袖触れ合うも多生の縁287~お稲荷さんのイナリ縁起って摩訶不思議ですよ!

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ご覧の古文書は『釈日本記』の『山城国風土記』ですが、『山城国風土記』に書かれている「イナリ」の縁起は有名ですので、本文と大意をWikipediaから書き写しますと・・・
風土記に曰はく、伊奈利と稱ふは、秦中家忌寸(はたのなかつへのいみき)等が遠つ祖、伊侶具の秦公、稻粱(いね)を積みて富み裕(さきは)ひき。乃ち、餅を用ちて的と為ししかば、白き鳥と化成りて飛び翔りて山の峯に居り、伊禰奈利(いねなり)生ひき[注 4]。遂に社の名と為しき。其の苗裔(すゑ)に至り、先の過ちを悔いて、社の木を抜(ねこ)じて、家に殖ゑて祷(の)み祭りき。今、其の木を殖ゑて蘇きば福(さきはひ)を得、其の木を殖ゑて枯れば福あらず

(大意)風土記によれば、イナリと称する所以はこうである。秦中家忌寸などの遠い祖先の秦氏族「伊侶具」は、稲作で裕福だった。ところが餅を使って的として矢を射ったところ、餅が白鳥に代わって飛び立ち、この山に降りて稲が成ったのでこれを社名とした。後になって子孫はその過ちを悔いて社の木を抜き家に植えて祭った。

この縁起に依ると、<イナリ>は<射る也>なのでしょうか。
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又、空海ゆかりの東寺に伝わる『稲荷大明神縁起』では・・・

或記伝、古来伝伝、竜頭太は、和同年中より以来、既に百年に及ぶまで、当山麓にいほりを結て、昼は田を耕し、夜は薪をこるを業とす。其の面竜の如し。顔の上に光ありて、夜を照らす事昼に似り、人是を竜頭太と名く。其の姓を荷田氏と云ふ。稲を荷ける故なり。而に弘仁の比に哉、弘法大師此山をとして難業苦業し給けるに、彼翁来て申し曰く。我は是当所の山神也。仏法を護持すべき誓願あり。願くは大徳常に真密の口味を受け給ふべし。然者愚老忽に応化の威光を耀て、長く垂述の霊地をかざりて、鎮に弘法の練宇を守るべしと。大師服膺せしめ給ひて、深く敬を致し給ふ。是以其面顔を写して、彼の神体とす。種々の利物連々に断絶する事なし。彼の大師御作の面は当社の竃戸殿に案置せらる。

(大意)ある書物では、100年の昔の和銅年間から竜頭太という者が稲荷山の麓に家を構えて住んでおり、昼は田を耕し、夜は山に入って薪を求める仕事をしていた。その顔は龍のようだった。頭の上に光放つものがあり夜でも昼のように明るかった。姓は荷田、名は竜頭太といった。これは稲を背負っていたからという。(中略)空海はその顔を面に写し神体として祀り、それからは収穫が絶えることがなくなった。この面は東寺の竃戸殿に祀ってある。

この縁起に依れば、稲荷山と後に名が付けられたお山にましました竜頭太なる主(ぬし。神)は田の恵みである稲を背負っていた、荷(に)なっていたから稲を荷なう、<イネニ>が<イナリ>となったというのでしょうか。
ですから稲荷大社の社家(世襲神職の家柄)は、荷田氏なのです。因みに下の画像は境内にある史跡荷田春満(かだのあずままろ)旧邸です。
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荷田氏のことはさておき、<イネニ>から<イナリ>への転訛は、<ineni>→<inani>はあり得るでしょうが、<inani>→<inari>は一寸ムリがあるような気がしますので、私のブログ<袖触れ合うも多生の縁158>で紹介した<イナリ>は<INRI>であるという説をもう一度書かせて頂きます。
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「日本人ならぜったい知りたい 16菊紋花の超ひみつ ユダヤと皇室と神道」というやたら長いタイトル本の第2部、明治天皇の二人のお孫さん、中丸薫さんと小林隆利牧師さんの対談によれば・・・<イナリ>という音は、下の画像に見られるように原始キリスト教徒たちが十字架に架けられたイエス・キリストの罪状を書き記すと称しながら、実は褒め称える言葉を綴った「ユダヤ人の王・ナザレ人・イエス」のラテン語略の頭文字である<I.N.R.I.>から来ているそうです。
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<I.N.R.I.>=<インリ>という音が<イナリ>に転じたのは、当時の日本に<ン>という音が無かったので<NA>=<ナ>となり、<イナリ>に万葉漢字<伊奈利>を当てたのです。因みに<伊><奈><利>の語源を調べると、<伊>は天地を繋ぐ人の意、<奈>はイエス・キリストを現す漢字で、<利>は人を利する、高めるとの意なのです。然らば<奈>が何故イエス・キリストを表すのか。
<奈>という漢字を分析してみると、<奈>の下部<示>ですが、<示>の真ん中にある「丁」は祭壇を意味し「丁の」上の「一」は祭壇の上の生け贄で、「丁」の縦棒の左右にチョンチョンと書くハの字は生け贄が流し祭壇から滴り落ちる血を表しているというのです! いゃあ、オドロキですね。それに<奈>の冠<大>は本来<木>だったのが省略されて<大>になったとか。つまり、木の磔台に架けられたイエス・キリストを意味しており、この事は古い漢語辞典には記されているそうです。私の持っている事典も結構古いのですが、残念ながら載っていませんでした。
では、<伊奈利>神社は何故<稲荷>神社と書かれるようになったのか?それは、日本に仏教が入って来、時の為政者達が神道でなく仏教をもってこの国を治めようとし、且つ自己の権力基盤を強固に固める為、国中から原始基督教を消し去ろうとしたからなのでしょう。伊奈利では語源から原始基督教の神社であることが察せられるのを嫌い、<稲成>から更に<稲荷>としカムフラジューしたのです。しかし今以て、<伊奈利>と表記している神社もあるのです。反仏教派の物部氏とか秦氏の末裔や渡来人達の流刑地、例えば洪水によく見舞われる利根川沿岸などには時の政権に恭順する事無く、「伊奈利」名を表示している神社があるのです。
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という訳で、イナリ縁起は<INRI>ではないかと私は思うのですが、みなさんは如何でしょぅか?

袖触れ合うも多生の縁286~伏見稲荷に行きましたが、神域というより観光地でした!

皐月若葉の美しい侯、読書三昧で些か疲れた眼を新緑で楽しませるべしとて先月京の稲荷山に、伏見稲荷大社に足を運びました。
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写真は上が稲荷山、中は稲荷山の竹林、下は稲荷山からの景観で、緑の風に吹かれてみよう・・と楽しみにはるばる京都の深草まで足を伸ばしたのであります。ですが、稲荷山の麓には当然ながら伏見稲荷神社がおわしますよね。
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稲荷神社は全国に30,000社あるといわれ、その総本宮が伏見稲荷大社なのです。そして稲荷信仰の原点は稲荷山で、ご祭神である稲荷大神様がこのお山に鎮座されたのは奈良時代の和銅4年(711)2月初午の日とのこと。その日から数えて平成23年(2011)に御鎮座1300年を迎えたそうですが、御鎮座以来、長い歳月は単なる時間の経過ではなく、時代時代の人々の篤い信仰心によって「衣食住ノ太祖ニシテ萬民豊楽ノ神霊ナリ」と崇められ、五穀豊穣、商売繁昌、家内安全、諸願成就の神として、全国津々浦々に至るまで広く信仰されてきたそうです。これからも伏見稲荷大社は人々が幸せを求める「庶民の信仰の社」であり、「神様と自然と人とが共生する社叢・稲荷山」であるということを大切にし、次の世代へと護り伝えていく使命が我々にはあるのです。」と伏見稲荷神社の宮司さんはHPで仰っています。
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さて、京阪伏見稲荷駅を降りるとすぐ目の前の参道に、何と何と商店や露店が建ち並び、外国からの観光客や修学旅行生で大賑わい、雑踏さながらの有様です。私の第一印象は「庶民の信仰の地」やのうて、「You達の観光地」やがな!ま、商売繁盛の神様やから、己が社の潤うのは結構なことですわな。下の楼門や本殿、それから千本鳥居の写真も私が撮ったんやありません。人影なして撮影するなんてとてもとても不可能でしたから、PCで検索したのを使わせて貰てます。
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あまりの人混みに圧倒され辟易しながら歩を進め、千本稲荷に入りましたが、写真を見て思っていた異界への入り口感は皆無で少し涼しいなと思っただけでした。又耳に入ってくるのは異国語が殆どで、日本語が聞こえると、あ、日本語や!と吃驚する(?)なんて、此処何処なんやろか??それから信仰の地へ、神域に入るというようなおごそかさは皆無で、スマホでカノジョやカレシの写真を撮ったり、自撮りのキミちゃんよろしく自撮り棒でわが姿をフレームにおさめようと四苦八苦したり、はよ歩いてや、進まへんがな・・・と少々いらつきましたで、いやホンマ。お陰で遅々たる牛歩の結果、稲荷山中腹の四の辻に辿り着くのに1時間半以上もかかりました。
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処で、途中おもしろいもんがありましたんで写しておきました。それは・・・
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鳥居を奉納する費用の一覧が掲示されていたのです。サイズによって値段が違うし、奉納する場所によっても違うんですなぁ。結構えゝお値段ですが、千本鳥居あたりはもう満杯で、参道の至る所というてええ程、鳥居が建てられていてホンマ商売繁盛ですわ。それはさておき、これから3の峰・2の峰・1の峰と上るのに1時間はかかるやろし、下界へ降りるのには2時間以上かかるやろから、次の予定が大幅に狂うので登頂を諦めました。でも、四の辻からも下の写真のように京都市内を一望出来て、結構良かったですよ。
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ではでは、次回は<イナリ>の縁起などについて蘊蓄を傾けたいと思います。

袖触れ合うも多生の縁285~安部龍太郎さんの小説「等伯」は彼の曼荼羅なのか!?

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安部龍太郎さんの直木賞作品「等伯」は、上下2巻の大作ですからストーリーを詳述するのは止め、キャッチフレーズ的概要を、「ゐ」太夫さんのぶろぐからコピペしますと・・・
戦国・安土桃山の世を権力者、運命に翻弄されながら、単身で狩野派、狩野永徳と絵画で天下を競い合った絵師・長谷川等伯の生涯を描いた渾身の一作。等伯が身命を賭して描きあげた代表作「松林図屏風」は当時も高い評価を受け、現在でも国宝として現存する。天下に名を轟かせるまでの等伯の波瀾万丈の人生を、安部氏が等伯の心の深淵まで掘り下げ、その内面の葛藤や苦悩、悲哀を見事に描き切った、まさに直木賞受賞作に相応しい作品だ。

そして次に、直木賞の選考委員さん達が選考に当たって書かれた寸評を見てみましょうか。
画像「等伯は等伯だから偉大なのではなく、等伯になろうとあがき続けたその道程が偉大だった。
実在の著名な人物の一代記、しかも大長編でありながら、読み始めたらやめられないページターニングな小説になったのは、安部さんがただ等伯を讃えるだけでなく、最良の形でこの「There is also a man」も描いたからだと思います。」

(宮部みゆきさん)









画像「長谷川等伯は狩野派に対して異端の存在であるが、このような歴史上の人物を描くと必要以上に奇異なキャラクターをつけてしまいがちだが、安部氏は長い経験がそれを上手くこしらえている。さすがだと思った。他の選考委員よりこの数年本賞から輩出した歴史小説と比べて遜色なくむしろ上との見解に最後に票を入れた。」(伊集院静さん)








画像「読み始めるとじきに、選者の立場を忘れて一読者となった。推した理由の第一はそれである。」「この作品には、作家の読者に対する誠意と責任が結実しており、細部を論ずるまでもなく受賞作にふさわしいと感じた。」
(浅田次郎さん)











画像「武士である自分と、画家である自分とがせめぎ合う時代が長く描かれる。画家の長い一生を書くからには、避けて通れないテーマだったのかもしれないが、それ故に画家の「狂乱」はなかなか描かれない。そこがやや冗長に感じられたのだが、画家としての欲望を全開させた下巻は迫力がある。」
(桐野夏生さん)








画像「読んでいて、不安になるところは、皆無である。強いて言えば、創造の狂気が、そばにいる人間の、業が深い、という言葉に収約されてしまっているところ、成熟期の晩年が描かれていないところなどが、いくらか気になった。受賞にふさわしい、堂々たる力作であったと思う。」(北方謙三さん)






画像「第一に推すつもりで選考会に臨んだ。」「上巻は戦国の世を生き抜く等伯を描いて、まるで冒険小説のような面白さだ。そして下巻は、政治に翻弄され、陰謀と策略の世界に身を置く画家を描ききった。違う色彩で、上下巻を一気に読ませる力はさすがである。」
(林真理子さん)






画像「長谷川等伯の情熱とかれの子の久蔵の顕揚欲が旺盛であるがゆえに、危うい、という感じが、よく描けていた。それでもこの作品には、わかりにくいところがいくつかあり、読了するまでに、何度か立ちどまったことはたしかである。」
(宮城谷昌光さん)








画像「小説としての新しさを強く訴えるものではないが、オーソドックスな歴史小説として安定した力を強く感じた。納得のいく受賞であった。」(阿刀田高さん)











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「ものごとの本質を見極めたいという絵師の性と、荒ぶる武家の血が、さまざまな事件に会う度に揺らぎ、かつ燃え盛る。」「まさしく、絵師には想像できぬ事態が次々とおきるが、それを乗り越えていく生きざまがよく描かれている。」「とくに新聞小説という舞台で、これだけの大作を安定して描ききった力量は、おおいに評価していいだろう。」
(渡辺淳一さん)








と各委員とも好評ですが、諸先生方と違うところに私は魅せられているのです。私は小説に関しては老いてから少は馴染むようになった、単なる読者に過ぎませんから、小説として云々でなく、私の有るか無きかの宗教的感性が触発された部分を書かせて頂きます。
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若い頃の等伯、等伯と名乗る前の信春であった頃、鬼子母神・十羅刹女図を依頼され、ありきたりの鬼子母神図でなく斬新な作をものせんと苦心惨憺するシーンの描写ですが・・・
鬼子母神は幼児を奪って食い殺す夜叉だったが、仏に教化されて子授け、安産、子育ての守り神になった。これに従う十羅刹女は大鬼神女で、四天下のいっさいの鬼神の母だと法華経陀羅尼品は説いている。信春はこの経文の字面にとらわれ・・・(中略)亡き宗清は、新しい作品は信仰と表現が一体となった時に生まれるものだと教えた。
と書かれています。宗清とは信春の養父であり絵仏師としての師匠てすが、昔師匠から教えられたように、経文に書かれた鬼子母神と十羅刹女を知識として知っているだけでは描けず、信春が二神を神として信じるに至ったからこそ見事な鬼子母神・十羅刹女図が描けたのだと、安部龍太郎さんは仰っているのです。
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又、日堯上人から自分の像を後の修行者の為に残したいと頼まれ苦闘する描写にも目が留まりました。日堯上人というお方は、信長が比叡山を焼き討ちにした際、非業の死をとげた夥しい数の者達の救いを求めさ迷う魂に、幽魂に立ち向かい救わんとしたものの、最後の一人迄に対峙し引導を渡す力が無く、病に冒され病魔に魅入られていたのです。そんな上人様のお姿を、仏道修行者の尊像を描く肖像画は、唯の外面だけを描くのではなく、描かれたお姿を見る修行者達が上人様の悟りがどこまで進んでいるか分かるものでなければならないのです。そして等伯が描いた日堯上人像を見た上人様は、
「ここに描かれているのは末那識(まなしき)にとらわれている人間の姿です。あなたは見事に私の悟りの限界を見破っておられます。」
(末那識とは何か?人間には眼・耳・鼻・舌・身・意という六つの識があり、それぞれ視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚・知情意を司っていて、その先にあるのが末那識で、自己という意識を生み出す心の働きなのです。)
「末那識にとどまっている限り煩悩から抜け出すことはできず、いくら悟りを求めて精進しても、求める心そのものが執着となって悟りに至る道を閉ざしてしまう。それ故修行者はここを乗りこえ、第八段階の阿頼那識(あらやしき)まで進み執着から離れて真如に至らなければならないのです。」
「そんな大それたことを考えていたわけではありません。私はただお上人さまと共に戦うつもりで、懸命に描いたばかりです。」
「だからあなたの心も末那識にとどまっているのです。」
とまあ、こんなやり取りがあるのですが、ここでも描く作品の表現と描く者の信仰が一体となっているんですね。それから、ある寺の襖絵と格闘している等伯は、千利休に「悟ろうとする欲が悟りの邪魔をしとんのや。そこに思い至らんかい。」と叱りつけられ、描こうとしないで描くとは、自分の中に備わっているものが絵という形をとって自然に外に現れてくることだと気付くのです。
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そして安部龍太郎さんが、長谷川等伯の曼荼羅だという「松林図屏風絵」ですが、等伯はこの松林図を描こうとしてもどうしても描けず、藻掻き喘ぎ苦しんでいると、ある上人が唱える「法華経」のお題目が聞こえてき、等伯の絵筆は読経にいざなわれるように動き続け、描き上がったのは故郷能登・七尾を思わせる松林図でした。この屏風絵を見た公家の近衛前久は驚嘆し、「等覚一転名字妙覚や。初心に戻ったのやな。」と唸ったのです。
さて、作者と作品は一体である、等伯の絵と等伯の悟りは一体であると説き続ける安部龍太郎さんにとって、著者と作品が一体であるなら、安部龍太郎さんにとって小説「等伯」はご自身の悟りの境地、曼荼羅ではないでしょうか。

袖触れ合うも多生の縁284~数年前の直木賞作品「等伯」を遅ればせながら読みました!

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先日、2012年下半期148回直木賞作品である安部龍太郎さんの「等伯」を読みましたが、この本を読もうと思い立ったのは、NHK-TV「100分de名著 法華経」を見たからなのです。
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ご覧の写真はその時のワンシーンですが、司会は島津有里子アナと伊集院光さん、指南役は仏教思想研究家の植木雅俊さんで、ゲストが作家の安部龍太郎さんだったのです。処で、この番組の女性アナはちょくちょく代わり現在は島津有里子アナですが、彼女はこの番組に向いてないんやないか・・・などという感想をPCで見かけましたが、私は島津さんは今までのアナより視聴者に伝える力を持っているなかなか凄いアナと思い、毎回楽しみにしている次第です。
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それはさておき、番組中法華経思想の<等覚一転名字妙覚>についての話がありました。そのやり取りを以前も使わせて頂いた録画バカ一代さんのブログから、安部龍太郎さんの一人語りとして要約しますと・・・
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直木賞を頂いた「等伯」を書く際、特に等伯が「松林図屏風絵」(現在国宝になっている彼の代表作)を描く場面を書く際、欠かせなかったのが植木さんとの「法華経」に関するお話だったんです。等伯にとって法華経はもう魂の中心で、彼は絵師としての人生を絵仏師、つまりお寺さんに仏画を納める仕事から始めています。又等伯は熱心な法華経の信者でした。そんな等伯が「松林図屏風」を描く時のイメージがどうしても つかめず、ああでもないこうでもないと我武者羅(がむしゃら)になって書いても書いても到底満足出来なかった。それで植木先生に電話して、渋谷のそば屋さんで4時間ぐらい 2人で語り合ったのです。中でも 「仏教の覚(さと)りに到る時はどういう事があるんですか?」とお伺いしたら、<等覚一転名字妙覚>っていう事を教えて頂いたんです。で、その意味を聞いた瞬間に、「あ、これだ!」と頭に浮かびそのシーンが全部すんなりと出来上がったんです。
今度は植木先生の一人語りで要約しますと・・・
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「妙覚」とは究極の覚りを意味し、「等覚」とはそれにほぼ等しい、もうあと一歩手前という境地です。そして「名字」とは、誰でもスタートラインに立った時、覚りの名前とか言葉を知ったくらいの一から「妙覚」を目指し修行を始めるわけです。そして出発点から「等覚」の覚り迄来ると、 この延長上に究極の覚り、「妙覚」があるに違いないと思い修行を続けるのですが、ところが究極の覚りはこの延長上にはない。一転して「名字」のレベル、つまりスタート地点に帰らないと「妙覚」に到達しないのです。
再び、安部龍太郎さん・・・
これが分かると、何か今まで悩みに悩んで、「こう書けばいいのか???ああ書けばいいのか???」との惑いが全部 スーッと消えてしまった。つまりよく見せよう、上手く書こうと思っている限り駄目で、そういう意識を捨てたところに本当の自分が立ち現れてくる。それが分かった瞬間、等伯が<松林図屏風絵>を描き上げる場面の描写がワーッと自分の頭の中に湧き上がってきたのです。
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この<松林図屏風絵>を長谷川等伯(下写真は等伯像)が描くに至るプロセスを要約しますと・・・
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50代となった等伯は息子久蔵と共に長谷川派と呼ばれる絵師達を率い狩野派と対抗していたが、そんな親子を悲劇が襲います。秀吉の命令で朝鮮出兵の拠点名護屋城天守閣の外壁を描いていた久蔵が事故で命を落としたのです。ライバル狩野派の陰謀を疑った等伯は秀吉に直訴しますが、秀吉の逆鱗に触れてしまいます。この時、等伯を救ったのは公家の近衛前久で、この先如何なる傑作を生み出すやも知れぬ絵師を殺すのは惜しいと秀吉を諫めたのです。秀吉は、儂が目にしたことの無い前代未聞の絵を描くなら許そう、と難題を突きつけます。命懸けて一枚の絵に挑む事になった等伯。静かな寺の離れで絵筆をとるも息子の死や雑念にとらわれはかどりません。そんな時にある上人が唱える「法華経」のお題目が聞こえてき、等伯の絵筆は読経にいざなわれるように動き続け、描き上がったのは故郷能登・七尾を思わせる松林図で、それは秀吉をも打ちのめす見事な出来栄えでした。等伯の命を救った近衛前久は松林図を見て驚嘆し、「等覚一転名字妙覚や。初心に戻ったのやな。」と唸ったのです。
ここで又、安部龍太郎さん・・・
この「松林図屏風」は僕も何度も拝見してますけど、とにかく絵を超えてるような作品なんです。等伯の時代っていうのは金箔や岩絵具を沢山使ったきらびやかな安土桃山文化が花開いた時代で、等伯もその真っ只中にいたのですが、等伯は命を懸けた一枚の絵に取り組んだ時、自分の内面を振り返り、今迄自分が描き続けてきたキンピカの絵は自分の描きたいものとは違う、自分の魂の中心を占めてはいない、本物の自分の絵ではないとの思いに至ったのです。そして、そう気付いた瞬間、自分が何故ひたすら絵に向き合ってきたのかというと、これは自分にとっての菩薩行だったんだ、絵を描く事で菩薩行をやってきたんだと気付いたわけです。
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上の画像はどちらも等伯の像ですが、この像は旅立ちの日の姿で、空模様を見ているそうですが、私には天空を、虚空にまします菩薩様を仰ぎ見ているように思えてなりません。
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この後ろ姿だと塔の九輪の先端にある宝珠を見上げているかのようですが、等伯にとつての宝珠は<等覚一転名字妙覚>ではないでしょうか。
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そして又、植木先生・・・
こういう曼荼羅図はとにかく描きまくる事で無限を表現しようとするじゃないですか。しかし松林図のような水墨みたいなものと墨絵みたいなものと曼荼羅とは真逆で、それが面白いですね。松林図の松を何千本でも何万本でも描いてもいいじゃないですか。でも等伯は描かないで表現しています。<描かないで描く>という描き方は究極の処、魂の戦いみたいなものを描きながら してるんだと思いますね。
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そうか、<松林図屏風絵>は長谷川等伯にとって悟りの境地を描いた曼荼羅であり、小説「等伯」は安部龍太郎さんにとって曼荼羅だったのでしょうね。この件の仔細は次回に・・・。

袖触れ合うも多生の縁283~ ICOCA(イコカ)やのうて、SOCCA(ソッカ)って知ってます?

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これがSocca Cardなんですが、先日あるニューハーフの方からメールが来て、このカードの事を知りました。以前、そのニューハーフさんにお逢いした時名刺を貰ろたんですが、名刺にはR・A 23才と書いてありました。どうお見かけしても20才代やないんで、不躾ながらホンマに23才ですか?と尋ねると、いえ、R・A23才ちゅうのは歳やのうて名前ですと言うてはりました。ま、それは兎も角、彼(彼女?)が電車で座ってると、前に立ってる人から下の写真のカードを見せられたそうです。
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その人は見るからに体調が悪そうで、すぐ席を代わってあげたら、へたり込むように座り込み、そのカードを裏返して見せたとか。
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上の写真が裏返したカードです。このカード、ええやんかと思ったR・A23才さんはみんなに広めようと思って、私にメールしたのです。それで調べてみると、このカードは発達障害者とその家族達の居場所作り、仲間作りを活動の中心にしているUnBalanceという一般財団法人が製作しているのです。製作意図は、しんどくても、体調が悪くても、電車やバスに乗って何処かに行かなアカン時があるし、急に具合が悪るなる時もあるけど、席を代わって欲しいってなかなか口に出して言いにくいし、又見えない障害がある人も見えないだけに気付いて貰えずついつい我慢してしまうし、高齢の方も風邪をひいてる人も、妊婦さんも助けが必要な人はたくさんいるけれど、みんな思っていてもなかなか言えないから、誰でも使えるSOSを出せるグッズがあれば・・・と思い作ったそうです。<Socca>の<S>は<少し図々しいですが>、<O>は:<お願いきいて>、<C>は<ちょうだい>、<CA>は<カード>の略でし、皆さんに<あ、そっか>と気付いて欲しいとの思いを込めて<ソッカ>とネーミングされたとか。
それから、お願いカードだけでなくとともに、「お手伝いしたい」気持ちを伝えるカードもあり、2枚セットになっているのです。サポートしたい気持ちを表すカードもいいですね。みなさんも良かったら、サポートしませんか。
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お問い合わせは
一般社団法人UnBalance 
住所:〒547-0027 大阪市平野区喜連5-1-45-201
TEL&.FAX:06-6700-8161
SOCCA専用メール:info@socca-pj.main.jp

袖触れ合うも多生の縁282~53年前の凄い映画「怪談」を見、むむむと唸りました!

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『怪談』(かいだん、英題:Kwaidan)は、小泉八雲原作の『怪談』に収録されている「黒髪(原作題名は和解)」「雪女」「耳無芳一の話」「茶碗の中」の4つを映画化したオムニバス作品で、1965年(昭和40年)に公開されました。構想10年、撮影期間9ヶ月、制作費3億2千万円、当時としては破格の予算をかけ文芸プロダクションにんじんくらぶが製作した小林正樹監督作品です。
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公開された当時、私は大学を出たてで、文筆及び舞台演出ではとても生活する事など出来ず、ピアス化粧品商品企画室で勤務していたので見逃し、その後も見る機会が無く先日BSで放映されていたのをやっとこさ見たのですが、ムムム!でしたね。
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処で製作のにんじんクラブは女優の岸惠子・久我美子・有馬稲子の3人が中心となり、当時映画会社に所属の俳優は他社作品に出演できない五社協定なる束縛があったので、他社出演を実現させる為に設立したのです。
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ですから「人間の条件」など意欲的な映画を次々に製作し続け、「怪談」は設立当初から構想を練りに練った企画で、乾坤一擲と言いますか、巨額の制作費をかけたものの生憎興行収入はいまいちの2億2千5百万円で、負債をかかえた結果倒産に至ってしまうのです。嗚呼!
それはさておき、本題に話しを進めましょう。「怪談」のスタッフは、監督:小林正樹、脚本:水木洋子、撮影監督:宮島義勇、音楽音響:武満徹、題字:勅使河原蒼風、タイトルデザイン:粟津潔と錚々たる顔ぶれです。
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それから、各話の粗筋(Wikipediaのコピペです)とキャストを見てみますと・・・
<黒髪>
昔の京都。貧しかった武士の男は、妻を捨てて遠い任地に向かい、良い家柄の娘と結婚する。しかし、その娘はわがままで冷酷な女だった。男はいつも前の妻のことを思い出し、自分の身勝手さを反省した。やがて任期を終えて京にもどった男は妻のいる家に向かうが、そこには機織をしている妻の姿があった。男はそれまでの自分を詫び、妻をいたわり、一夜を共にするが、夜が明け男が目を覚ますと、横に長い黒髪があった。それは妻の髑髏の頭から生えていた。
キャストは・・・妻:新珠三千代、第二の妻:渡辺美佐子、武士:三国連太郎、
父:石山健二郎、母:赤木蘭子、乳母:北原文枝、世話人:松本克平・・・
下の写真の新珠さん、渡辺さん、三国さん、みんな若いですね!
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<雪女>
武蔵国の巳之吉は、茂作と森へ薪を取りに行くが吹雪にあい、森の中の山小屋に一泊することになった。その夜、巳之吉は白い着物姿の女を目撃する。女は茂作に白い息を吐いて凍死させ、巳之吉に「今夜見たことを誰にも話してはいけない。もし話したらお前を殺す」と言って小屋から消えた。1年後、森へ薪を取りに行った巳之吉は、その帰り道で若くて美しいお雪という女性に出会い、彼女と結婚し3人の子宝に恵まれた。村の女たちからも羨ましがられ、幸せに暮らしていたある吹雪の夜、巳之吉はお雪の顔を見て、ふと10年前に山小屋で会った雪女のことを面白可笑しく話し出してしまう。戸惑いながらも話を聞き終えたお雪は「その女は私。さても子らを不幸せにすれば命は無いものを……」と、言い残して吹雪の中へ消えていった。
キャストは・・・巳之吉:仲代達矢、お雪(雪女):岸惠子、巳之吉の母:望月優子、村の女:菅井きん、千石規子、野村アキ子、船頭:浜田寅彦、茂作:浜村純・・・いやあ、端役の村の女も凄いメンバーですね!
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<耳無芳一の話>
盲目の琵琶法師の芳一は、ある夜、彼の前に現れた甲冑姿の男に「高貴な人に琵琶を聴かせるために迎えに来た」と言われ、ある場所に連れていかれる。芳一はそこで『平家物語』の壇ノ浦の合戦の段を琵琶で奏で唄う。それから武士は毎晩芳一を迎えに現れ、芳一も繰り返し琵琶を奏でるのだった。寺の住職は毎晩どこかに出かける芳一を心配して、寺男の矢作と松造に芳一の後をつけさせる。その夜、芳一の後をつけた寺男が見たのは、人魂が飛び交う平家の墓場の前で琵琶を奏でる彼の姿だった。住職は平家の怨霊に取り憑かれた芳一の体全部に般若心経を書きつける。その夜、いつものように芳一を迎えに来た武士は何度も芳一の名を呼ぶが、返事がない。しかし、空中に耳が2つ浮かんでいたのでその耳を引きちぎり持ち帰った。両耳を押さえ悶絶する芳一。住職は芳一の耳にだけお経を書くのを忘れていたのである。その後、芳一は耳無芳一と呼ばれ、その名声は遠方まで聞こえたという。キャストは・・・耳無芳一:中村賀津雄、甲冑の武士:丹波哲郎、住職:志村喬、源義経:林与一、建礼門院:村松英子、矢作(寺男):田中邦衛、平知盛:北村和夫、貴人:中谷一郎
、呑海(副住職):友竹正則、松造(寺男):花沢徳衛、貮位の尼:夏川静枝、平教盛:龍岡晋、上﨟:北城真記子、漁師:桑山正一、平経盛:鶴丸睦彦、漁師:谷晃、弁慶:近藤洋介、平宗盛:山本清、山鹿秀遠:小美野欣二、平教経:中村敦雄、源氏の武士:関口銀三、安芸の太郎:宮部昭夫、漁師:永井玄哉、河野通信:内田透、
源八広綱:神野光、源氏の武士:福原駿雄、佐藤忠信:阿部希郎、平有盛:八木俊郎、大納言佐の局:阿部百合子、安徳天皇:佐藤ユリ、悪七兵衛景清:佐藤京一、伊勢義盛:相川延夫、平行盛:児玉泰次、平資盛:前田信明、平清宗:柴田光彦、武将:梶春雄、安芸の次郎:義那道夫、安芸の次郎の郎党:田部誠二、女官:成田光子、三倉紀子、長山藍子、貴族の女:中畑道子・・・女官の一人に長山藍子さんの名前を見つけたオドロキはいかばかりなるや!?
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下の写真で芳一を連行する武将は丹波哲郎さんなんですが、私が丹波さんとお逢いした頃と違って、いゃあメチャ若いですね!
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<茶碗の中>
中川佐渡守の家臣の関内は、年始廻りの途中、茶店で水を飲もうと茶碗に水を汲み、顔を近づけるが、茶碗の水に見知らぬ男の顔が映っているのに気付く。水を入れ替えたり茶碗を変えたりしても、同じ男の顔が映っていた。結局彼は男の顔が映った水を飲み干した。その夜、夜勤している関内のもとに、式部平内と名乗る一人の若侍が現れる。その男は昼間、茶碗の中に現われた男だった。関内は彼を斬りつけるが消えてしまった。屋敷に戻った関内は、3人の侍の来訪を受ける。平内の家臣と称する3人は「主人があなたに斬られて療養中である。来月16日に必ず恨みを果たしに来る」と言った。関内は3人に斬りつけるのだが・・・。
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この物語は、明治32年(1899年)、作家が結末のない奇怪な物語として書いたものである。作家のもとに版元が訪ねる。おかみさんは作家を探すがどこにもいなかった。版元は作家の書きかけの原稿を手にした。『人の魂を飲んだ者の末路は……』そのとき、おかみさんが水瓶を指さして悲鳴を上げた。版元も水瓶に近づくと、水瓶の中に作者が映り、手招きをしていたのである。
キャストは・・・関内(中川佐渡守家臣):中村翫右衛門、作者/ナレーター:滝沢修、おかみさん:杉村春子、出版元:中村鴈治郎、式部平内:仲谷昇、老爺(関内の屋敷):宮口精二、松岡文吾(平内の家来):佐藤慶、鈴江(関内の妹):奈良岡朋子、関内の同僚:神山繁、関内の同僚:田崎潤、関内の同僚:織本順吉、小林昭二、青木義朗、土橋久蔵(平内の家来):天本英世、岡村兵六(平内の家来):玉川伊佐男・・・天本英世さんがこの作品に出演されていたとは、私が天本さんを舞台で拝見したのはいずれも老人役でしたが・・・
4話を通じて強く思ったのは、怪談のあやかしさを醸し出す美術・色彩プラン・照明の素晴らしさなのです。美術は戸田重昌さん、色彩は碧川道夫さん、照明は調べたのですが不明でした。今ならCGを駆使するところでしょうが、PCの力など借りようもなく、もし当時CG技術が開発されていたとしても絶対借りようなどと思わず、それぞれの分野で職人さん達が、ああしよう、こうしょう、ああすればええ、こうすればどやろ・・・と喧々諤々、楽しくて仕方のない現場だったことでしょう。そんな撮影現場を見てみたかったと切実に思った次第です。
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袖触れ合うも多生の縁281~月面クレータに名を残した江戸期天文学者の芝居、真紅組公演を観ました!

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いつも真紅組の公演は楽しみにしているのですが、江戸時代大坂にいてた天文学者麻田剛立は、私もお芝居にしたいなと思ったことが有りますし、下の写真のように新聞でも取り上げられていたので期待を膨らませていた訳なので有ります。
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さて、お芝居の題名「幾望(きぼう)」とは、幾(ほと)んど望(ぼう、満月)に近いとの意で、陰暦14日の夜、又はその夜のお月さんのことなのです。「宵待ち月」とか「小望月(こもちづき)」とも言いますね。あ、そうそう、大劇時代のOSKに望月まり子さんてスゴイ方がいてはって、私が演出助手を務めさせて貰ろたあるお芝居で、鴉の貫太郎という役、ま、役名はどうでもええんですが、その貫太郎がこけるシーンがあったんです。初日があいて暫くした日、観てたら望月さんは見事に転びはったんです。そんで楽屋に行って、「ナカちゃん(望月さんの本名は中西さん)、あの転ぶとこアカンで。」と言うたんです。「え、なんであきませんか?」「そやかてお芝居やのうてホンマにこけたんに見えますがな。」そう言うとナカちゃん、「むむ、そうかぁ!」と演技の虚実皮膜に思いを馳せておられました。それから50年後にお逢いした時、その話をすると、「覚えてるがな。忘れられへん思い出や。」と仰りました。あ、余談を長々として、スンマセン。
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処で月の満ち欠けて面白いですよね。私は子供の頃、なんでお月さんが欠けていくんやろ、不思議やな・・・とふと思たことがあるんですが、その後すぐ忘れてしもたんで麻田剛立にはなれなんだ訳ですね。
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剛立は幼時から星や空に興味を抱き、一度みた星の名は忘れなかったそうですし、7歳の時には縁側に入る太陽光線の影を1年間観測したと伝えられています。栴檀は双葉より芳しですね。でも、この公演の演出家諏訪誠さんが、<14番目の月幾望から15番目の望月へは待っているだけでは訪れてくれません>とバンフに書いておられるように、剛立には幾多の困難があったのです。剛立の父は豊後国杵築藩の藩医で、剛立も家学の医学を学び、やがて父の跡を継ぎ藩医となり江戸に赴いたものの藩主親貞(ちかさだ) が大坂城加番となったので大坂に移り住んだのです。でも剛立自身の学問的興味は天文学であるが故に、再三再四辞意を申し出たが認められず、研究時間を得る為脱藩を決意し、着の身着のまま出奔して大坂の中井竹山 履軒兄弟を頼り、追っ手から逃れる為、本名の綾部妥彰(あやべやすあき)から麻田剛立に名を変えたのです。そんな剛立の情熱を描く真紅組のお芝居はエネルギッシュそのものでした!<近鉄アート館で作品を創る時は毎回「この劇場でしか観られない作品創り」を考えて挑みます>と演出家の弁にあるように、舞台の四方が客席で、その真ん中の谷底のような場にほぼ円形(8角だったかな?)の舞台を組み立てていました。舞台写真がないので稽古場写真を掲載させて頂きます。
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このように椅子などで円形に囲った仮の場で稽古してるんですね。普通のステージなら一方にいる観客に向かい芝居をするだけですが、四方の観客に向かい演じなければならず、その為に大勢の出演者たちが丸い舞台を回るシーンが少なからずあり、盆踊りなら踊りつつ只々回れば良いものの、お芝居ではそうもいかず、回りながらも芝居の仕草をはめ込んだり、出演者は色々工夫していました。そんな煩雑さにもめげず、剛立の情熱に相応しい陽気で熱気のある作品に仕上がっていました。今回だけでなく真紅組のどの公演も出演者の皆さんはエネルギーのある俳優さんが多く、そんなパワー爆発がとても嬉しく、私もエネルギーを貰った次第なのです。ですから、今後の真紅組公演もずっとずーっと成功し続けると思うのであります。脱藩しご先祖から受け継いだ名を捨て飽くことなく研鑽し続けた剛立が、後世に名を残したように!
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これはグレゴリー式反射望遠鏡ですが、剛立はオランダから初輸入した高倍率グレゴリー式反射望遠鏡で日本最古の月面観測図を記したり、当時使用されていた宝暦暦に記されていない日食が宝暦13年9月1日におきると予測し発表して大いに名声を博したのです。
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そして、麻田剛立は寛政11年(1799)5月、大坂で66歳の生涯を閉じ、天王寺の浄春寺に葬られ、今もそこに眠っているのです。
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いや、魂は墓から抜け出して地球を飛び出し、アサダと名の付けられたクレーター辺りを月面散歩しつつ、剛立像に見られるようにかっと目を見開き月面観察を怠りなく続けているのかも・・・
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袖触れ合うも多生の縁280~ミムラ、いえ美村里江さんのエッセイって面白いですよ!

前回に続き今回もミムラさん、いえ今の芸名は美村里江さんですが、彼女は俳優だけでなく、若い頃から文筆活動もなさっているのです。下の写真は22、3才の頃に出版された「ミムラの絵本日和」と「ミムラの絵本散歩」です。
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彼女がまだ小暮里江さんだった頃、つまり幼い頃からミムラと名乗る迄の間に愛読していた絵本とその絵本にまつわるご自分の身辺雑記を若々しい女性、いえ敢えて女の子と言う方がピッタシなしなやかな優しい感性でモノローグしたようなエッセイです。下の写真は小暮里江(こぐれりえ)さんですが・・・
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私は小暮というとOSKにいた子を思い出してしまうのです。OSKの小暮ちゃんはキュートな女の子で、歌劇団にはそんなに長く在籍していず、退団してニューヨークに行ったのです。ニューヨークに来ちゃいました!と嬉しさ溢れるはがきを貰ってから暫くは音信不通でした。でも、私が作・演出させて貰った黒岩重吾先生の「天翔る白日」を脚色した近鉄劇場公演「大津皇子」の中日頃、舞台がはねた時、私はロビーにいたのですが、観劇を終えたお客様がロビーにどっと出てこられる人混みの遠くから、『原センセー!』と甲高い声で叫びつつダッシュし、ジャンプして私に飛びついたのです。私も勿論ハグしましたが、隣にいた社長はな、なにしとるねん・・・とびっくりされてましたナ、ハイ。その邂逅以来ずーっと彼女とは会っていませんが、どこでどうしているのでしょうか、ふと気になってしまう私なのです。あ、余談が長くなりましたが、ついでにもう少し余談をさせて下さい。絵本と言えば、私の幼い頃は絵本など殆ど無い時代で、大人になってからMBS-TVの子供とお母さんの為の読み聞かせ番組「お話どんぶらこ」の構成者として数多くの絵本に初めて接したと言って良い程でした。W閑話休題で、私事はさておき、美村里江さんの最近の著書、といっても2015年出版ですが、<文集>というタイトルの文集を読みました。
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「絵本散歩」は2010年、「文集」は2015年出版ですから、この5年の間に彼女はどんな人生を歩まれたのでしょうか、「文集」の文章はかっての女の子っぽさから一変して、男性的な論理や巧妙な展開がそこここに見られるのです。例えば、<おやつはカルシウム>なる一文を要約しますと・・・
彼女は小学生の頃、体育の跳び箱で着地に失敗し薬指と中指を痛め、みるみる腫れ上がったので、骨が折れてるのに違いないと慌てて病院に駆け込み、レントゲンを撮って貰ったのですが、幸いにして骨折していず靱帯が伸びているだけだったです。ほっと安堵したものの、病院の先生はレントゲン写真をじっと凝視したまま、暫し沈黙・・・あれ、やっぱり折れてるのか、ひびがはいってるのかな・・・とシンパイしていると、先生が唐突に「おやつ、いつもなに食べてるの?」思わぬ問いに戸惑いつつ「牛乳と・・・煮干しです」と答えた処、センセイはさもあれなんと「やっぱり!」
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「それでこんないい骨してるんだね!普通の人はここまで靱帯が伸びる前に骨がぽっきりいってるよ。」と褒め、「アナタ、骨美人だね。」と言ったとか。嘘々、骨美人は私の創作ですが、彼女はお姉さんや妹達といつもだし汁用の煮干しをしょっちゅうつまみ食いし、姉妹で「煮干しってイケてるおやつだね。」と言いつつムシャムシャやっていたとか。そして、自分が料理するようになってからも出汁は昆布と煮干しからキチンととり、今も煮干しのつまみ食いをしているそうです。そんな彼女の夢は、自分が亡くなった時、斎場で骨壺に自分の骨を詰めようとしても入りきらず汗だくで砕いて入れようとしている係員さんの骨折り損のくたびれ儲けを親族に笑って貰うこと・・・だそうです。このオチには笑ってしまいましたが、普通女の人ってこんな妄想いだくのやろか?これって男の感性やないやろか?しかも赤塚不二夫さん的な。しかし私なら親族の方達に笑って貰うのではなく、魂となった自分が中空からそんな光景を眺めてみたいですね。
ではでは。
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袖触れ合うも多生の縁279~ミムラって、ムーミンのキャラクターじゃなく女優さんなんですよ!

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上が女優のミムラさん、下がミムラさんの芸名の由来であるムーミンのキャラ、ミムラ姉さんです。処で、私は恥ずかしながら、ミムラなる女優さんを知りませんでした。
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2016年にオンエアされたテレ朝の朝ドラ「トットてれび」で向田邦子役や、2017年オンエアのNHK『この声をきみに』で偏屈な数学講師(竹野内豊)の前妻役(写真上)などを見ていたのに、その役を演じているのが誰なのか、何故か気にも留めませんでした。しかし今年の3月、NHKの『SWITCHインタビュー 達人達(たち)「出口治明×ミムラ」』を見、ミムラさんに俄然興味を抱いてしまったのです。
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ベンチャー企業を興し大成功を収めるだけでなく、世界史など数々の著書を持ち、現在は某大学の学長である出口治明さんと、月に200冊読むこともあるという超読書好きで書評やエッセイも書くミムラさん(文筆業もされているという事も私は知りませんでした、ハイ)が、多くの人達は書物に親しむことが少なく映像派が多い昨今、名うての読書家たるお二人が、読書の楽しみなど滔々と語り合い、とどまるところを知らない両者の溌剌・闊達・饒舌トークの洪水に聞き惚れ、すっかりミムラさんに魅了されてしまったのです!
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こんな思いを抱いたのは私だけでなく、ブログ「録画バカ一代」さんも同じような感想を書き記しておられます。
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<ドラマや映画で見ていても気にとめる事がなかったのに、こういった対談を見ると急に興味をそそられ、今更ながら、ミムラさんに興味がわきました!>

さて、ミムラさんが芸名をミムラにしたのは17才の時だったとか。彼女はその頃バイト感覚でカットモデルをやらせて貰っていたのですが、本名だと雑誌に載ると知り合いに見つけられ恥ずかしいからとの理由で、事務所と相談して何て芸名にするか悩んだそうです。「これはいかが?」と事務所が私に提案しても、私が「うーむ」、「じゃあこれは?」と私が提案すれば、事務所が「うーむむ」の蒸し返しで、事務所の「憧れている人の名前を参考にする人もいるよ」とのアドバイスを貰っても、「そんな人も思い当たらないし・・・」と参っている時、ずっと以前から大好きだったムーミンのことを思い出し、『ムーミン童話の百科事典』をパラパラとめくると、<ミムラねえさん>の項目が目に入り解説を読むと、<ミムラねえさんは楽しく過ごすのが大好きで、眠くなれば眠り、起きたいときに起き、ミムラに生まれたことに満足して暮らしている>と。「わあ、いいかも!どうせ長く使わないだろうから」と事務所に提案し、しぶしぶOKしてもらった由。でもこんなに長く、20年弱もミムラの名前で仕事をするとは思っていなかったそうです。(「ミムラの絵本散歩より」)
そして今年、ミムラから美村里江(みむらりえ)に改名されています。その理由、出演中の大河ドラマ「西郷(せご)どん」の台本で役名・出演者一覧を見て、本来の日本名の大切さを感じたからですと公表されています。
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彼女は瑛太さん扮する大久保正助(跡の大久保利通)の妻満寿役で、先日画面に初登場した短いシーンを見ましたが、これからどんなお芝居をされるのか、注目しようと思った次第であります。処で、美村さんの徹底した役づくりはこの業界ではよく知られていて、「トットてれび」では向田邦子さんの手書き原稿を細部まで研究し尽くし、筆跡を猛練習して原稿執筆シーンに臨むなど、迫真の役作りで向田に成りきり注目を集めた由。今回の大河ドラマではどのような役作りをされているのか、その辺りが画面から窺えるかどうか・・・これも注目したいと思っております。あ、『SWITCHインタビュー 達人達(たち)「出口治明×ミムラ」』での美村さんはお芝居でなく、役作りしていない、地の儘の有りの儘の美村さんであり、そんな彼女に私は魅せられたのでしょうか。これからは、役に扮した美村里江さんも、有りの儘の自然体の小暮里江さん(本名)と、どちらも乞うご期待ですよ!そして、役作りに凝り倒し造形した役を本番では総て投げ捨て忘れて捨て、自由奔放に地の儘に演じられたら、ほんまにホンマニ凄ーい女優さんになると思います。そんな美村里江さんを是非々々見てみたいなぁ!!
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袖触れ合うも多生の縁278~幻の名画「幕末太陽伝」を見ましたが、流石でした!

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ご覧の写真は1957年(昭和32年)7月14日に封切られた日本映画のポスターと2012年に日活が100周年を迎えたのを記念して修復されたデジタル版のポスターです。初公開された昭和32年といえば私は15才の中学生で、見ていてもおかしくはないのですが、当時の私は野球少年で映画など殆ど見ていず、演劇や映画を頻繁に見るようになったのは、大学に入ってすぐに劇作を志してからなのでありす。
ですから色々な映画雑誌などに、「川島雄三監督の代表作である異色コメディで、日本映画史上ダントツとも言える名作のひとつである」と絶賛されているのを読み、是非々々見てみたい!と常々思っておりましたが、2012年のデジタル復刻版上映の際も私が主宰していたBAT(バリアフリー・アミューズメント・シアター)公演「今際の光に導かれ ~ピアフの母、相克の涯に~」というエディット・ピアフとピアフを産み赤子の時捨てた母親の生涯にわたる壮絶な争いを描いた作品上演の為、多忙さにかまけ見落としてしまい、先日BSにて放映されたのをやっとこさ見たのであります。(しかしこの8行、一つの文章やなんてホンマに長~いなあ。ここまで延々と続けんでもええのにね。ハンセイ・・・)
さて、「幕末太陽伝」は実在した遊郭「相模屋」を舞台に起こる様々な出来事をテンポ良く描いているのですが、60年前の時代劇映画としては些かテンポが早すぎる感じがするので、デジタル化された為、テンポが上がったのでは?と思った次第です。それは兎も角、60年前の作品なのに、年代を問わず今も観客の支持を得ているそうで、こんなのを不朽の名作と言うのでしょうか。
粗筋をWikipediaからコピペしますと・・・
文久2年(1862年)の江戸に隣接する品川宿。お大尽を装って遊郭旅籠の相模屋で豪遊した佐平次は、金がないのを若衆に打ち明け、居残りと称して相模屋に長居を決め込み、下働きから女郎衆や遊郭に出入りする人々のトラブル解決に至るまで八面六臂の活躍をし、果てはこの旅籠に逗留する攘夷派の志士たちとも渡り合うのだ。様々な出来事の末に佐平次は体調を悪くする(労咳、結核?)が、それでもなお「首が飛んでも動いてみせまさぁ」と豪語するのだった。

<スタッフ>

監督:川島雄三画像
脚本:田中啓一、川島雄三、今村昌平
製作:山本武
撮影:高村倉太郎
音楽:黛敏郎
美術:中村公彦、千葉一彦
録音:橋本文雄
照明:大西美津男
風俗考証:木村荘八
特殊撮影:日活特殊技術部
助監督:浦山桐郎、遠藤三郎、磯見忠彦

<キャスト>

佐平次(無一文で豪遊し、居残り金を返済する為に働く):フランキー堺
女郎おそめ( こはると人気を争う女郎):左幸子
女郎こはる(おそめと人気を争う女郎):南田洋子
高杉晋作(相模屋に逗留し同志と英国領事館焼き討ちを計画):石原裕次郎
女中おひさ(父の借金のカタで「相模屋」の女中となる):芦川いづみ
杢兵衛大盡(千葉からやってきた大尽で、こはるの客):市村俊幸
相模屋楼主伝兵衛 (「相模屋」の主人で番頭上がりの婿養子):金子信雄

相模屋お辰(伝兵衛の女房):山岡久乃画像
息子徳三郎(お辰の息子):梅野泰靖
番頭善八:織田政雄
若衆喜助:岡田真澄
若衆かね次:高原駿雄
若衆忠助:青木富夫
若衆三平:峰三平
おくま(相模屋のやりて婆):菅井きん

貸本屋金造(相模屋に出入りのあばた面故アバ金と呼ばれる男):小沢昭一
大工長兵衛(おひさの父。博打好き):植村謙二郎
鬼島又兵衛(長州藩江戸詰見廻役):河野秋武
気病みの新公(佐平次の連れ。無一文で「相模屋」に入る):西村晃
のみこみの金坊:熊倉一雄画像
粋がりの長ンま:三島謙
仏壇屋倉造(こはるの客):殿山泰司
息子清七:加藤博司
志道聞多:二谷英明
久坂玄瑞:小林旭
伊藤春輔:関弘美
大和弥八郎:武藤章生
白井小助:穂高渓介画像
有吉熊次郎:秋津礼ニ
長嶺内藤太:宮部昭夫
岡っ引平六:河上信夫
ガエン者権太:井上昭文
ガエン者玄平:榎木兵衛
坊主悠念:山田禅二
吉原の附馬:井東柳晴
呉服屋:小泉郁之助画像
新造おとら:福田とよ
女郎おもよ:新井麗子
女郎およし:竹内洋子
女郎おてつ:芝あをみ
女郎おうの:清水千代子
女郎おさだ:高山千草
ナレーター:加藤武
私は俳優についてそんなに色々知っている方ではありませんが、黒字にした俳優さんは私でも知ってる男優さん・女優さんで、錚々たるメンバー揃いですね。
そら面白なるわな。スナップ写真を見ただけでもどんなシーンか想像出来て楽しめますよ。
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この映画はコミック化や舞台化もされていて、漫画家や舞台人(劇作家・演出家)の創作意欲をかき立てるのでしょうか。2017年4月から7月迄、宝塚歌劇団雪組公演として宝塚大劇場と東京宝塚劇場でも上演されています。
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上のポスター写真のようにタカラヅカで舞台化されたんですが、この映画には花魁と客との濡れ場など色っぽいシーンがあるんですよ。下司の勘ぐりで<清く・正しく・美しく>のタカラヅカではどないしたんやろと、ふと思いました。でもご安心あれ、下の比較写真のように処理されていました。そら、そうですわな。
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タカラヅカの他、2015年9月に演劇のメッカ、本多劇場でも上演されています。上演台本・演出は江本純子担当で、居残り佐平次:青木崇高、女郎おそめ:- 田畑智子、女郎こはる:MEGUM、高杉晋作:小林且弥というキャストでした。
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それからコミック化もされているんですよ。
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このコミック版『幕末太陽傳』だけでなく、制作過程とそれに至る川島監督の生涯が『栄光なき天才たち』(森田信吾作画・伊藤智義原作)で漫画化されています。(集英社文庫版第2巻)。
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処で、「幕末太陽伝」を見、「このシーン、一寸残念や・・・」と思った場面があるのですが、それは下の写真のようなラストシーンです。
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映画の最後は、こはるに熱を上げるしつこい旦那の杢兵衛を煙に巻こうとした佐平次が旦那を寺の墓場に連れて行き出鱈目な墓を指し、こはるの墓だと騙そうとするのですが、佐平次は結核を思わせる咳をてしまう。そんな顔色の悪い佐平次に杢兵衛は、「墓石を偽ると地獄に落ちねばなんねえぞ」と言い、佐平次の労咳を天罰だと罵る。しかし佐平次は「地獄も極楽もあるもんけえ。俺はまだまだ生きるんでえ。」と捨て台詞を吐き、海沿いの道をどこ迄も走って逃げていくのです。しかし脚本のラストシーンは、【佐平次が杢兵衛に背中を向けて走り始めると、墓場のセットが組まれているスタジオを突き抜け、更にスタジオの扉を開けて現代(昭和32年)の街並みをどこ迄も走り去って行き、佐平次が走り去って行く街並みはいつかタイトルバックに登場した北品川の風景になり、その至る所に映画の登場人物達が現代の格好をして佇み、ただ佐平次だけがちょんまげ姿で走り去っていく】というものだったそうです。これを読んでナットク、納得致しました。このラストシーンは、川島監督が従来から抱いていた<サヨナラだけが人生だ>という逃避願望的人生哲学や、それと相反する形での佐平次に託した力強さが時代を突き抜けていくというダイナミックなシーンになる筈だったのですが、現場のスタッフ、キャストから余りに斬新すぎると反対の声が出、監督が自らの理想像と見なしていた佐平次役のフランキー堺迄反対に回り、結局現場の声に従わざるを得なかった由。しかし、フランキー堺は後に、「あのとき監督に賛成しておくべきだった」と語ったそうです。いやあ、脚本通りのラストシーンを見たかったですね!
処で先ほど触れた漫画『栄光なき天才たち2』のラストは、川島監督が現代の日本にひょっこり現われるという幻のラストシーンを再現するものになっている由、よーし、このコミックも見てみるか。
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最後に、この女優さん、誰だかお分かりですか?藤竜也さんの奥様になっていらっしゃる芦川いづみさんですよ、ハイ。
ではでは。



袖触れ合うも多生の縁277~吉田神社の境内に隣接し、逆立ちの狛犬が鎮座する宗忠神社とは!?

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画像タイトルバックの写真は、ギリシャはデロス島のポピュラーな観光スポット、ライオンの回廊ですが、このようなライオン像が中国に伝わり唐獅子となり、更に角をはやし狛犬と呼ばれ、唐獅子と狛犬はペアとなり、神社を守護するようになったとの説がありますが、私は違うんやないかと思っています。このことは前回触れましたので、簡単に要約させて頂きますと、日本とユダヤが同じ祖先であると主張されているいう論者さん達によれば、失われたイスラエルの12支族のユダ族のシンボルマークがライオンで、エフライム族(ヨセフ族)のシンボルがユニコーンであり、天皇家はその子孫であるが故にライオンとユニコーンを紋章になさっているのだ!と主張しています。アカデミズムはこの説を全く無視していますが、私はそうかも知れない、いやたぶんそうであろう、さもありなんと思っている次第であります。それは兎も角、上と右の写真は宗忠神社の逆立ち狛犬で、逆立ちする狛犬さんについても以前に書き、逆立ちしている理由を調べてみたのですが、現在は解明していず、調査続行中です。さて、下の数葉の写真は宗忠神社の鳥居や社殿ですが、この神社はどのような神様をお祀りしているのか、又何故吉田神社にぴったりとくっつくよう隣接しているのでしょうか?先ず、この神社が祀っている神様は天照大御神と宗忠大明神なのです。天照大御神は皆様もご存じでしょうから割愛させて頂き宗忠大明神について書いてみましょう。宗忠大明神は、黒住宗忠なる御方が神様として祀り上げられているのです。画像
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黒住と言えば黒住教(くろずみきょう)を思い起こしますよね。そう黒住宗忠さんは天照大御神と八百萬神を信奉し、新興宗教の黒住教を興した方で、この神社は普通の神社ではなく黒住教の施設でもあるのです。(黒住教は天理教と金光教と共に幕末の三大新興宗教と言われています)宗忠は1780年に備前国(岡山県)の神職の家に生まれ、今村宮と言う神社の神職を継ぎましたが、1812年に両親を亡くし自分も病気になってしまいます。そして1814年に、冬至の日の出を拝んでいると天照太神と同魂同体になるという霊験(これを天命直授と言う)を得て病気が完治する体験をしたのです。以来、神人合一を説き、太陽神を中心として、人心をその分霊とする教義を唱え立教したのです。
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話しは宗忠から355年前に遡ります。吉田神道を唱えた吉田兼倶(上のイラスト)が1780年に生まれています。兼倶は吉田神社の神官でしたが、従来の思想である神仏習合と言う概念、つまり神は仏の仮の姿であると言う解釈(本地垂迹、ほんじすいじゃく)は誤りで、仏が神の仮の姿であるとする真逆の神本仏迹(しんぽんぶっしゃく)と言う考えを前面に打ち出し、陰陽道・道教・儒教などを取り入れ、日本古来の惟神(かんながら)の道こそ森羅万象の根源であると説き、神社に伝わる神本仏迹と言う教えを真の宗教と主張し、唯一宗源神道(ゆいいつそうげんしんとう)なる吉田神道を樹立したのです。このような主張に基づき、兼倶は室町中期1484年に、斎場所大元宮(さいじょうしょだいげんぐう。写真下)を吉田神社の末社として建立したのです。
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八角形の本殿に虚無大元尊神(そらなきおおもとみことがみ)を中心にし、周りに八百万の神(やおよろずのかみ)である全国の式内神(しきないじん)3132座を祀り、その奥に天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)を祀っています。兼倶はこうした思想を時の天皇の後土御門天皇(ごつちみかどてんのう)に教示し朝廷や幕府の信頼を得、神祇管領長上(じんぎかんれいちょうじょう)と言う役職に就き、全国の神社を管理し、更に神位の授与も行ったのであります。そして、話しは兼倶から宗忠の高弟である盲目の赤木忠春(下の写真?)へ・・・
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忠春は京に上り都で布教活動をしつつ吉田神道一派に入り、1856年に吉田神社の神祇管領長上から亡き師宗忠に宗忠大明神の神号を貰い、1862年に吉田神社の横に宗忠神社を創建し、1866年には孝明天皇が唯一認めた勅願所(自分専用の祈りの場)となり、公家などにも黒住教が広がって行きます。
あ、逆立ちの狛犬は、兼倶が従来の思想である<神仏習合>を逆さにし<神本仏迹>した事を象徴しようとしたのかも・・・というのは、歴史家でなく劇作家である私の独り善がりな想像的創造力の産物なのでしょうか。
妄想はさておき、赤木忠春は1864年に破門され、尊王攘夷派の志士となり、翌1865年には死んでいるとか。(忠春については資料が少なく詳細不明です)
そうか、こんな経緯で吉田神社と宗忠神社は隣接しているんですね。先日宗忠神社を見つけた時は、なんでこないハグするようにくっついてるやろ???と思たんですが、ナットクです。余談ながら、赤木忠春も忠春社に神としてまつられているのです。
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ではでは、今回はこの辺で。


 



袖触れ合うも多生の縁276~逆立ちしてる狛犬をみたことありますか!?

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これは前回と前々回書いた吉田神社の境内に接していて、吉田神社の境内社かな?と間違って思った宗忠神社の狛犬なんですが、ご覧の通り一角獣(ユニコーン)も獅子(ライオン)も見事に逆立ちしていますね。こんな狛犬を見たの、私は初めてです。そこで一寸調べてみましたが、こんな本を見つけました。
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噺家の三遊亭円丈師匠が日本参道狛犬研究会というのをやっていらっしゃるのですが、そういえば師匠のお顔はシツレイながらどこか狛犬さんに雰囲気が似通っていると思いますが、如何でしょうか。
さて、京都には逆立ちしている狛犬が宗忠神社の他1社だけですが、金沢には結構あり、岡山にも数社あるとか。でも何故、逆立ちしているのかは謎だそうです。参拝する人々を歓迎しているという説もあるそうですが、ほな、逆立ちしてない狛犬は参詣する人を歓迎してないんかいな・・・と突っ込みたくなりますが。金沢と岡山というのも何か気になるので、その内調べてみようと思っています。
処で、『100万人の狛犬講座』なるHPによれば、<国を統治する者は強大な力を得る為、地上最強の動物、獅子(ライオン)の力を宿らせようとするという思想が古くからあり、玉座(王の椅子)の肘掛けに獅子頭を刻んだり、家紋にライオン像を形象したりしています。インドでも仏像の台座にライオンを刻んでいる例があり、これも強い力で仏様を守らせようとしているのです。狛犬研究の先駆者であり神社界の重鎮であった故・上杉千郷氏は、これを「獅子座の思想」と呼んでいます。この思想がインド・ガンダーラを経由し中国に入りますが、中国人は龍や麒麟など様々な霊獣を生み出すのが得意で、獅子も羽をつけたり角を生やしたりし、様々な空想上の生き物に変質させたのです。このようにして形成された唐獅子と一角獣が日本に入り阿吽形に変化して日本独特の「狛犬」となったのは平安時代後期と言われています。つまり、日本の狛犬は天皇の玉座を守る守護獣像として誕生したのです。>
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上の画像は、天皇家の紋章と玉座御簾前の狛犬で、この天皇を守護する狛犬が天皇家に縁の深い神社、例えば京都の下鴨神社などに奉納され、神社に設置されるようになったのです。下の画像は、下鴨神社本殿に安置されていた頃の狛犬と現在は資料室に保管されている狛犬です。
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狛犬って犬だと思っている人がいらっしゃるようですが、そやないんですね。本来、狛犬は獅子と一角獣だったのが忘れられて、阿形も吽形も下の写真の如く、同じような形の唐獅子風狛犬になっているのもあるようです。
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、『100万人の狛犬講座』によれば、中国で獅子が唐獅子となったり、角をはやしたりと書かれていましたが、これは???と私は思います。
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というのは、天皇家の紋章になった獅子と一角獣は、日本とユダヤが同じ祖先であると主張されている論者さん達によれば、失われたイスラエル12支族のユダ族のシンボルマークがライオンで、エフライム族(ヨセフ族)のシンボルがユニコーンであり、天皇家はその子孫であるが故に、ライオンとユニコーンを紋章になさっているのだ!と主張しています。アカデミズムはこの説を全く無視していますが、私はそうかも知れないなと思っている次第であります。
ではでは、今回はこの辺で。



袖触れ合うも多生の縁275~吉田神社にお菓子の神様を祀る末社があるんですよ!~

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ご覧の由緒書きに見られるように、吉田神社の境内社である菓祖神社は、今で言うところのスイーツの神様、田道間守命(だじまもりのみこと)と林浄因命(りんじょういんのみこと)をお祀りしています。
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田道間守命は、垂仁天皇の90年に天皇の命により「非時香菓(ときじくのかくのみ)」、今の橘(タチバナ)を求めよと常世国に派遣され、10年後に非時香菓8竿8縵(やほこやかげ)、葉をとった8枝・葉のついた8枝を持ち帰ったので、果物の祖と言われています。
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又、林浄因命は中国淅江省の人で、貞和5年(1349)年に来日し、わが国最初の饅頭(まんじゅう)を作り好評を博したとか。菓祖神社はこの2神を菓子の祖神として祀る社で、京都を中心に多くの菓子業界の方々から信仰を集めているそうです。
処で、私は数年前歌舞伎や舞踊劇など和物にはまっていた時期があり、その頃に田道間守を主人公とする舞踊劇「非時香菓譚(ときじくのかぐのこのみものがたり)」を書いたことがありました。その冒頭、幕開きは・・・

M1・・・・・『 非時香菓之序曲(ときじくのかぐのこのみじょきょく) 』(邦楽風楽曲)

M1流れ暫しあって語りが始まる。M1は背景音楽として保つ。

   「時は昭和十七年春三月、処は本邦に初めて橘の木が植えられた紀国(きのくに)は熊野古道に程近 い六   本樹の丘である。我が国に非時香菓、即ち橘の木と実を持ち帰った田道間守命を称えた歌が国民学校初    等科第三学年、今の小学校三年生の唱歌として制定されたのを祝し、唱歌舞踊が学童たちにより奉納され   んとしているのである。」との男声語り。

M1、高揚し幕が開く。
舞台は「田道間守偉功之碑」と「偉哉田道之績(いなるかなたみちのいさおし)」の二つの碑が立つ「六本樹 の丘」。

M2・・・・・・・『 田道間守 』(国民学校唱歌編曲舞踊曲)

[]香りも高い橘を 積んだお船が今帰る
 君の仰せをかしこみて 万里の海をまっしぐら
 今帰る 田道間守 田道間守

[]おわさぬ君の陵(みささぎ)に 泣いて帰らぬ真心よ
 遠い国から積んで来た 花橘の香(か)とともに
 名は香る 田道間守 田道間守


この舞踊劇は残念ながら上演されていませんが、それは兎も角、昔は非時香菓(ときじくのかくのみ)と呼ばれていた果物が、橘と言われるようになったのは、田道間守が持ち帰った植物が植えられ、花が咲くと、咲いた花を<たぢまもりばな>と呼び、それが<たぢまばな>→<たぢばな>→<たちばな>となったのです。
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こんな謂われを記憶していたので、田道間守を祀る菓祖神社に一度詣ってみたいと思っておりましたので、念願が叶い、良かったと思う次第であります。
ではでは、次回は吉田神社に隣接する不思議な神社について記したいと思っております。

袖触れ合うも多生の縁274~吉田神社って女優の吉田羊さんとカンケーないですよ。分かってるわ!~

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上の写真は吉田羊さんですが、下のイラストが誰かと言うと、吉田兼倶(よしだかねとも)なんです。え、吉田兼倶て一体全体誰なんや?

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二人がどないな続柄かと言うと・・・
ええとですね、兼倶さんは中央の下の方に、兼好さんはその少し上の左に書かれておりますが、どないな続柄かと言うと・・・あのですね、ここに書くのは一寸面倒なんで、この系図、結構見にくいですけど、良かったら兼好法師さんと神道家の兼倶さんがどないなカンケーなのか、ご自分で調べてみておくれやす。

ま、それは兎も角、つれづれなるままにひぐらし硯に向かいて 心に移りゆくよしなしごとをそこはかとなく書き綴れば あやしうこそ物狂おしけれ・・・

徒然草の冒頭は多分、こうやったんやないかと思いますが、確認してませんので、間違うてたらスンマセン。それは置いといて、蝉の蜩(ヒグラシ)はカナカナと鳴いてませんでしたが、春の一日、ひがな京都の吉田神社に行って参ったのであります、ハイ。

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ご覧の画像は吉田神社の本宮ですが、吉田神社は清和天皇の貞観元年四月(859年)に中納言藤原山蔭が平安京の鎮守神として、都城の東北(鬼門)比叡の山とともに王城の鎮護と崇められている地、吉田山に創建されたのです。あれ、吉田神社て吉田兼倶が創建したのやないんですね。はい、吉田兼倶(生誕:永享7年(1435年、死没:永正8年2月19日(1511年3月18日)は斎場所大元宮(さいじょうしょだいげんぐう。 祭神:天神地祇八百万神)が、昔左京室町に在ったのを後土御門天皇の文明十六年(1484年)に現地に造営し、何と伊勢神宮の大反対をものともせず、延喜式内社全3132座の天神地祇八百万神、全国各地の神々を祀り、吉田神道の根元殿堂として道を説き、吉田神道の経典である『唯一神道名法要集』(下写真)を著し、神祇道の振興に大いに貢献したのであります。
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処で、斎場大元宮は下の画像のように、八角形の本殿に六角の後房を付けた極めて特異な形をしており、明治35年(1902年)に重要文化財に指定されています。尤もこの社殿を造営したのは吉田兼倶ではなく、造営年代は慶長6年(1601年)と推定されています。
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この重要文化財である大元宮は結構見応えがありましたが、私が是非見たいと思っていたのは、この末社や本宮ではなく、永正10年(1513年)に創建され、 吉田兼倶を神龍大明神として祀っている神龍社なのです。
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この案内図は境内にあるものではなく、PCの画像検索で見つけた物ですが、現地の案内板では新龍社の場所は書かれているものの、新龍社への階段は消えておりどう行けばよいか不明でした。
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道が分からぬ儘、ままよと余り整備されているとは言い難い階段の段数を数えつつ上ると、丁度100段ありましたが、辿り着いた鳥居の表には新龍社との扁額もなく、勿論裏にもないのです。
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そして鳥居をくぐると、鳥居の正面ではなく、左へ直角に曲がった小さな祠があり、この祠にも何の表示もないのです。これって、一体どういうことなのでしょうか!?吉田神道を興隆させた吉田兼倶を神として、新龍大明神として祀っているには余りにお粗末・・・と思わざるを得ませんでした。
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これには何か訳があるのでは・・・と訝りつつ足元の悪い100階段をヨロヨロと降りたのであります。
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そして、階段下で見つけました。新龍社折れた由緒書の柱を。
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嘗ては上のような由緒書が存在したのでしょうが、大風の為か或いは人為的にか分かりませんが、由緒を隠すかのように思えて成りません。現在、吉田神社は神宮(伊勢神宮)を本宮と頂く神社本庁の傘下に所属しているので、伊勢神宮と敵対した吉田兼倶は忌むべき存在なのかも知れませんが、これでは兼倶の霊は浮かばれないのでは・・・と憮然たる面持ちで折れた柱の写真を撮っている私の背に通りがかった幼稚園児(境内にある吉田幼稚園の子供達か)が、「こんにちわ!」と口々に声をかけてくれ、私は振り向き「はい、こんにちわ!」と挨拶を返したのです。近くに私以外の参拝者もいらっしゃるのに、子供達が挨拶したのは私だけにでしたから、近くにいた方々はこの爺さん、幼稚園のセンセーやろか・・・と思われたのでは無いでしょうか。ま、いずれにしてもさわやか園児のお陰で気を取り直し、他のお目当てである菓祖末神社などの末社に足を運んだのであります。その話しは又、次回に。

袖触れ合うも多生の縁273~露の団姫さんって尼さんの落語家をご存じですか!?

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ご覧の写真が露の団姫(つゆのまるこ。本名鳴海ハトル)さんです。確かに噺家さんのようやけど、本当に尼さんなんやろか?剃髪してないもんね。
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あら、ホンマや。彼女は法名春香さんちゅう歴とした天台宗の僧侶で、落語をする時はウィッグを被ってるはるそうです。処で私が団姫さんの事を知ったのは、「聖(セイント)尼さん ~クリスチャンと僧籍女子が結婚したら~」(春秋社刊 2017年11月20日)という本でなのです。
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な、何やて、尼さんの落語家いうだけでも珍しいのにダンナはクリスチャンやて!?こんなサブタイトルに引きつけられて一気に読破してしまいましたが、読んでみると団姫さんのハズバントはキリスト教徒で、しかも豊来家大治朗さんという太神楽曲芸師なんです。太神楽というと、故海老一染太郎・染之助さんがやってた、蛇の目傘の上枡を乗せて回したりするあんな芸ですわ。
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大治朗さんも傘回しをやりはるようですが、彼の得意芸は刃の輪くぐりなんです。
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さて、露の団姫さんと豊来家大治朗さんは、相手がクリスチャンであり僧侶であることを知らずに結ばれたのでは無く、お互いの宗教が異なることを知っていても、尚且つ結婚されたのです。
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従って、キリスト教式と仏式と二度結婚式を挙げられたのです。そして、夫婦生活を始められたのですが、結婚してから分かったのですが、ダンナさんは発達障害だったのです。ダンナさんは自分でも発達障害とは全く知らなかったとか・・・。
さあ、宗教が異なるだけでなく、メンタルな問題も抱えて、お二人が奮闘されるユーモラスな生活ぶりを、良かったら一読してみて下さい。落語家だけにオチを各所にはめ込んでの平易な文章は楽しめますよ。
ではでは。

袖触れ合うも多生の縁272~東京五輪の前に、大爆発した福島第一原発の双葉町・大熊町に帰還せよ!~

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平昌五輪が終わり、パラリンピックがたけなわですね。そして次は北京五輪、いえ、東京五輪です。処で現在、2020年夏を迎えるまでにしゃかりきになっている人達が大勢いてますよ。国立競技場他、色々な施設の建設もそうですが、それはオープンにされています。でも出来るだけ目だ立たないように、余り世間に知られないように、極秘と迄はいかないものの、そっとそーっと進められていることがあるのです!とまあ、こんな前振りで、次の画像をご覧下さい。
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ご覧頂いた画像は福島第一原子力発電所の爆発とその後の惨状及び帰還困難区域となり、「原子力 明るい未来のエネルギー」というま空々しい標語が何とも虚しく、クルマ一台ヒト一人も寄せ付けぬ寒々しいゴーストタウンの有様です。あれから7年、今や汚染状況は安全に除染されている!と国と県はまやかしのキャンペーンに大わらわですが、ほんまに安全なのでしょうか!?
この事故前、国の安全基準は年間1ミリシーベルトだったのに、国は御用学者を操り、年間20ミリシーベルト迄何ら害は無い!と、何の根拠もなしに安全値を引き上げ、子供を含む住民を帰還させ、復興を演出しようとしているのです。
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これは復興庁が認定した「特定復興再生拠点区域復興再生計画」の復興拠点地図です。この計画では、2019年に避難指示解除準備地区への立ち入りを自由化し、2020年には産業交流センターや復興祈念公園を整備し、2022年には居住を開始するというのです。この案件2017年9月21日に双葉町の伊澤史朗町長が申請、同年10月20日に大熊町の渡辺利綱町長が申請し、申請を復興庁が受けて認定したという形式にされています。しかし、これは明らかに国からの指示でしょうね。
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吾等のアベソーリは、2020年のオリンピック迄に「フクシマはアンダーコントロール」されているとの擬態を世界に示したいのです。オリンピック・パラリンピック誘致のブレゼンテーションでのべた事は嘘じゃないと示したいのでしょう。かくもあざとい復興計画で居住する未来を担う子供達が、健康被害を受けないことを願うばかりです。
処で、この突然浮上した復興計画について、<DAYS JAPAN 2018 FEB>に詳しく載っていますので、詳細は同誌をご覧下さいますよう。
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袖触れ合うも多生の縁271~竹原ピストルさんって<プロの頑張り屋>なんです!!!~

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この画像は竹原ピストルさんのプログの背景画ですが、彼のプログ「流れ弾通信」は流れ弾なんてもんやのうて、直撃弾のように人の胸をダイレクトに打ち響きますよ。
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ブログ冒頭、トップページの画像が上の写真ですもんね。カテゴリーも多彩で、日記・自由律俳句集・ポエム流れ弾・読書完走文・画廊流れ弾など、ほんまにユニーク満載でっせ。
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上のは画廊 流れ弾に陳列されている自画像で、前座の神様・ドサ回りの鬼・当日券の虎・瀕死の不死鳥、他(全て自称)とのキャプションが付けられています。それから下は同じく画廊で見る事の出来る「鯉のぼり」です。
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処で、私がフームと唸った日記の一ページをコピペしてみますと・・・
2017-03-05の日記、『プロの頑張り屋』〜“あの人”に心からの誓いを込めて〜
時々、“普段も会ったり、連絡とったりしてるの?”というような質問をされたりしますが、お忙しいでしょうし、おそれ多さもあり、基本、そのようなことはありません。
ただ、良い報せができる時だけは、こちらから、主にメールですが、恐縮ですが、連絡させていただいています。
“あの人”はいつも、もったいないくらいあたたかなお言葉で、讃えて下さいます。
この度も、出演させていただいた映画、西川美和監督作品『永い言い訳』において、役者としての賞をいただくことが決まったとき、“あの人”に報告のメールをさせていただきました。
書き方としては、“映画に出させていただいて、役者としてこれこれこういう賞をいただきました。本業である、歌でも活躍できるように頑張ります。”というものでした。
それに対する“あの人”からの返信は(要約したものではありますが、)、“本業は歌だとか、役者だとか、そういうことではなく、我々の本業は、一生懸命頑張ることだと思う。ぼくもプロの頑張り屋であろうと思いました。おめでとう。”というものでした。
“プロの頑張り屋”というフレーズに、すとーん!と音が聞こえてきそうなくらい、全てがすとーん!と腑に落ちました。ぼくにとって、揺るぎなくしっくりと自信を持って披露できる出し物は、どうにもこうにも、歌です。そこが変わることはないと思います。
それでいて、自分が理屈抜きで夢中に、精一杯になれる事柄ならば、垣根なく、理屈抜きで夢中に、精一杯、取り組んでいこう、という覚悟を決めることができました。明日、ぼくがいただけるチャンスは歌うことでしょうか、お芝居をすることでしょうか、与太話を飛ばすことでしょうか。いずれにしても、理屈抜きで夢中になって、精一杯、挑戦していこうと思います。そして、何らかの結果を残していけたらな、と思っています。
かってから、竹原ピストルを、あれだけ薦めて下さっている、チャンスを下さっている、“あの人”を、、、、スベらない男を、スベらせるわけにはいかないんです。
こいつはここだけの話。


『永い言い訳』にて、本木雅弘さんは第71回毎日映画コンクールの男優主演賞を、竹原ピストルさんは、第90回キネマ旬報ベスト・テン助演男優賞と第40回日本アカデミー優秀助演男優賞を獲得されています。
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もっくんも、竹原ピストルさんを強力にバックアップされているお一人ですが、日記に書かれている<あの人>はもっくんじゃなく、どなたなのか知りたいところですが、誰なのかは書かれていません。ま、そんなことよりも、<プロの頑張り屋>というフレーズがすとーんと腑に落ちたというのは如何にも竹原ピストルさんらしいと思います。彼はこれ以前から頑張り屋でしたし、これ以後も、この先ずっとずっとプロフェッショナルな頑張り屋でありつづけられるでしょう。そや、NHKの「プロフェショナル」なる番組に取り上げられるかもネ・・・。
さあ、今年の竹原ピストルさんの頑張りに期待して、ではでは今回はこの辺で。

袖触れ合うも多生の縁270~大杉漣さんが心筋梗塞で!私の袖触れ合った人達も・・・

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ご覧の写真は大杉漣(おおすぎ・れん、本名孝=たかし)さんです。大杉さんは「HANA―BI」など北野武監督(71)の映画をはじめ、数多くの作品で名バイプレイヤーとして圧倒的な存在感を示し続けていましたが、先月21日午前3時53分、急性心不全のため死去されました。66歳とまだまだ若く衝撃的で多くの共演者の方々が、お悔やみのコメントに窮しておられる有様でした。2月10日に私のブログで取り上げさせて貰ったTV東京のドラマ「バイプレイヤーズ〜もしも名脇役がテレ東朝ドラで無人島生活したら〜」の収録後に松重豊(55)さんら共演者と夕食を共にし、ホテルの自室に戻ったところ腹痛に襲われ、LINEで「具合が悪い」と大杉さんは訴えたそうです。異変に気付いた松重さんがタクシーで千葉県内の病院に連れて行ったものの容体は好転せず、松重さんの知らせを受けて病室に駆けつけた光石研さん(56)、田口トモロヲさん(60)、遠藤憲一さん(56)達に看取られ息を引き取られたそうです。
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大杉さんの死因として発表された「急性心不全」は心臓の機能が止まった状態で、福田医院(横浜市)の福田伴男院長は、「急性心不全の原因は動脈硬化から血管が詰まっての心筋梗塞か、不整脈の一種である心室細動のどちらかがほとんど」と指摘されています。心筋梗塞も不整脈も心不全に至る前に「放散痛」という痛みが体の各所に生じることがあるとか。漣さんは「お腹が痛い」と訴えていましたが、「みぞおち、肩甲骨、腕、背中、歯など痛みは様々な場所に生じ、時には腰や脚が痛いと訴えた人が心筋梗塞の場合もあり、どこかが痛いと言う患者さんは心筋梗塞も疑うのが医者のセオリー」と福田院長は仰っています。(Sponichi Annexによる)
処で私は、大杉さんとお逢いしたことが無く出演された作品を通じての袖触れ合いなのですが、過去に2人、長い年月親しく袖触れ合いさせて頂いていた方を見送っているのです。お二方とも大杉さんと同じく心筋梗塞で突然死でしたから、今回の漣さんのことで過去の2004年と2009年のことがまざまざと思い出され衝撃でした。
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2004年に急逝されたのは野尻憲司さんというOSK日本歌劇団(現在のOSKではなく親会社が松竹、日本ドリーム観光、近鉄へと移転した組織)の制作マンで、私はフリーランスでしたが座付きのように作・演出をさせて頂いておりました。下の写真は松竹座時代のボスター、大阪劇場の偉容、大劇の豪華絢爛たるレビューのワンシーンですが、野尻さんと私が出逢ったのは大劇最後の頃でした。
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しかし程なく大劇が閉鎖され、あやめ池円形大劇場が本拠地と成り、その後近鉄劇場が誕生するのですが、それはさておき、野尻さんは人事異動で日本歌劇学校の事務局課長になり、私は近鉄本社から要請され校長に就任したのですが、2003年にOSKは解散してしまい、これで彼と縁が切れたかな・・・と思ったのも束の間で、熱烈なファンの方々のサポートで市民劇団として新たにスタートし、彼は養成所の職員となり、私は演劇講師となったのであります。ま、どのような立場であれ、40年にわたる仕事仲間にして飲み友達でした。彼が亡くなる3日前もあやめ池駅前のフランスという店で、NEW OSKの今後について話し合ったのですが、彼はNEW OSKの将来を見ることなく旅立ってしまいました。そうそう、私は悪筆でPCやワープロのない頃、原稿の字が読みにくいと多くの方達から文句を言われていたのですが、野尻さんだけは私の踊るような字を判読できたのです。処で、野尻さんは亡くなる前、左の胸で無く右胸から右脇にかけてが痛いと言っていたとか。いずれも放散痛なのでしょうね。野尻さんについで2009年に亡くなった人からは放散痛の話を聞いていないのですが、亡くなる前日の夕方、電話で入浴中に亡くなった人の話をしていたそうです。そして翌朝入浴中なられたのです。このお人は何を隠そう、私の義母なのであります。義父と義母は明石に住んでいましたが義父が亡くなったので、私達の住まいる近く、スープの冷めない距離へ義母に引っ越して貰いました。わが嫁サンは毎日のように夕食を届けていましたが、亡くなる前日、義母は叔母さんと電話で入浴中に亡くなった人の話しをしていたとか。こんなのも、ムシの知らせと言うのでしょうか・・・。義母は家事を手伝って下さるヘルパーさんに風呂場を洗って貰う為、朝風呂に入るのを習慣にしていたのです。ヘルパーさんが来られた時、義母は湯船で倒れていて救急車で運ばれたものの、間に合わなかったのです。急死でしたが、本当に安らかなお顔だったのが不幸中の幸い・・・と思った次第です。義母は日頃、放散痛めいたことは何も言ってなかったのですが、前兆が全くない無いことも時にはあるようですね。
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義母の死後、PCで心筋梗塞の前兆について検索すると、左手の小指痛というのがあり、なな何と!と吃驚でした!と言いますのは、私がサラリーマン1年生の頃、勤務中猛烈に左手の小指が痛みに痛み、堪えきれず早退し済生会病院に行ったのですが、50年も前ですので、寝違いか肩こりからきてるのかな?と診断で、いつの間にか収まってしまいました。あの時、23歳と若かったのに私の心臓はSOSを発していたのでしょう。それからずっとずーっと、何事もなかったのですが、歌劇学校校長の時、会社の検診があり、初めて心電図を撮った時、私の心電図を見た看護師さんが慌てふためいて、「センセー、早よ来て下さい!」と医師を呼んできたのです。そしてその先生曰く、「心臓がキューつと痛くなることがありますね。」「いいえ、全く、全然ありませんわ。」と私が答えると、先生は何とも不可思議な面持ちで、「ふーん、そんなことあるんかいな・・・」と疑い深そうでした。
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その後掛かり付けの医院で心電図を撮ると、医者はいつも、「こういう症状なのにどうもないという事もあるんでしょうが、お大事にして下さい。」と言われるのです。ですから私は癌でなく心筋梗塞で亡くなると思っています。しかし、皆様に突然の訃報をお届けしないよう、精々用心している次第であります。
ではでは。

袖触れ合うも多生の縁269~2月23日って何の日なの!?~

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昨日2月23日は富士山の日なんですって。でも私が今日、ブログに取り上げようとしているのは、その事じゃないんです。再来年から2月23日が天皇誕生日になるのであります。
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平成の天皇誕生日は12月23日で、今年も勿論12月23日が天皇誕生日です。私なんか戦争中の昭和生まれは天皇誕生日と言えば4月29日、今の昭和の日を思ってしまいます。
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私の子供の頃は、天皇誕生日だけでなく、祝日は旗日といって、国旗を掲げたのですが、今やそんな風習も余り見られませんね。
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上の写真は、私の家やおまへんで。どっか知らん家ですわ。ま、それはさておき、今上天皇の退位は来年4月30日で、浩宮徳仁親王が天皇に即位なさるのは5月1日です。すると来年12月23日は新天皇誕生日じゃないし、新天皇の誕生日は2月23日で即位された時点では過ぎてしまっているから、来年は天皇誕生日がないという事になるのです。学童諸君は休みが一日減った・・・と嘆くかも知れませんが、仕方ないですね。閑話休題し、本題に移ります。
先日のブログで今上天皇の御退位について書きましたが、今回は別の視点から取り上げてみます。少し長いですが、お言葉の全文を毎日新聞からコピペさせて頂きます。

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戦後七十年という大きな節目を過ぎ、二年後には、平成三十年を迎えます。
私も八十を越え、体力の面などから様々な制約を覚えることもあり、ここ数年、天皇としての自らの歩みを振り返るとともに、この先の自分の在り方や務めにつき、思いを致すようになりました。

本日は、社会の高齢化が進む中、天皇もまた高齢となった場合、どのような在り方が望ましいか、天皇という立場上、現行の皇室制度に具体的に触れることは控えながら、私が個人として、これまでに考えて来たことを話したいと思います。
即位以来、私は国事行為を行うと共に、日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索しつつ過ごして来ました。伝統の継承者として、これを守り続ける責任に深く思いを致し、更に日々新たになる日本と世界の中にあって、日本の皇室が、いかに伝統を現代に生かし、いきいきとして社会に内在し、人々の期待に応えていくかを考えつつ、今日に至っています。
そのような中、何年か前のことになりますが、二度の外科手術を受け、加えて高齢による体力の低下を覚えるようになった頃から、これから先、従来のように重い務めを果たすことが困難になった場合、どのように身を処していくことが、国にとり、国民にとり、また、私のあとを歩む皇族にとり良いことであるかにつき、考えるようになりました。既に八十を越え、幸いに健康であるとは申せ、次第に進む身体の衰えを考慮する時、これまでのように、全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが、難しくなるのではないかと案じています。

私が天皇の位についてから、ほぼ二十八年、この間(かん)私は、我が国における多くの喜びの時、また悲しみの時を、人々と共に過ごして来ました。私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。天皇が象徴であると共に、国民統合の象徴としての役割を果たすためには、天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。こうした意味において、日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じて来ました。皇太子の時代も含め、これまで私が皇后と共に行(おこな)って来たほぼ全国に及ぶ旅は、国内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井(しせい)の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした。

天皇の高齢化に伴う対処の仕方が、国事行為や、その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには、無理があろうと思われます。また、天皇が未成年であったり、重病などによりその機能を果たし得なくなった場合には、天皇の行為を代行する摂政を置くことも考えられます。しかし、この場合も、天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま、生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません。
天皇が健康を損ない、深刻な状態に立ち至った場合、これまでにも見られたように、社会が停滞し、国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます。
更にこれまでの皇室のしきたりとして、天皇の終焉に当たっては、重い殯(もがり)の行事が連日ほぼ二ヶ月にわたって続き、その後喪儀(そうぎ)に関連する行事が、一年間続きます。その様々な行事と、新時代に関わる諸行事が同時に進行することから、行事に関わる人々、とりわけ残される家族は、非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません。こうした事態を避けることは出来ないものだろうかとの思いが、胸に去来することもあります。
始めにも述べましたように、憲法の下(もと)、天皇は国政に関する権能を有しません。そうした中で、このたび我が国の長い天皇の歴史を改めて振り返りつつ、これからも皇室がどのような時にも国民と共にあり、相たずさえてこの国の未来を築いていけるよう、そして象徴天皇の務めが常に途切れることなく、安定的に続いていくことをひとえに念じ、ここに私の気持ちをお話しいたしました。

国民の理解を得られることを、切に願っています。

処で、この天皇のお言葉について海外メディアは日本のマスコミと異なり、
<安倍首相に改憲を思いとどまるようにとのシグナルを送った>
という解釈を報じています。日本のマスコミはこのような解釈を一切していないのに、海外メディアは何故こう解釈したのか、それについて下記写真の著書にて著者の内田樹さんが論じておられるのをご紹介致しましょう。
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内田さんの論旨を私なりに要約させて頂きます。
そんなに長くない<お言葉>の中で、<象徴>という言葉が8回も使われています。特に印象的なのは、<象徴的行為>という言葉で、陛下は<象徴的行為>を<鎮魂>と<慰藉>であるとお考えです。<鎮魂>とは先の大戦で斃れた人々の霊を鎮める為の祈りで、陛下は死者が息絶えた現場まで足を運び、御霊よ安らかなれと真摯に祈りを捧げられました。
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上の写真はフィリピンで鎮魂の祈りを捧げられる両陛下です。又<慰藉>とは、様々な災害の被災者を訪ね、床に膝ついて傷ついた人々の声に耳を傾け、悲惨な苦衷あふれる思いに寄り添うことで、福島などで被災者の方々に慰めのお言葉をかけ、心安らかにと願われたのです。
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つまり、陛下は、象徴天皇としてただ存在するだけでなく、人々と共苦すること、共に苦しみを分かち合うことを象徴天皇として為すべき行為であるとお考えになり、そして全身全霊をもって行い続けられました。そのような天皇の本務である<鎮魂>と<慰藉>が健康上の理由で困難になっているからこそ、生前退位したい、しなければならない、とのご希望を敢えて語られたのです。

この内田先生の論に私は全く同意でありますが、このような陛下のお考えが、何故<改憲ストップのシグナル>になるのかを次に考察してみましょう。
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現在の憲法第1条は、天皇を「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」であると定義していますが、自民党改憲草案第1条では、天皇は「日本国の元首」と変えています。又、現行憲法第7条では、天皇の国事行為には「内閣の助言と承認」が必要とされているのに対し、改憲草案では、単に「内閣の進言」とされていて、内閣の承認が無くても衆議院の解散など国事行為が出来るように変えられています。上の画像、改憲草案要点第1条に、<国家を代表する政治的機能を与えている>と纏められているように、戦前の天皇親政に戻そうと企んでいるのです。
しかし、本当にこの国の政治を天皇に委ねようとしているのでは無く、天皇を御簾の内に祀りあげ、陛下の発言や行為を封じ、上奏できる少数の権力者が天皇の威を借り、「畏れ多くもかしこき辺りにおかせられましては・・・」と超憲法的権威を振り回そうとしているのです。このように改憲、いや壊憲したい安倍ソーリにとっては、天皇自らが生前退位の発言をしたり、飾りの象徴に収まらず、<鎮魂>や<慰藉>を行うのは大層困ったことなのです。このような意味合いから、陛下は、「代々天皇は向後も単に象徴であってはならず、国民と共にあり続けねばならない」とのご意向を発言なされ、暗に改憲反対の意志を示されたのです。
これに対し安倍ソーリは、生前退位は一代限りとし、陛下の思いをないがしろにやり過ごし、傀儡天皇にすべく虎視眈々と改憲を目論んでいるのです!
しかし、今上陛下のお考えは、新天皇に伝えられている筈ですから、改元後の改憲がどうなっていくのか、新天皇がどのようにお考えになり如何様に振る舞われるのか、少しでも長生きして見続けていきたいと思っております。ではでは。
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袖触れ合うも多生の縁268~竹原ピストルって凄い、凄すぎますよ!!~

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一番上の画像は、昨年末の紅白歌合戦で歌う竹原ピストルさんですが、その下のライブでの怒りをぶちまけるような歌いっぷりを見ると、私は泉谷しげるさんを思い出してしまいます。でも彼は、決して怒りっぽい人では無く、下の写真のように笑顔の優しい真面目過ぎるほどマジメで几帳面な誠実なお人柄なのです。あ、そうそう、泉谷さんもほんまは優しいシャイな人なんですよ。
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処で、私が彼に注目しはじめたのはTV東京の「バイプレーヤーズ」というドラマのエンディングで、竹原さんが汗をかきかき青筋を立てて自分の持ち歌「Forever Young」をしゃかりきに歌っている前を、バイプレーヤーズの錚々たる俳優さん達が次々と、彼に一瞥をもくれず知らぬ顔の半兵衛で去って行くシーンがメチャ面白かったからです。
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以来ウォッチングし続けてきましたが、竹原ピストルさんの歌は弾き語り・フォークという枠を軽々と飛び越え、圧倒的な声と言葉を、ドラマチックかつ泣けるサウンドにのせて届けるはかりしれない力を持ったJ-POPで、何度かの挫折や裏切りを経、いつしかチャレンジをおそれ、生きがいを見失いがちな全ての人に送る応援歌であり、優しさと慈しみを讃えた圧倒的な声と言葉で避けてはいけない現実を歌い、生きることへの意味を覚醒させるのです。ま、いくら言葉を尽くしても聞いて見ないと分からないと思いますが、彼を自作の映画に起用し、応援し続ける松本人志さんは、「竹原ピストルの歌を聴いて、何も感じない奴はそらオカシイ」とコメントしています。ま、兎に角一度お聴き下さい。

さて、竹原ピストルさんの経歴は・・・
1976年 12月27日 千葉県千葉市に生まれる。
1995年 高校入学と同時に部活で始めたボクシングの体育推薦で、北海道道都大学に進学しボクシング部主将を務め、全日本選手権に二度出場。
1999年 大学で知り合った濱埜宏哉(ハマノヒロチカ)と弾き語りデュオ、野狐禅(ヤコゼン)を結成。ボーカル、アコースティックギターを担当。(野狐禅というデュオ名の由来を私は知りませんが、なんだか曰くありげな名前ですよね。その内調べてみますわ)
2003年 メジャーデビュー。年間約200本のペースでライブ活動を展開。
役者として熊切和嘉監督作品、『青春☆金属バット(2006年公開。主演)』『フリージア(2006年公開)』『海炭市叙景(2010年公開)』に出演。松本人志監督作品、『さや侍(2011年公開)』に出演。
イラスト詩集、『片岡は夏のにおい』を発表(2006年)。
絵画展、『画家じゃあるまいし』(2007、2009、2010年)を開催。
イラストレーター、フクマサ“BBG”リョウジとポストカードユニット、白木ボクシングクラブを結成。
THE BEAT GENERATIONのボーカル、佐伯憲陽と共同で『朗読会 pound for pound』を開催(2008年~)。
2009年 4月、野狐禅を解散。ソロでの表現活動を開始。
とまあ、多彩な活動をしている多才な方なのです。

アルバムも『オールドルーキー』『BOY』『復興の花』『SKIP ON THE POEM』などを出していますが、
『お嬢ちゃん、耳、じゃなくて、心を貸してくれ。あ ? やかましいってか? てめーオモテ出ろ!! そして、愛を語ろう』
というユニークな私の興味をメチャかき立てるネーミングのアルパムもあり、これは全15作71分、魅力満載なのです。今作は彼の持ち味でもあるライブスタイルに組み込まれている朗読と、日常を切り取った歌をおりまぜた充実の15作が収録されていて、無垢で素直な感情、歌うこと本来の楽しさを追求し、朗読あり、歌ありのこれぞピストルワールドなのです!
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そして上の画像は、昨春リリースされた最新アルバムです。因みにどんな曲が収録されているかというと、
1.ドサ回り数え歌
2.虹は待つな 橋をかけろ
3.一枝拝借 どこに生けるあてもなく
4.ママさんそう言った ~Hokkaido days~
5.ぐるぐる
6.一等賞
7.ため息さかさにくわえて風来坊
8.最期の一手 ~聖の青春~
9.ただ己が影を真似て
10.例えばヒロ、お前がそうだったように
11.Forever Young(テレビ東京系ドラマ24「バイプレイヤーズ~もしも6人の名脇役がシェアハウスで暮らしたら~」エンディングテーマ)
12.俺たちはまた旅に出た
13.マスター、ポーグスかけてくれ
等々です。

そして今春には、"GOOD LUCK TRACK"がリリースされるとか。竹原ピストルさんの勝手応援団、と言うても私ひとりですが、このアルバムも楽しみにお待ちあれ。
とまあ、今回のブログはこの辺に致しますが、彼について書きたいことはまだまだ有りますので、パートⅡ、いえいえパートⅢもあるやも・・・ではでは。