとても病んでいることに気付きました。地面で暮らす虫たちによって食べられていたのです。森の王は、空の王である実の兄に「このままでは森が死んでしまう」と相談をしました。空の王は、空に住む鳥たちを一堂に集め、「地上で虫を食べて森林を守ってくる鳥はいないか?」と問いかけたのです。 しかしどの鳥も口を開くことはありませんでした。そこで空の王はキーウィに頼んでみました。すると、キーウィは空の王の願いを聞き答えました。「参ります」と。森の王と空の王は大層喜びびました。しかし、キーウィが地上で生きていくには翼を捨て、強い脚を持たなければなりません。元々キーウィは美しい翼を持っていたのです。二人の王は、地上へ降りる覚悟があるか、改めてキーウィに確認しました。するとキーウィはやはり「参ります」と答えました。これに対し空の王は「大いなる犠牲によって、森で最も愛される鳥となるだろう」と賛辞を送りました。こうして、キーウィは現在の素朴な見た目になり、願いに応えなかった鳥たちも「キーウィを見習うように」と綺麗な羽を奪われてしまったのでした。 ニュージーランドにはこのような訳で、キーウィの他にも「プケコ」「タカへ」などの飛べない鳥がいるのです。
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(写真上の上がブケコ、上の下がタカヘ)元来ニュージーランドの国土は、コウモリとオットセイ以外の哺乳類が存在しない島でしたから、鳥たちは外敵から飛んで逃げる必要がなく、多くの鳥の羽が退化してしまいました。ところがマオリ人の到来やヨーロッパ人の入植とともに森が開拓され、外敵となる哺乳類が持ち込まれたことで、飛べない鳥たちが捕食され個体数が激減し、多くの鳥たちを絶滅に追い込んだという悲しい歴史があり、キーウィも現在では絶滅危惧種に指定されています。その為、近年ではキーウィを繁殖させて森に戻すためのプロジェクトが全国各地で行われています。クイーンズタウンのキーウィ・バードライフパーク(写真下)やロトルアのキーウィ・エンカウンター、クライストチャーチのウィローバンク野生動物公園などはその代表的な施設で、キーウィを見学することも出来るのです。
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因みに日本では、大阪の天王寺動物園で、キーウィに逢うことが出来るのです。
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あ、そうそう、9月1日はキウィの日だそうですが、ご存知でしたか?ま、これはワタシのアタマがたまたま横道に逸れて思い出しただけですが、一度天王寺動物園のキーウィを見に行こうかな・・・と思っています。でもキーウィって本来夜行性ですから、昼間行ってもアカンのと違うかな???

袖触れ合うも多生の縁302~来世で又お逢いしたい名物男、村田弘道さんを偲ぶ会が催されました!

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御覧の写真が村田弘道さんです。先週の土曜日、台風25号が来るかも知れないという真夏の再来を思わせる暑さの上に暴風か強風に襲われるかも・・・とシンパイになるややこしい日に京都へ足を運びました。村田さんを追悼する会の前に、前から見てみたいと思っていた東西本願寺に足を運びましたので、石見銀山群言堂製の白っぽいバンド・シャツにジーパンというラフな取材スタイルを多少気にしながら会場に入った処、皆さんは喪服ではなかったもののダークな色合いのスーツやジャケットでした。余談ながらバンド・シャツとは下の写真のようなものです。(シャツを着てる人はモデルさんで私やおまへん)
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こないなシャツなんで私だけ些か違和感ありでしたが、まあ、村田さんなら、「かめへん、かめへん、亀で噛むのはスッポンだけや。」と訳の分からん駄洒落で笑ろてくれるやろと自分で自分をナットクさせた次第です。
処で、村田さんがお亡くなりになる2ケ月前、多分今年の4月頃だったと思いますが、電話を頂いたのです。

「いやな、東京に居る孫から電話がかかってきてな、お爺ちゃんのこと書いてるブログ見つけた。原彰いう人や、て教えてくれたんや。それで慌てて見たんやけど、感動したんで電話させて貰ろたんや。」

因みに、村田さんが御覧になった2012年秋のブログを再録致しますと・・・

村田弘道さんはABC朝日放送の名物プロデューサーで、ABC退社後も「彩館」という制作会社でユニークな番組を作り続けてきたお人です。

ABC時代には、午後2時からのワイドショー枠を定着させ、<プラスα>では「とにかくおもろうせえ!」と乾浩明アナにハッパをかけ続け、「晴れときどきたかじん」では危険を顧みず爆弾男たかじんのトークを全開させ、「彩館」では、<たかじんのバー>で酒を飲みながらぶっちゃけトークをするという前代未聞のタブーを畏れぬ番組をやってのけたのです。

そんな破天荒な村田さんは数々のエピソードで知られていますが、入社する時、「ABCに絶対入りたい、入れてくれへんかったら帰らへん!」と駄々をこね玄関前に座り込み、当時の社長が困り果て入社させたとか。
又、地方出張と奥さんに嘘をついて大阪のホテルで浮気をし、アリバイづくりとして梅田阪神百貨店横の地下にある地方名店街で土産を買い、奥さんに渡したところ、梅田地下名店街の領収書が入っていてバレバレで、きついお灸をすえられたとか・・・

そんな村田さんと出逢ったのは、「エキスタ女学院」でした。大阪駅ビルの梅田大丸にオープンスタジオ・エキスタ(駅のスタジオ・・・安易なネーミングやなぁ)が出来、奥様やお嬢さんを生徒として募集し、授業形式の番組(村田さんにしてはマジメやないか!?)をやるから構成をやれという電話がかかってきたのです。私はそれ迄村田さんにお逢いしたことはありませんでした。電話がかかってきた時私は不在で、電話に出たうちのヨメさんに、「なんでわしが電話をかけとるのに原はおらへんのや!?」とのたもうたそうです。フツー、一面識もない人の家に電話して、そんな事言いませんわナ。

それは兎も角、その番組が2年で終わり、それ以後30年、賀状のやりとりはしていたものの、お会いすることはありませんでしたが、私がBATを立ち上げたのがきっかけで、エキスタ時代のスタッフや生徒が集うようになったのです。村田さんは昨年、大腸ガンの手術から生還され、「村田弘道さんの快気祝い」をやりました。今年は昨年の手術跡がヘルニアになり、目下その手術で入院されています。ですから、退院され体調が回復されたら、「村田弘道さん、再度の生還を祝う会」をやるつもりです。
村田さんをご存じの方、村田さんが無事生還されるよう、念じて下さい!

しょうもない冗談言いの村田さんは、昨年、手術後「ガスが出ましたか?」と看護士(彼が相手にするのは看護婦さん)に聞かれ、「はい。大阪ガスが出ました。」と答えたそうですが、今年はもうちょっとましなジョークにしてえな!


このブログがある意味で、村田弘道さんの人生の一コマをラフスケッチしたみたいだったからでしょうか、村田さんは電話を切る前にこう仰いました。

「わしな、自叙伝を書いてたんやけど、疲れてもて止めてるねん。」
「そやったんですか。又元気出して続きを書いて下さいな。数年前、3・11の後原発反対のレポート書いて送ってくれはりましたやん。自叙伝も書き上げて是非送って下さい。」
「そやな。書き上げたら出版するつもりや。そやけど書き終えられるかどうかわからんわ。もし出来たら送るけど、あてにせんといてや。」


これが村田さんから私が聞いた最後の言葉でした。
最後の言葉の前に、貰った平成二十五,年三月に書かれた原発レポートの一端をご紹介しますと・・・
私は敢えて言う! 子孫のために!『 爺さんの反原発考 』
なるタイトルで、原発が如何に危険であるか!即廃止すべきであるか!を力説されており、村田さんの熱く激しく強い想いを感じ、心を打たれたのです。特に私の心を揺さぶったのは、最後の言葉でした。それは・・・
最後に田中正造の言葉を記して、私のレポートを完とする。
「真の文明は山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし」

でした。

さて、村田さんの自叙伝は30頁くらいで未完だとか、だから私が代筆という訳では有りませんが、村田さんについてもう少し知りたく、PCで彼のプロフィールを調べてみました。
○1931年、石庭で有名な龍安寺の姉妹寺である亀岡市の禅寺 龍潭寺(写真下)に生まれる。
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○同志社大学卒業後、中学校教師、児童養護施設指導員、大映撮影所を経て朝日放送入社。
中学の先生であられたことや映画会社におられたのは全く知りませんでした。
あ、そうそう、村田さんはユニークなTVプロデューサーでありながら、児童養護施設「青葉学園」の理事長として福祉の面でも大いに貢献されていたのです。その学園は昭和22年4月に臨済宗妙心寺派の禅寺、龍潭寺第23代住職江口快翁和尚(故人)が非行少年を救済しようと、学園の母体である龍潭寺の裏山に創設されました。
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昭和20年8月、日本は敗戦国となり国土は荒廃し社会情勢も混沌とした時代でした。快翁和尚は『こんな時代やからこそ、何かせんと宗教家として一生悔いが残る』と言い、周囲の反対にも屈せず寺の納屋を篤志家から集めた寄金で改築し、巷に溢れていた非行少年を保護育成したのが始まりだそうです。そしてそれから40年、創設者快翁和尚も、2代目園長・理事長の宗道和尚も遷化され、又、60年に理事であられた金閣寺住職村上慈海師も旅立たれ、後任に快翁和尚の義弟村田弘道さんが理事に、更に62年4月、朝日放送勤務の傍ら理事長に就任されたのです。その頃園舎も老巧化し、児童の養育に支障を来たす状態だったので、村田理事長・川勝和幸園長のコンビは当時の理事各位の支援のもと、新園舎建設の大事業を始め、平成3年度国庫と府の補助金及び後援者の寄付、多額の社会福祉医療事業団からの借入金等で、 旧園舎前に3棟 定員60名の新園舎を完成させました。資金調達の為の寄付金集めに理事長や後援者がチャリティイベントを何度も開催したり、篤志家を訪問するなど東奔西走されたそうです。
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そして平成4年3月、新築園舎が完成(3棟定員60名)し、それ以後も新園舎(小舎制園舎)を完成させました。
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TVプロデューサと理事長の二足の草鞋を履き、丸25年もフル活動し続け、平成23年4月に村田理事長は退任されたのです。本当に本当にご苦労様でした。ほんまにほんまにお疲れ様でした。
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村田さんは今年6月、享年88歳、米寿であの世に旅立たれたとお聴きした時、「嗚呼、さすが村田さんや、仏兄(さとえ、81歳の異称)はとうに超えてはる!」と私は感慨深かい想いがしたのです。仏兄というのは、お釈迦様が80歳で亡くなられたので、その歳を超えてお釈迦様の兄、仏様の兄さまになったとの意味で、悟りを開いた者(釈迦牟尼)の兄と称える言葉なのです。
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余談ながら、この言葉は死語に近く辞書にも余り載っていませんが、芭蕉と並び称される伊丹の俳人上島鬼貫は、上島仏兄と号していたことがあるのです。それは兎も角、村田さんは悟りを開いておられたようで大往生だった由。
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おい、村田さんが大往生の話しになんでステーキと鰻重の画像が出てくるねん!? 喰いじがはるのは煩悩も煩悩、、一、二を争う煩悩の親玉やないか・・・と思いはるでしょうね。でも、村田さんの奥様のお話だと、その日の晩ご飯にステーキを用意していたところ、子供達がやってきたので、「ほな、鰻重とれや。」とダンナさまが言うので、夫唱婦随で鰻重にし、用意していたステーキも食べたとか。食べ終えた村田さん、「わし、こんな旨いもんばかり喰うとってええんかいな・・・」と宣うたのが最後の言葉だったそうです。私の思うにウナギちゃんとモーモーさんの命に感謝、感謝、有り難いことやと心で合掌してはったのではないでしょうか。私にはそう思えるのです。そう言えば村田さんにお聞きしたのですが、村田さんのお父さんも晩酌でしみじみとお酒を味わうように飲んで、盃を持った手を膝の上に置き、こっくりこっくりしてるので、「あらら、親父、寝てもたな・・・」と思っていたら息をされていなかったそうです。「わしも親父みたいに逝きたいねん。」と仰ってましたが、そうなったやないですか。村田さん、良かったですね。

さて、このブログも長くなってきましたが、最後は村田さんと旦那様を見送られた奥様ににこんな俳句を贈りたいと思います。

『 裏を見せ 表を見せて 散るもみじ 』

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この句は良寛さんが晩年、和歌のやり取りを通じ心温まる交流を続けられた弟子の貞心尼との心の通い路を詠んだ句をまとめた歌集「蓮(はちす)の露(つゆ)」に出てくる良寛さんの言葉です。貞心尼が、高齢となり死期の迫ってきた良寛さんのもとに駆けつけると、良寛さんは辛い体を起こされ貞心尼の手をとり、「いついつと まちにし人は きたりけり いまはあいみて 何か思わん」と詠まれました。そして最後に貞心尼の耳元で、「裏を見せ 表を見せて 散るもみじ」とつぶやかれてお亡くなりになったそうです。この歌には「あなたには自分の悪い面も良い面も全てさらけ出しました。その上であなたはそれを受け止めてくれましたね。そんなあなたに看取られながら旅立つことができます」という貞心尼に対する深い愛情と感謝の念が込められているのではないでしょうか。

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村田弘道さん、もし来世でお逢いしたら飲みながら真面目な話し、例えば今生で出来なかった原発廃棄への道や、戦争の出来る国になったこの国の行方などを、駄洒落抜きで談論風発、大いに語り合いたいと思っております。
ではでは、村田さん、光iに導かれ安らかに西方浄土へ赴かれますように!
   

      


            
   







袖触れ合うも多生の縁301~ニュージーランドでは手話も公用語ですが、日本の公用語は!?

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いきなり写真をずらっと並べましたが、ニュージーラントって自然がとても美しいですよね。でも自然だけでなく、住む人々の心も美しいのです。何故私がそう思うかというと、マイナーな人達、少数派の人達をキチンと認め、差別しない制度があるからです。例えば公用語ですが、ニュージーランドには公用語が3つあります。1つは英語、もう一つが先住民の言葉のマオリ語です。日刊ニュージーランドライフによれば、ニュージーランドには2016年の時点で470万人弱の人が住んでいますが、日本でいう国勢調査にあたるCensusのデータを見ると、「自分はマオリである」と答えた人は60万人(人口の14%弱)程です。
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その60万人の内マオリ語を話せる人は更に少なく、人口の1/5にあたる12万人と言われています。つまり全体の3%くらいしかマオリ語を話せる人はいませんし、マオリ語を流暢に話せる人は65歳以上が多いので、やがてマオリ文化が廃れていくのを護るべく国をあげてマオリ語とマオリ文化を守る運動を展開し、1987年に公用語としてマオリ語が登録されたのです。因みにロトルア(写真下)ではマオリ語を今まで以上に押し出し、街全体をバイリンガル化させる動きがあり、毎年「Maori Language Week」というマオリ語推進週間があって、2017年は9月11日から9月17日まで行われました。
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マオリの話が少し長くなりましたが、ニュージーランドの3つ目の公用語は「手話」なのです。ニュージーランド手話は、主にイギリスの手話をベースにし、アメリカの手話やマオリの踊りの動きなどを取り入れているとか。
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手話を使う人達の数もマオリ同様少数だと思いますが、少数派の人達の人権をキチンと認め公用語に制定するって素晴らしいことですね。手話を使わない人達は公用語であろうとなかろうとカンケーないと思うかも知れませんが、手話を喋る人達にとっては手話が公用語として認められているのは大層心強いものがあるのです!そんな思いを叶えるべく、2006年に世界で初めてニュージーランドが手話を公用語として認めたのです!
処で日本には公用語というものがありません。ほぼすべての国民が日本語を母国語としているせいか、法律に記載がないのです。ですから、例えば国会中にアイヌ語とかを喋っても問題ないことになっています。但し裁判所では裁判所法という法律によって「裁判所では日本語を用いる」と定められているとか。この件は、朝散歩でよく出逢う知人に元裁判官Hさんがいらっしゃるので近々確かめてみましょう。それはさておき、日本は手話を公用語として登録していませんが、都道府県市町村には<手話言語条例>という、手話を言語として認め、手話が日常的に使え、ろう者とろう者以外の者が共生できる社会を目指す条例があり、2013年に鳥取県が全国で初めて制定し15府県、市町村では96市町が制定しているそうです。(全日本ろうあ連盟による)
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それから余談ですが、日本以外で日本語を公用語にしているところがあるんですよ!それはパラオ共和国のアンガウル州です。
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ここでは公用語がパラオ語、英語、そして日本語の3つです。バラオは第二次世界大戦前、日本の委任統治領でしたから、パラオ語の25%は日本語が由来になって、例えば・・・下着をサルマタ(猿股)、ブラジャーをチチバンド(乳バンド)、ビールを飲むことをツカレナオース(疲れ治す)、美味しいをアジダイジョーブ(味大丈夫)、乾杯をショウトーツ(グラスが衝突)、じゃんけんをアイコデショ、混乱することをアタマグルグル・・・と言うのだとか。
今回のブログも少々長くなり、私のアタマもそろそろ「アタマグルグル」ですので、この辺で。




袖触れ合うも多生の縁300~北方領土が未だに解決しないのは、米国の策略なのです!

前回述べたようにソヴィエトはサンフランシスコ講和条約に調印せず、日本はソ連の調印のないまま千島列島放棄に同意し、1951年(昭和26年)この講和条約を受け入れます。ですからその後の5年間、日ソの国交は無く、1956年(昭和31年)の日ソ共同宣言により日ソの国交が回復されたのです。
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処で、この日ソ共同宣言中、北方領土問題に関する重要な案件は項目(9)で、
(9)日本国及びソヴィエト社会主義共和国連邦は、両国間に正常な外交関係が回復された後、平和条約の締結に関する交渉を継続することに同意する。
ソヴィエト社会主義共和国連邦は、日本国の要望にこたえかつ日本国の利益を考慮して、歯舞群島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する。
ただし、これらの諸島は、日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする。

と書かれています。
調印式の写真には鳩山一郎首相、ブルガーニン首相とキャプションされていますが、正式に言うなら、内閣総理大臣鳩山一郎とソヴィエト連邦大臣会議議長エヌ・ア・ブルガーニンですね。そんなことは兎も角、この共同宣言の下交渉をソ連としていたのは重光葵外務大臣(当時)ですが、当時の米国国務長官ジョン・フォスター・ダレス(写真下)が重光外相(写真下の下)に、「この条件に基づき(歯舞・色丹の2島返還でよしとする意・・・筆者注)日ソ平和条約締結に突き進むならば、米国は沖縄を永久に返還しないぞ!」との主旨の発言を行い、介入したのです。具体的には<国後島・択捉島も返還要求せよ!>とソ連が絶対のめないような要求を突きつけろと、恫喝まがいの脅しをかけたのです。
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一寸待ってや、対日参戦したら千島列島を割譲したる!てソ連に内緒の話はアノネノネてこっそり約束したんはアメリカさんやないんか!? そやからスターリンはんは、千島列島は国際的に認められとる自分とこの領土や!とゼッタイ思てるわな。日本がそないな無茶なゴリ押しするんやったら、歯舞も色丹も返したらへんぞ!!平和条約なんぞ締結せんかてウチはゼンゼンかまへんのや。せいだい日本はアメリカに尻尾ふっとれ!・・・こないな具合に怒ってるのちゃうやろか!?
そう、私の大阪弁の独白のように、ソ連を日本に対し硬化させ、北方領土問題の解決を妨げ、日本人の非難が沖縄占領に向かわないようにする事と、日本人にソ連に対する敵意を持ち続けさせ、日本がソ連の友好国になったり中立政策をとること無く、アメリカの同盟国に留まらせるのを意図しての恫喝なのでしょう。まさか、と信じて頂けないかも知れませんが、元外務官僚で外交評論家の孫崎亮さんの著書「戦後史の正体」によると、こんなことは国際政治の世界では常識で、英国など植民地から撤退する時、多くの場合あとに紛争の火種を残していきます。それはかっての植民地が団結して反英国勢力になるのを防ぐ為だそうです。
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英国がインドから撤退する時は、パキスタンとの間にカシミール紛争を残しましたし、アラブ首長国連邦から引き揚げる時は、飛び地の領土を作り、領土の境界をわざと複雑に設定し、複数の首長国がいがみ合うようにしたとか。そう言えば、西パキスタンと飛び地の東パキスタン、現バングラデシュが作られたのもこのような意図に基づく伝統的手法だそうです。
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このような国際政治の伝統に則ったアメリカの思惑が、日本で成功していることを伺わせるのではないかと思わせるような(?)、ワタシが勝手に思ってるだけかも知れませんが、そんな資料が外務省HPにあったのでコピペします。
Q:1956年当時、なぜ平和条約が締結されずに、「日ソ共同宣言」という名称の条約が締結されたのですか?
A:1956年当時、日ソ両国は平和条約を締結すべく交渉を行っていましたが、我が国が一貫して返還を主張した北方四島のうち国後島及び択捉島の帰属の問題について合意が達成できなかったため、とりあえず共同宣言を締結して外交関係を回復し、平和条約交渉を継続することとして、領土問題の解決を将来にゆだねたからです。
ま、アメノカの思惑も、それに従い四島一括返還要求をする日本の外交も冷戦下では致し方ないか、と思いますが・・・
さて、北方領土問題の原典とも言うべきサンフランシスコ講和条約に於ける千島列島について外務省HPを見てみますと・・・
日本は、サンフランシスコ平和条約により、ポーツマス条約で獲得した樺太の一部と千島列島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄しました。しかし、そもそも北方四島は千島列島の中に含まれません。また、ソ連は、サンフランシスコ平和条約には署名しておらず、同条約上の権利を主張することはできません。
え、択捉・国後は千島列島に含まれてないて!? ほんまかいな?? それにソ連はサンフランシスコ講和条約に調印してないけど、国際的に千島列島はソ連領と認められてるんやないですか。あ、択捉・国後が千島列島やないて言い分ですけど、日本政府はこんな国会発言をしとるんやけど、どやねん!?
サンフランシスコ講和条約締結前の1950年3月8日の衆議院外務委員会にて島津久大政務局長が、条約締結直後の1951年10月19日の衆院特別委員会にて西村熊雄条約局長が、同年11月6日の参院特別委員会に草葉隆圓外務政務次官が、それぞれ「南千島(国後島・択捉島)は千島に含まれている」と答弁しているのです。この発言は隠しきれませんから、否定しないと外務省の見解は成り立たないので、「国後島・択捉島は千島に含まれているとの答弁がなされた当時は、条約を成立させ主権を回復する事が最優先課題であり、占領下にあって実際上政府に答弁の自由が制限されていたから。」と、1956年2月に森下國雄外務政務次官が取り消していますが、こんな取り消しが国際司法裁判所で認められるのでしょうか?尤も、歯舞・色丹に関しては、西村さんも草葉さんも、千島に含まれていないと発言していますし、アメリカ全権のダレス国務長官も講和会議の演説(写真下)で、歯舞群島は千島列島に含まないとするのが合衆国見解であると述べていますので、この2島は外務省見解のように問題なく日本固有の領土なのでしょう。
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そう、アメリカと連合国の見解がそうだからこそ、日露共同宣言の際にニキータ・フルシチョフソ連共産党第一書記(当時)は平和条約締結後に歯舞・色丹を返還すると譲歩したのでしょう。
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しかし、日ソ共同宣言から60年以上も時が流れ、ソビエト政権も変わりました。
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ロシアの首脳陣もゴルバチョフ、エリツィン、プーチンと交代しています。
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この間の交渉で、エリツイン時代に東京宣言なる文書が交わされています。
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この東京宣言について、外務省HPでは・・・
Q:1993年の東京宣言とはどのようなものですか?
A:ソ連崩壊後の1993年10月、ロシアのエリツィン大統領が訪日した際に、日露両首脳間で署名された文書のことです。この宣言は、北方四島の島名を列挙して、北方領土問題をその帰属に関する問題であると位置付けるとともに、この問題を歴史的、法的事実に立脚し、両国間で合意の上作成された諸文書、「法と正義の原則」を基礎として解決するという明確な交渉指針を示しました。その後、日露間においては、北方四島の帰属の問題を解決して平和条約を締結するという東京宣言の方針が繰り返し確認されてきています。

との見解を示しています。「法と正義の原則」を基礎として解決するというのは大変結構なことですが、この東京宣言から早25年、日ソ共同宣言に明記された歯舞・色丹の島影すら遠のいているのでは・・・とワタシは杞憂しています。
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ごく最近、と言っても2016年5月ですが、安倍総理のソチ非公式訪問の際に、
これまでの交渉の停滞を打破し,突破口を開くため,双方に受入れ可能な解決策の作成に向け,今までの発想にとらわれない「新しいアプローチ」で,交渉を精力的に進めていくとの認識を共有した。
と合意した由、今迄の発想にとらわれない「新しいアプローチ」に基づき、如何なる提案がなされるのか不明ですが、私にはダレスの恫喝を忘れ、対米従属から脱し、永年敗戦を葬り去ることからしか始まらないと思うのですが・・・。





袖触れ合うも多生の縁299~旧ソ連は北方領土だけでなく、北海道も占領しようとしていた!

前回、前々回とソフトな女性の話でしたが、又々敗戦がらみの領土問題です。え、鬱陶しいなんて言わずに、おつきあい下さい。
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ご覧の写真は上から歯舞島、色丹島、国後島、択捉島です。この所謂北方領土がソ連邦(後継国としてのロシア)の実効支配下に置かれるようになったのは、1945年8月9日にソ連が対日戦争(宣戦布告は8月8日)を開始し、日本のポツダム宣言受諾(8月14日)と降伏文書調印(9月2日)の後にも当時の日本領に侵攻を続け、南樺太、千島列島全島並びに色丹・歯舞島を占領したのです。
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本来なら、ポツダム宣言受諾か最悪でも降伏文書調印時点で戦闘を停止すべきで、正当化されない侵略行為ですし、それだけでなく56万人とも76万人とも言われる日本人を連行しシベリアに抑留しました。日本人としては、かくも不当な侵略行為に対し怒り心頭の感情にならざるを得ないかも知れませんが、ソ連にしてみれば日本の<シベリア出兵>に対する報復行為なのです。
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上の写真とイラストはシベリア出兵ですが、シベリア出兵は、私の世代でも歴史の授業で少しは聞いたことがあるかな・・・という程度ですので、Wikipediaで調べてみました。
シベリア出兵(シベリアしゅっぺい、英: Siberian Intervention)とは、1918年から1922年までの間に、連合国(大日本帝国・イギリス帝国・アメリカ合衆国・フランス・イタリアなど)が「革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する」という大義名分でシベリアに出兵した、ロシア革命に対する干渉戦争の一つです。
(中略)日本は兵力7万3,000人(総数)、4億3,859万円から約9億円(当時)という巨額の戦費を投入。3,333人から5,000人の死者を出し撤退した。アメリカが7,950人、イギリスが1,500人、カナダが4,192人、イタリアが1,400人の兵力を投入。ソビエト・ロシア側の兵力・死者・損害は現在まで不明だが、ある資料では死傷者8万人、6億ルーブル以上の被害とされている。

シベリア出兵は、出兵した連合国の一員たる日本人には遠い昔のことでしょうが、甚大な被害を被った側、ソヴィエトの人々にとっては子々孫々に伝え続けなければならない恨み骨髄の大事件で、ヤクザなら、「どない落とし前をつけてくれるねん!?」ちゅうところなのでしょう。この落とし前をつけたい怨念については後に触れますが、話をサンフランシスコ講和条約に転換させますと、この条約の第二章第二条(c)は・・・
日本国は千島列島並びに日本国が千九百五年九月五日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。
と定められています。(写真下はポーツマス条約)
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処で、この第二条(c)項は、大変問題があるのです。南樺太は日露戦争の結果ポーツマス条約にのっとり、日本がロシアから獲得したものですが、千島列島はそうではありません。いつの時代からとは特定出来ませんが、太古より日本人は南から千島列島を北上し、ロシア人は北から南下しており、領土は確定していませんでした。でも、1885年(安政2)2月7日に結ばれた日魯(露)和親条約(別名下田条約。写真下)により国境線は択捉島と得撫島(ウルップ島)の間に定められたのです。
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しかし、樺太については国境線を定めることが出来ず、両国民混住の地とされました。そして明治7年(1874年)3月、樺太全島をロシア領とし、その代わりに得撫島(ウルップ島)以北の諸島、千島18島を日本が領有するという樺太・千島交換条約が締結されたのです。
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その後、1895年(明治28年)に締結された日露通商航海条約(写真下)で日魯和親条約など総て無効になりましたが、この条約の補則で樺太・千島交換条約は有効と確認されています。
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このように千島列島は平和裡に日本領土へ編入されたものなのに、連合国側は日本側に千島列島の放棄を押しつけ、吉田政権(当時)はこの条文を呑まざるを得なかったのです。その裏には、1943年11月のテヘラン会議で米国のルーズベルト大統領がソ連のスターリンに対日参戦を求め、1945年2月のヤルタ会議で、参戦の見返りとして南樺太及び千島列島の引き渡しを密約していたのです。このヤルタ密約以後、ソ連が対日参戦する迄の経緯をもう少し見てみると・・・
ヤルタ会談の2カ月後、ルーズベルトは急死し、副大統領から大統領に昇格したトルーマンが終戦工作を進め、8月15日スターリンに対しソ連が受理する地域を規定した「一般命令第一号」を送付します。それはヤルタ密約とは異なり、南樺太は含まれているものの千島列島は含まれていなかったのです。この内容を大いに不満としたスターリンは翌16日、トルーマンに次のように要求を突きつけます。
(1)日本軍がソ連軍に明け渡す区域に千島列島全土を含めること。これはヤルタ会談における3カ国の決定により、ソ連の所有に移管されるべきものである。
(2)日本軍がソ連軍に明け渡す地域には北海道の北半分を含むこと。北海道の南北を2分する境界線は、東岸の釧路から西岸の留萌までを通る線とする。なおこの両市は北半分に入るものとする。

スターリンは北方4島を含む千島列島全島の領有を挙げたのみならず、北海道の半分を要求したのです。彼は北海道の占領は日本のシベリア出兵に対する代償であると主張したのですが、トルーマンから北海道北部のソ連占領を認めない旨の返書が18日に届きます。スターリンはそれを無視、同日千島列島北端の占守島上陸作戦を開始、北海道への侵攻を目指しましたが、占守島を護る日本軍の激しい抵抗に遭い、千島列島及び歯舞・色丹は占領したものの北海道には侵攻出来なかったのです。近現代史研究家の水間政憲氏は、ソ連の「北海道・北方領土占領計画書」を山形県鶴岡市のシベリア資料館で発見し、『正論』平成18年11月号にその内容を発表しています。これを読むと、ソ連は北海道の半分どころか、あわよくば全島の占領を目論んでいたことが分かります。これがシベリア出兵の落とし前なんや!
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日本にとっては不幸中の幸いで、スターリンの北海道占領という目論見が空振りに終わり、樺太と千島列島はソ連に譲渡されるべきと認められたものの、サンフランシスコ講和会議に中華人民共和国が招聘されなかったことや条約締結後も米軍が引き続き日本に駐留する内容である為、ソ連はこの条約調印を拒否したのです。この条約では千島列島の範囲は明確になっていませんが、ソ連の調印のないまま日本は千島列島放棄に同意し、サンフランシスコ講和条約を受け入れます。敗戦国としては受け入れざるを得なかったのでしょうが、この千島列島放棄に同意したことが後々大きな問題になるのです。次回はこの長引いている大きな問題、北方領土についてですが、この問題が未だに解決していないのは、な、な、何とアメリカの策略なのです!ではでは次回に続きます。
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袖触れ合うも多生の縁298~今、私の心を和ませてくれる人達の一人、それは・・・!?

ワタシは今数え歳の喜寿で、それなりに長い人生を歩んできたのですが、20数年前に袖触れ合ったある人のことを思うとほのぼのと心が和み暖められ、人と人との出逢いって捨てたもんじゃないなとしみじみ思うのであります。数ヶ月前だったか、「竹内早苗さんからメッセージが届いています」とFacebookより知らせがあり、「え、誰やろ?」とピンと来なかったのですが、メッセージを見て、「あ、彼女か!」と嬉しくなりました。その竹内早苗さんは旧姓大野早苗、芸名凛珠さあな、ニックネームさあな・・・というミュージカル女優さんでした。
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あ、そうそう、数年前、さあなさんのことをブログに書いた覚えがありますので、それで見返してみましたが、彼女の昔のエピソードも懐かしく思えるので、転載させて頂きますと・・・
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ご覧の写真は映画「1/4の奇跡~本当のことだから~」上映会&山元加津子さんの講演会&さあなと悠以のライブのチラシです。山元加津子さんは<かっちゃん>と生徒さん達から親しまれている養護学校の先生で、ある日多発性硬化症という難病をかかえている雪絵ちゃんに「先生、何か嬉しくなるようなお話をして」とせがまれて、昔アフリカのある村でマラリアという伝染病が猛威をふるい、村が壊滅的な打撃を受けた話を始めるのです。この話の何処が嬉しくなるようなお話なのでしょうか?それはこの映画をご覧頂くとわかるのですが、タイトルの「1/4の奇跡」とは、マラリアが多く発症する地域ではある一定の割合でマラリアに強い突然変異遺伝子を持つ人が生まれ、その<強者の遺伝子>を持つ人の兄弟には重い障害を持つ人が必ず現れ、その確率が1/4なのです。
・・・とまあ、このような展開のドキュメンタリー映画で、私も見たい見たいと思いながらまだ見ていませんが、『1/4の奇跡』についての本は5年程前に買っています。それは兎も角、このチラシを発見したのはFacebookで、大野さなえさんの近況レポを見たからです。
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大野さなえさん、さあなさんは、OSK日本歌劇団出身で、彼女が歌劇学校に在籍していた頃、私は校長且つ演劇講師でした。初めての授業ではみんなに自己紹介をやって貰うのですが、さあなさんは小学校の時、学芸会でミュージカルの「アニー」を演じましたと言ったので、「アナタは犬の役?」とジョークを言ったのです。犬の役やなんて、怒るかな?と思いきや、彼女はむっとすることもなく何事も無かったように、別に得意気でも無くすらっとアニー役ですと答えたのを今でも覚えています。
そしてその後、私は自分の自己紹介で野球少年だったことを多分話したと思います。それから2年弱後、近鉄バファローズのホームグランド、大阪ドーム球場が完成し、彼女達のクラスを連れて球場の下見に行ったのですが(卒業するとバッファローズ・ギャルとして応援に参加するので)グランドの土を踏みしめていると、彼女が寄って来て、「先生、昔の血が騒ぎますか?」と尋ねたのです。彼女は私の自己紹介を覚えてくれていたのでしょう。こんな話、多分彼女はもう覚えていないでしょうね。さあななさんが卒業してから何年になるでしょうか。歌劇を退団し、劇団四季に入ったと聞いていましたが、長らく消息を耳にすることがありませんでした。
でも、今年の春からPCでFacebookをやり始めたので、彼女の活躍を知るようになったのです。彼女のプロフィールを見ると、カナダ版ピーターパンとか海外でも活躍していたようですが、それよりも、<愛と笑顔を広げる>をモットーに「スマイリング・ワールド」を設立し、フリーハグで10万人の人達と抱擁しあったりしたとか。そんなさあなさんになられた事がとても嬉しいです!
そして、そんなさあなさんと袖触れ合えたのもきっと何かのご縁でしょう。
そして、そしてそんなさあなさんだから山元加津子さんとも知り合い、「1/4の奇跡」上映会でジョイントしてるんですね。私も見に行きたいのですが、その頃の都合が未定なので、みなさんにご紹介させて頂こうと思い、ブログに書いた次第です。


処で、このブログには書いていないもうひとつのエピソードがあるのです。歌劇学校を卒業する時、同期のみんなと一緒に寄せ書きをしてくれたのですが、その寄せ書きに彼女はこんなことを書いていました。

『劇団で10年頑張って、その後OSKの学校のバレエの先生になる・・・という野望、いえ、大きな夢に向かって頑張ります!! かれんな娘役 大野さなえ』

さあなさん、覚えていますか!?10年後、貴女が本当にバレエ講師になりたいと言ってきたら、そして私がまだ校長をやっていたら、どう返答していたかな?即採用していたかも知れませんし、「他にもっとやるべきことがあるやろ。」と断っていたかも知れません。でも今のさあなを見ていると、歌劇学校のバレエ教師になってなくて良かった!と思いますよ。だって、ピースフル・ミュージカル「夏の日の悪夢」のような大きな仕事をしているんだから!
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このミュージカルは、お芝居をしたことなど全くなく、歌も踊りも勿論初体験というアマチュアの人達の舞台で、さあなさんが、作・作詞・振付・演出・主演であり、製作も担当したという、ある意味で桁はずれの公演なんですが、先日NHK国際放送で世界160ケ国に報道されたのです!
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何故、このように取り上げられたかを話しましょう。このピースフル・ミュージカルのいきさつは、大阪で活動していたさあなさんが広島に来たことから始まります。
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御覧の写真は、さあなさんご夫妻が<ぽかぽか>という夫婦紹介番組に出演された時のものですが、なかなかお似合いのカップルですね。さあなさんがステキな彼と結ばれ、竹内早苗さんとなり、ダンナ様の転勤(?)で広島に転居し、原爆ドームの前で原爆の恐ろしさ、核廃絶を訴える紙芝居をし続けている吉田悦子さん(写真下)と出逢ったのです。
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どちらから話しかけたのか分かりませんが、多分意気投合したのでしょう。吉田さんはさあなさんに、「この紙芝居を語り継いで欲しい」と頼んだのです。さあなさんは、紙芝居も良いけれど、もっと広げようと思ったのか、その紙芝居をミュージカルにしようと提案し、吉田さんも舞台に出てみたいと、大乗り気だったとか。そんな経緯でこのプロジェクトは転がり始めるのです。
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でも、さあなさんがFacebookに書いておられたように、大変な苦労があったのです。舞台に出ることはおろか、舞台を見たこともない人達に1から、いや0から、イロハから教え何とか公演にこぎ着けるのは並大抵のことではありません!
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まして製作も総て一人でやっているのですから、「もう嫌だ!止めたい、止めてやる!」と思ったことも当然あるでしょう。しかし、このプロジェクトはさあなさんがサムシンググレートというか、何か大きな存在に導かれてやらねばならなくなっている事態なので、神様は背負えない荷物は負わせないと言われるように、見事やり遂げられたのです!!さあなさん、ホントに本当にご苦労様でした。遠く離れた宝塚から気持ちだけしか応援できなかった私ですが、「ありがとう! ホンマにほんまにありがとさん!!」と心から有り難うを申し上げます。
このプロジェクト、この公演は今年だけでなく、毎年行われるそうですから、もし良かったら、サポートして頂ければ・・・と;お願いする次第です。
Readyfor.jp/projects/musical-natsunohinoakumu/ か、Facebookで竹内早苗さんを検索すると、サポートの仔細が出てきますので、貴方の力を、貴方のお気持ちを、ほんの少しでも結構ですのでお寄せ下さいますように!!
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さあなさんとのりこさんが描いたイラストのような世界を実現させるために。

袖触れ合うも多生の縁297~深く優しく響く音魂を奏でる植木美帆さんは、絵になるチェリストです!

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御覧の写真が植木美帆さんですが、今回は植木美帆さんについて書かせて頂きます。ここの処、敗戦を踏まえての領土問題など、私の脳みそに触れたカタイ話しが続いていましたので、一転してタイトル通りの袖触れ合った方についてです。彼女と出会った経緯は、私の中高同級生である土屋和之さんが主宰するコンサートにチェリストとしてジョイントされていたからです。土屋兄は現役バリバリのお医者さんでありながら、バリトン歌手、或いはチェロ演奏者としてプロに互し、堂々と歌い演奏するパワフルなスゴイ人なんです。下のチラシのように先日もコンサートを開催し、満杯のお客さんを集めていました。
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彼のことは以前にも書きましたので、この位にして植木さんに戻ります。彼女は一週間程前、リサイタルを開かれたのです。
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場所は阪急御影の瀟洒な街並みに佇む、お洒落な世良美術館でした。
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普段は小磯良平さんの絵などが展示されているのですが、この日もグランドピアノの背景にはそんな絵画が見え隠れしているし、ファンの方々から贈られた花々がそっと飾られていて、浮き立つことのない落ち着いた雰囲気のシックなスペースでした。そんな場でチェロを奏でる彼女は本当に絵になるし、花のあるチェリストです。下の写真はその時のものでないのが残念ですが、私の書いている一端を伺うことが出来ると思います。
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あ、コンサート写真が見つかりました!植木さんのブログのをシェアさせて頂きます。
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クラシックの名曲からジャズのスタンダードナンバーまで、美帆さんは深く優しく、時に強く激しく奏で、音魂を紡ぎ出すのです。(ピアノは山口亜弥子さん、下の写真は植木さんと山口さん)
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さて、さてさてさて、植木さんにいざなわれた彩なす音色(ねいろ)は静かにたゆとい、時に舞い躍り、聴く人の胸に染み入り寄り添い、心に魂に揺らぎをもたらしたのです。私が特に心奪われたのは、カッチーニの「アウェ・マリア」で、いけだ りかさんが植木さんの為にアレンジした由。 いけださんがこの曲をこのように捉えてご自身の想いを込めアレンジされたのを、植木さんがいけださんの想いを受け、更にグレードアップして演奏されたのでしょう。私の胸に迫るものがありましたが、私だけでなく一緒に聴いていた友人の横山クンも同じような思いだったのでしょう、大きな拍手だけでなく「ブラボー!」と賛辞の声を上げていました。因みに横山君は欧州に駐在していた頃、クラシック音楽にとっぷりと親しみ、現在は趣味としてチェロを習っているという音楽通で、私は彼の眼力に一目も二目もおいているのです。彼と違って、私は音楽は門外漢ですが、演奏の<テクニック>だけでなく、曲をどのように解釈しどう聴衆に伝えるかという<表現>が、私達の心を揺さぶったのだと思っています。
美帆さん、これからも貴女の想いの籠もった音魂を、私達の胸に贈り届けて下さいますように!
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それから、植木さんはラジオのレギュラー番組でお喋りもされているんですよ。上の画像は、スタジオでのスナップと、軽やかなトークで美帆さんのパートナーを勤める中安ゆみさんとの2ショット写真です。
インターネットラジオ RADIO BALLON 毎週月曜日21:00~22:00 再放送 毎週木曜日10:00〜11:00 /毎週土曜日12:00〜13:00です。
RADIO BALLON のHPによると・・・

チェリスト植木美帆が、リスナーの皆様にクラシック音楽を身近に感じて頂きたい!と、音楽の架け橋となってお送りします。日常のひとこまにクラシック音楽の癒しを取りいれてみませんか?

とのコンセブトで始められた番組で、私は一度聞きましたが、これが結構さわやかで良いんです!色んなクラシック曲を身近で楽しめるって有り難いですね。植木先生(彼女はあちこちの音楽院で指導もなさっています)のワンポイントレッスンというか、音楽を楽しむ上での一寸したアドバイスもあるし、文学的名言というか、心に残る珠玉の言の葉コーナーもありますから、皆さんも良かったらどうぞ!それからもう一つ、PRを。
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音楽に親しむことの少なかった野球&ラグビー少年が、どういう縁からか分かりませんが、ショー・レビュー・ミュージカルを生業とし、ジャズ・ポピュラーから邦楽まで、音楽と関わりを持たざるを得ない仕事を50年以上続け、お遊びのカラオケでは専ら<ちあきなおみ>の「かもめの街」や「朝日の当たる家」を歌い、そしてクラシック音楽が日々癒やしてくれる今日この頃、いゃあ、音楽って本当にいいですね!!